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東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 花蓮港開港、KANOへとつながる能高団を生んだ江口良三郎 【花蓮縣花蓮市】

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  【花蓮港開港、 KANO へとつながる能高団を生んだ江口良三郎】   日本で活躍している台湾人プロ野球選手は今までに大勢います。そのほとんどが台湾の原住民である事をご存知でしょうか。 運動神経に秀でている原住民にとって、野球は最も得意とする分野です。原住民達の間で野球が広まったのは、日本統治時代の事です。日本でも上映され、台湾通の人達の間では話題になった映画「 KANO 」にも原住民の生徒が登場します。   1906 年 3 月に台湾で最初に野球チームを組織したのは「台湾総督府国語学校中学校」でした。同年、中学校に続き「台湾総督府国語師範部」および 「夜学校台北中学会」が野球チームを結成し、この三校が台湾野球の始まりとなったのです。 その後, 1915 年1月,北部野球協会が発足し、 9 月には南部野球協会、翌年には台中体育会が組織され、台湾の北部、中部、南部の各地を統轄する団体がそろい、台湾の野球はより一層活発に活動できるようになったのです。また、 1920 年には台湾体育協会が組織され、これによって台湾と日本のスポーツ交流が組織制度上可能となりました。   日本では原住民(阿美族)の子供達に野球を広めたのは第5代花蓮廰廰長の江口良三郎氏であると言われています。確かに間違いではなのですが、実は、江口氏が原住民・阿美族の子供達に野球を広めることが出来た陰には2人の人物の貢献があったのです。 その一人が、花蓮出身の漢民族・林桂興( 1899 年生まれ)です。 彼は花蓮商工在学中に野球と出会いました。 1920 年に花蓮商工を卒業した後、花蓮旭組に入社、彼は会社の野球部に所属し野球を続けていました。 1921 年のある日の事、林は舞鶴社(現在の瑞穂)の阿美族の少年達が、小石を投げたり、小石を木棒に当てて目的地点まで飛ばしたりして遊んでいるのを見て、「この遊びは野球に似ている」と興味を引かれました。特に、その中の一人、サウマという少年は小石を剛速球で投げ込み、かつコントロールの良さを見て、その驚異的な身体能力に注目、阿美族少年たちからなる台湾野球史上初めての「原住民野球チーム」を結成、林は自ら監督としてこのチームを指導したのです。その後、チームは地方大会で活躍するようになりました。 ここに一つの逸話をご紹介しましょう。 1923

東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 宜蘭振拓株式會社 花蓮港稲住工場(現、花蓮文化創意産業園区)、王爺を祀った廟 花蓮代天府

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  【宜蘭振拓株式會社 花蓮港稲住工場(現、花蓮文化創意産業園区)】 1913 年、「宜蘭振拓株式會社」が当時の花蓮港廳(県庁に該当します)より 1520 坪の土地を借り受け、「花蓮港稲住工場」を設立しました。当時は,「紅酒」、「米酒」などを製造していました。 しかし、 1944 年,第二次大戰末期,連合国による台湾本土への空爆が始まり、花蓮駐屯の日本軍は、この工場の屋根の上に高射砲を設置し、アメリカ軍の艦載機、爆撃機向けて攻撃をしていましたが、敵機のはるか下の方で爆発している様な状態で、一発も命中しなかったそうです。 逆に、敵機から見れば攻撃目標を誤ることなく爆撃でき、結局、全体の三分之二が破壊されました。   戦後、国民党政府により工場は再開され、酒造が行われていましたが、立地が市内のど真ん中にあるため、汚水処理の問題が発生、さらに、工場自体も飽和状態になっていたため、 1988 年に美崙地区に工場を移転、 60 年余りの歴史に幕が下ろされました。 その後、 10 年近く、工場跡地は放置されていましたが、 2012 年に、一部の施設を改修し、複合商業施設として生まれ変わりました。園内には、飲食店、お土産店、芸術作品の展示販売等々が行われています。 自由街・民国路の方から来ると、文化園の隅に土が小高く盛られた場所がある。これは防空壕の跡です。大型の防空壕で、工場で働いていた人達が空襲の時に逃げ込んだそうです。 これは筆者の個人的な見解ですが、これだけ歴史的に価値のある建造物が残っており、しかも、花蓮市内の中心街に、広大な敷地を持っているにもかかわらず、その利用方法については大いに疑問が残る場所です。非常に勿体ない使い方をしており、この場所の良さを完全に活かしきれていないと言えるでしょう。行政主導型の典型的な例と言えるでしょう。 花蓮縣政府にはもう一度、この場所の有効活用方法を再検討して頂きたいと言うのが筆者の感想です。   【花蓮文化創意産業園区の噂】 戦後、工場の至る所で幽霊騒動があったそうです。「夜中に倉庫の方で瓶の音がするという事で見に行くと、全身血みどろの男が瓶の数を数えていた」とか、「誰も居ないはずの工場から人の声がする」とか、様々な噂が飛び交ったそうです。   *花蓮文化創意産業園区:花蓮市中華路 144 號

東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 花蓮港日本陸軍守備隊駐屯基地(米崙山、現在の美崙山公園)

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  鱉亀山、八利山、八螺山、米崙山、美崙山。これは全て同じ山の名前です。 「鰲魚山」、「八利山」、「八螺山」、「八犁山」、「米崙山」、「美崙山」。これは全て同じ山の名前です。「八螺山」或いは「八犁山」は原住民の言葉で、「 Bazik 」と言います。 米崙山は日本統治時代の呼び名で、 1951 年に美崙山に改名されました。 元々この場所は、原住民によって開墾された場所ですが、海抜 108 mと低いながらも、当時は太平洋が望めた事もあり、また、花蓮市内では一番高台にあるため、清朝時代から「兵農合一制」により農兵が駐屯、その後、日本時代には、新城事件を受けてここに、花蓮港日本陸軍守備隊駐屯基地がおかれました。第二次大戦時には、日本軍が美崙山の麓のトーチカや地下道などの施設を修築しました。戦後、連合国軍も駐屯したことがあり、台湾で唯一、総統府侍衛の墓地があります。 美崙山には、旧花蓮港神社(現、忠烈祠)や先に述べました様に、日本陸軍守備隊駐屯基地がありましたが、現在も山の麓には、中華民国陸軍花東防衛指揮部があり、入り口前には、戦車などが展示されています。 美崙山公園は新興路と尚志路に囲まれており、入口も数か所あります。公園内には全長800mの遊歩道が完備されており、朝夕、散歩を楽しむ人達で賑わいます。 また、日本統治時代から続いているラジオ体操が今も行われており、朝の6時過ぎに行けば、もう沢山の人が朝の散歩を楽しんでいます。ここへ行けば、日本語の出来る方々との出会いもあります。 公園の入り口には、何故か、ミッキーがお出迎え。「何故、ミッキーなの?」という野暮な事は考えないでください。ただそこにミッキーらしきものが居るという程度でスル―して頂ければ幸いです。ここにミッキーが居る理由は諸説ありますが、はっきりとした理由は誰も知りません。深く考えないのが花蓮流。 また、公園に入ると、様々な動物がお出迎えしてくれます。実は、日本統治時代、美崙山(当時は、米崙山と呼ばれていた)の近くに、花蓮動物園がありました。その名残なのかも知れない。 尚、公園内には蛇が生息しているが、その中には毒蛇もいるので要注意です。公園内の看板にはコブラの絵が描かれています。台湾には「台湾コブラ」が生息しています。花蓮にも生息しており、筆者が今までに見た最大の台湾コブラは体

東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 旧花蓮港駅前広場附近 (鉄道文化園、重慶市場、東大門夜市、石藝大街)【花蓮縣花蓮市】

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  人口 31.87 万 (2023 年 3 月 ) の花蓮県。その内、約 10 万人( 2023 年 3 月)が花蓮市に住んでいます。花蓮市の中心街は、中山路・中正路の交差点付近一帯。ここは日本時代から繁華街として栄えた街です。   日本統治時代、花蓮に初めての鉄道の駅が完成しました。当時は花蓮港駅と呼ばれており、駅は今の花蓮駅とは逆の海側にあったため、花蓮の街は、海側から開けていったのです。   1908 年、日本の国会は花蓮・台東間の鉄道と道路の建設許可を出しました。当時の常識では、一旦、台湾総督府を通して建設費用は送金されるのですが、この工事に関しては、日本から直接「鉄道部花蓮出張所」へと送金されたため、同出張所は、当時の地位では、台湾東部の小鉄道部と呼ばれていました。 1910 年に花蓮港駅が開業しました。 開業後は、花蓮港駅周辺には旅館、市場、運輸会社、新聞社、飲食店等々が出来、繁栄を遂げていったのです。 駅前には、鉄道関係者の官舎、鉄道病院、事務所、鉄道保安用の工場が設けられました。 戦争中、アメリカ軍の爆撃を受けた駅舎も、戦後の 1949 年には再建されました。 1979 年 2 月 7 日の和平駅から花蓮新駅までの北廻線の部分開通、さらに、翌年の 2 月 1 日の蘇澳新駅から花蓮新駅までの全線開通に伴い、 1982 年 7 月 1 日、花蓮港駅は廃止、 1992 年 9 月には駅舎も撤去されてしまったのです。出来れば駅舎はそのまま保存して欲しかったというのが、筆者の素直な感想です。 今の中山路・重慶路の交差点付近が花蓮港駅前広場となります。 現在、この旧駅前広場には、東洋で一番大きな御影石の球体が水の力によって回るという噴水があります。その前には、古びた宿(金龍大旅行社)がありますが、日本時代は、この場所に「常盤館」という高級旅館が建っていました。 旧花蓮港駅の駅舎そのものは撤去されましたが、「花蓮鉄道文化エリア(鉄道文化園区)」として、当時の鉄道員の事務所並びに保安用の工場が今も保存され、展示されています。鉄道ファンならずとも、是非、見学して頂きたい場所です。 昔懐かしい道具や機具が数多く展示されている他、日本統治時代の花蓮の街の様子を写真パネル展示されています。 この鉄道文化園区、実は取り壊しの話が浮上していま

東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 福住稲荷跡(長老教会)、介壽眷村、羽鳥医院 【花蓮縣花蓮市】

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  【福住稲荷神社(現、長老教会)】 花蓮市南京街・信義街の交差点に「長老教会」があります。ここは日本統治時代、福住稲荷神社があった場所です。しかし、当時の面影を残すものとしては、たった一基の石灯篭。 外からはこの石灯篭を見ることは出来ません。教会の敷地へ入ると、右手外壁のそばにひっそりと一基だけ建っています。 戦後、福住稲荷神社は取り壊しとなり、そこに、新たに長老教会と幼稚園が出来ました。 その当時の事を覚えている方にお話しを聞いたところ、教会の建築工事の際に、大量の人骨が発見されたそうだ。稲荷神社跡から何故、大量の人骨が発見されたのか、その謎は未だに解明はされていません。神社にお墓は普通の常識では存在しません。発見された人骨は教会で保管しているそうだ。 ここにお墓があったかについても尋ねてみたが、「お墓は別の場所で、神社内にお墓はなかった」との事。 統治時代、この附近は色町として賑わっていました。水商売のお店が多かったことから、稲荷神社が建立されたという理屈は結びつくのだが、果たしてそれだけの理由だったかは、今となっては知る由もありません。     *福住稲荷神社跡:花蓮市信義街 30 號(信義街・南京街の交差点)     【介壽三街の介壽眷村】 花蓮の街を歩いていると目につくのが日本式の家屋。 花蓮にはまだ日本統治時代の家屋が数多く残されています。文化局が保存を決めたものから、一般の人が今でも住んでいるもの、住むものが居なくなり、朽ち果てるのをただただ待つだけというもの、様々である。 古い家なんかに興味がないと言うあなた、そういわずに、一度でいいから見に行ってください。今のうちに見ておかないと、もう二度とみる事の出来ない家屋もあります。保存修復される日本時代の日本家屋は数が限られており、そのほとんどが取り壊しによって姿を消していっています。また、日本ではほとんど見る事が出来なくなった家屋であるのも大きな特徴です。 花蓮の日本家屋は、そのほとんどがセメント瓦です。木材は檜が多く使われています。 日本統治時代初期のころは、日本から杉などの木材を運び込み、瓦葺の家が建てられましたが、花蓮は昔から台風の多い場所で、「台湾の台風銀座通」とも言われるほどです。結局、日本から持ち込んだ杉はシロアリに、茅葺の屋根は台風で飛ばされ