東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 宜蘭振拓株式會社 花蓮港稲住工場(現、花蓮文化創意産業園区)、王爺を祀った廟 花蓮代天府
【宜蘭振拓株式會社 花蓮港稲住工場(現、花蓮文化創意産業園区)】
1913年、「宜蘭振拓株式會社」が当時の花蓮港廳(県庁に該当します)より1520坪の土地を借り受け、「花蓮港稲住工場」を設立しました。当時は,「紅酒」、「米酒」などを製造していました。
しかし、1944年,第二次大戰末期,連合国による台湾本土への空爆が始まり、花蓮駐屯の日本軍は、この工場の屋根の上に高射砲を設置し、アメリカ軍の艦載機、爆撃機向けて攻撃をしていましたが、敵機のはるか下の方で爆発している様な状態で、一発も命中しなかったそうです。逆に、敵機から見れば攻撃目標を誤ることなく爆撃でき、結局、全体の三分之二が破壊されました。
その後、10年近く、工場跡地は放置されていましたが、2012年に、一部の施設を改修し、複合商業施設として生まれ変わりました。園内には、飲食店、お土産店、芸術作品の展示販売等々が行われています。
自由街・民国路の方から来ると、文化園の隅に土が小高く盛られた場所がある。これは防空壕の跡です。大型の防空壕で、工場で働いていた人達が空襲の時に逃げ込んだそうです。
これは筆者の個人的な見解ですが、これだけ歴史的に価値のある建造物が残っており、しかも、花蓮市内の中心街に、広大な敷地を持っているにもかかわらず、その利用方法については大いに疑問が残る場所です。非常に勿体ない使い方をしており、この場所の良さを完全に活かしきれていないと言えるでしょう。行政主導型の典型的な例と言えるでしょう。花蓮縣政府にはもう一度、この場所の有効活用方法を再検討して頂きたいと言うのが筆者の感想です。
【花蓮文化創意産業園区の噂】
戦後、工場の至る所で幽霊騒動があったそうです。「夜中に倉庫の方で瓶の音がするという事で見に行くと、全身血みどろの男が瓶の数を数えていた」とか、「誰も居ないはずの工場から人の声がする」とか、様々な噂が飛び交ったそうです。
*花蓮文化創意産業園区:花蓮市中華路144號
前章でご紹介した重慶市場の隣には、代天府という大きな廟*1があります。
ここは、五府千歳の神々がお祀りされています。
五府千歳とは「李府千歳」・「池府千歳」・「呉府千歳」・「朱府千歳」・「范府千歳」五柱の王爺神のこと。
王爺信仰とは、主として広東・福建省や台湾で信仰を集めている神の名。王爺はある場合には瘟王などとも呼ばれることがある。もともとは瘟神、即ち疫病神であった。明代の筆記「五雑俎(組)」*2によれば、福建の海岸地方には、疫病がはやった時に、疫病神を祀ったあと、これを紙製の船に載せて川や海へ流すという風習があった。これが現在台湾の南部を中心に盛んに行われている王爺の祭り、即ち王醮の起源である。この船が流れついたところでは、また醮*3を行い、さらにはそこに廟を設けることもあった。しかし王爺は単に疫病神であるというだけではなく、玉皇上帝*4の命を受け、人の善悪を監視するために人間界に遣わされてくるという性格があり、そのため王爺を祀った廟は、「代天府」と称される。
「疫病を鎮める神様・王爺だった。台北はもともと水運で栄えた都市で、殊に台北一の港・艋舺(バンカ)(今の龍山寺周辺)には、各国の港から様々な商人や船乗りが疫病を持ち込み、爆発的なエピデミックを何度も起こした。異なる土地の出身者同士の土地争いも壮絶を極め、1853年には多くの死傷者を出す土地戦争が勃発。遺体が腐敗して更なる伝染病が広まった。
そこで泉州惠安出身のひとびとは、郷土神である「王爺」のお神輿をつくり街中を練り歩いた。すると、ある通りでお神輿が止まってしまいどうにも先に進めない。「タンギー」(神との間に介在するイタコのような存在)がいうには、そこにあった古井戸に1000年以上生きたコオロギが閉じ込められており、この度の伝染病を引き起こしているという。
1856年、人々はその古井戸の場所に廟を建て王爺を祀った。すると人々を苦しめていた疫病はウソのように収まり、以来「王爺」は疫病の多い台湾で、絶対的な信仰を集めるようになった。このときに建てられた廟が「青山王祭」の行われる艋舺青山宮で、今も廟に祀られた神像の下には古井戸があると言われている。」
花蓮代天府では、王船と呼ばれる神様の船が奉納されました。
全長42尺(約12.6m)、幅12.8尺(約3.8m)、高さ50尺(約15m)の船で、2013年8月から造船が始まり、2014年3月に完成、同年6月17日に開光点眼が行われました。
*1廟とは元々は、死者を祀る宗教施設。特に各親族集団において祖先を祀るものをいう(仏壇など)。とされていますが、中国において廟とは祖先の霊を祀る場であるが、墓所は別に存在する。その為、仏教における仏壇のような位置づけであるが、仏壇とは違い母屋の中には無く、霊廟専用の別棟がある。祖先を篤く敬う中国では、古代から家中で最も重要な場所とされていた。また、孔子を祀る廟や関羽を祀る廟が各地に多数存在するように祖先の霊だけではなく民衆が敬愛する英雄や古くから信仰される神祇の廟を建立して祀っている事もある。
三教合流(儒・道・仏の習合)の結果、寺院に神祇や聖賢が祀られていることもあり「寺廟」と総称される。
儒教においては、孔子などを祀る廟が学問所などに存在する。有名なものとしては、世界遺産として知られる孔廟、東京の昌平坂学問所(昌平黌)に付属した湯島聖堂がある。
道教においては、各地に、城隍神を祀る城隍廟や、関羽を祀る関帝廟、岳飛を祭る岳王廟などが存在する。
*2五雑俎(組)とは、明の長楽出身の謝肇淛が撰した著作(随筆)で、全16巻。『五雑組』原題は、各種の色彩をとって布を織るという意味である。
*3現在の醮の定義:地域社会が願ほどきのために行う大規模な祭典。台湾の風習として、地方が災害にみまわれて不安に陥ると、天神に対して願いかけをすると同時に将来の加護を祈る風習がある。
*4玉皇上皇とは中国道教における事実上の最高神で、天界または宇宙の支配者であり、その下の地上・地底に住むあらゆるものの支配者でもある。現在も庶民から篤く崇拝されており、民間信仰や、東南アジアなどの華僑の間では最高神として扱われる。
略さない形の名称は高上玉皇上帝。他に昊天金闕至尊玉皇上帝、玉皇大帝、天公などと呼ばれる。
*花蓮代天府:花蓮市明義街1之36號
1951年に撮影された写真。現在は完全に消滅してしまった。場所は、花蓮文化創意産業園区駐車場のあたりと思われる。
コメント
コメントを投稿