台湾近代化のポラリス 潮汕鉄道3 重要な独占権獲得

賀田組事務所2階に集まっている賀田組若手従業員達。目的は、自分達が知らない台湾統治に関する様々な話を聴くことであった。

話をするのは、賀田金三郎。賀田組の社長であり、台湾の近代化に大きく貢献した人物であり、また、台湾初の日本人移民村賀田村を東部台湾の花蓮に作り、それまで未開の地、不毛の地とされていた花蓮一帯を開拓した人物である。

台湾総督府の児玉源太郎総督、佐久間左馬太総督からの信頼も厚く、さらには、本人も崇拝している後藤新平民政長官との関係も非常も深い人物である。

 「さて、愛久澤直哉氏にとっては、呉理卿氏との密約はあるとはいえ、もし潮汕鉄道名義上の代表である張煜南氏の保証を得ることが出来なければ,技師雇用や材料提供の独占権を得ることは難しく、全ての計画が水の泡となってしまう可能性があった。そこで、愛久澤氏は、台湾総督府宛に電文を送り、支援を求めた。電文の内容は、

『汕頭鉄道ノ儀大体ハ過日ノ原則ニテ仮契約調印セリ,但シ資本金二百萬弗ニテ百萬弗ヲ我モ取リ 此二三十萬ハ呉理卿 ニ分ツ名義人ハ林麗生表面理事者ハ呉理卿林麗生ノ内約 又器械賣込ミト日本技師委任ノ件 仲間皆ナ承知スルモ 本鉄道名義人張煜南ヲ介シテ各国ヨリ同樣ノ周旋方依スルノ虞アリ 左スレハ張煜南他ノ事件関係上断リ兼ネル故 幸ヒ未タ申込ナキニ乗シ 日本公使器機技師周旋方商務部ヘシテヨリ張煜南ニ電報アレハ直ク承知ノ旨打電スヘク其上如何ナル側ヨリ張ヲ餘儀ナクスルコトアルモ我ニ口実アルベシ。』というものだった。

 簡単に要約すると、商務部に対し潮汕鉄道事業において日本が技師招聘と機器供給を行い,更に商務部から張煜南氏に他国参入の可能性がないように打電するよう協議することを要請したのだよ。

 しかし、愛久澤氏からの電文を受け取った台湾総督府では、日露戦争寸前で児玉総督は台湾を不在にしており,後藤長官は東京に出張中で留守をしていた。そのため、台湾総督府専売局長の祝辰巳局長と参事官長石塚英蔵官長が対応にあたることにあった。

この電文を受け取った祝局長は愛久澤氏の意見に賛同し,明治37年(1902年)1月28日に東京にいる後藤長官に打電、愛久澤氏からの要請を至急に協議検討する様に求めた。電文を受け取った後藤長官は直ぐに各方面へ対応をする様に動かれた。

一方、祝局長は事態の重要性を考え、同年2月3日に再度後藤長官に打電し,愛久澤氏に対して次のような助言をするように求めたられた。

 『汕頭鉄道ノ件外務省ノ意見カ公使ニ訓スルノ価ナシトシテ此侭打過クルトキハ本鉄道ノ許可張煜南ニ下ルヲ知リ他ノ外国人ヨリ北京ノ大官ヲ通シ又ハ直接本人ニ技師器械賣込ヲ申込ムヘク本人ハ他ノ事業関係上之ヲ排シ愛久澤ニ任スルコト能ハサルニ至ルヘシ此際愛久澤ニ電訓ノ必要アリ次ノ要点ニ付キ何レニスヘキカ御指揮ヲ抑ク一愛久澤請求ノ電報北京ヨリ発セシムルコトナクシテ技師器械ノ優先権ヲ我ニ与フルコトヲ必要条件トシテ本契約ヲ結フヘシ若シ優先権ヲ与ヘヌトナレハ本鉄道ヨリ全ク手ヲ引クヘシ

. 請求ノ電報ナキ為メ優先権ヲ得ラレサルモ資本金分担又ハ貸付丈ニテ宜シ進行スヘシ』

 この電文からもわかるように、愛久澤氏、祝局長は呉氏との密約だけでは不十分で、日本政府側から働きかけが無ければ、最悪の場合は、他国に本件を取られてしまうという危機感を感じていた。

元々、潮汕鉄道の事業は、華南地区での影響力を拡大することであり、その参謀本部的働きを台湾総督が担うことであった。故に、本件が失敗した場合、華南地区への影響力の問題以上に、台湾総督府の威信が失墜してしまうことにも繋がると祝局長は考えた。

しかしこの時、外務省政務局長だった山座円次郎局長は,この問題に対し,積極的な支持や反応を示さなかった。山座氏は2月19日に以下のような電報を後藤長官に打電している。

 『汕頭鉄道ニ付キテハ表面上何等関係ナキ日本公使ヨリ技師及材料云々ノ申込ヲ為スハ行ヒ難キ事情アリ就テハ張煜南ト我方トノ間ニ技師材料ニ関スル契約(或ハ予約ニテモ)ヲ至急取結ブコトニ運バレタシ左スレハ右契約ヲ実行シ他国人ヲシテ此利益ヲ横奪セシメザルガ為メ政府ハ飽迄モ我権利ヲ主張シ得ルノ地位ニ立ツベシ依テ至急右様取計ハレタシ。』

 すなわち、愛久澤氏,祝局長,後藤長官からの要求に対して、日本外務省の政務局長山座局長は、日本公使が表に出て対処することは適当でないと考えており、協力は出来ないが、本件の重要性は認めており、後藤長官に対し、張煜南氏との早期締結を促したのだよ。

 この内容に対し、後藤長官は外務省の非協力的な対応には失望された。何故ならば、愛久澤氏や祝局長さらには後藤長官でさえも、直接張氏と相談することには限界があり、独占権取得の契約締結は難しい。故に、最良の方法としては、上意下達、すなわち、商務部から命令してもらうのが最も効果的であると考えていたからだ。」と当事者ではない賀田までもが、外務省の対応に少し腹を立てた様に語尾が強くなっていた。

 ここまでの話を聴いていた、賀田組若手従業員の中では最年長の菊地が賀田に対して「社長、上意下達は相手方に対してはあまり好い印象を与えないのではないでしょうか。」と賀田に対して質問してきた。これに対し賀田は「確かに、上意下達は使い方を間違えれば、相手方に圧力をかける事になり、決して、いい結果を生むとは言えないだろう。しかし、今回の場合、この方法を取ることにより、相手方である張煜南氏にとって、他の外国商人を拒絶する有効な言い訳となるのだよ。この言い訳を与えることによって、張氏の面子も保てるわけだ。非常に優れた外交手段と言えるだろう。

 後藤長官はこの点を、台湾総督府参事官長の石塚英蔵官長に説明し協力を求めるように祝局長に指示された。その相談内容は後藤長官から祝局長に次のような内容で相談する様にと指示された。

石塚官長に再度、山座局長に相談してもらう。公式な相談が上手くいかなければ、非公式に相談をしてもらう。そして、必ず清国の商部大臣である戴振大臣の協力を得て、戴振大臣から張氏に対し命令を出してもらうこと。それが実現してこそ、初めて徹底的解決がみられるという内容だった。

 後藤長官のお考えを祝局長からお聞きになった石塚英蔵官長は、外務大臣の小村寿太郎大臣に直接本件を報告された。報告をお聞きになった小村大臣は、切迫した状況を理解され、山座局長とは違い、すぐさま決断を下された。

 3月1日に、駐清国公使の内田公使に対し打電され、内容を説明された後、同月4日には外交文書として次のように詳細な説明を行われた。

 『……然ルニ右張煜南ノ香港帰リ来ルヲ待チ北京ノ有力ナル官憲ノ紹介ヲ以テ該鉄道ニ技師材料ノ供給ヲ申込ミ之ヲ引受ケント目論見居ル外国人少カラサル趣之処張ニ於テハ従来彼等外国人トノ関係上断然右ノ申込ヲ謝シ兼ヌル虞有之候趣就テハ閣下ヨリ載振殿下ニ御内話相成本件ニ関シテ既ニ前述ノ如ク呉(呉理卿)ト林(林麗生)ノ間ニ契約成立シ居ルノミナラス林ハ技師材料ノ供給ニ付既ニ愛久澤ヘ依シ居ル趣ニ付外国人ヨリノ申込ハ一切受付ケサルヘキ旨同殿下ヨリ張南ヘ電示セラルル樣御取計相成度右ハ取計上頗ル御困難ノ義万々推察致候得共本鉄道ニ関シ実権ヲ我方ニ獲得スルハ将来予テ要求中ナル南洋鉄道トノ連絡ヲ取リ漸次台湾ノ対岸一体ヲ我利益圈ニ收ムル上ニ於テ其係ルトコロ頗ル重大ナルモノ有之候ノミナラス台湾総督府ヨリ懇々ノ依モ有之候ニ付旁申進候次第ニ有之候間右ノ趣意御了悉ノ上可成速ニ好機ヲ見載振殿下ニ御内話相成度……。』

 要するに、小村大臣も潮汕鉄道が日本の南進政策において非常に重要であるということを認識されており、もしこの鉄道における実権を掌握することが出来れば、将来的には華南のその他鉄道と連結し、台湾と対岸を一体的にする計画を推進出来る。さらには、その勢力と利益の範囲を拡大することが出来るとお考えだったのだよ。

 小村大臣からの電文を受け取った内田公使は、戴振大臣との非公式な交渉を開始された。

この交渉で重要な事は、日本側(愛久澤氏)と呉氏、林氏が既に技師の雇用、材料供給契約を締結している事を戴振大臣に再確認してもらい、これが如何に合理的な判断であるか、そして、戴振大臣の不利にはならないかを理解してもらうことだった。その上で、載振大臣と潮汕鉄道の技師と材料供給について協議を行い、張氏に対し紹介状を書いて貰える様に戴振大臣を説得された。

 戴振大臣との協議の結果、技師の雇用,材料提供の独占権を得る事が出来た。しかも、それ以外にも、完工後、技師の雇用の事務を引き続き愛久澤氏に委託する。さらには、将来路線を拡張する場合、同一条件で愛久澤氏に工事を委託するという保証まで得ることが出来たのだよ。

 後藤長官のご判断によって、一気に問題可決の道へと進むことが出来たのだ。

 小村大臣は,潮汕鉄道の契約が順調に締結されたことは全て戴振大臣の協力があっての事であるとされ、内田公使に感謝の電報を打電する様に、422日に指示された。

また、5月23日には、内田公使は正式文書として「日本公使内田康哉致商部尚書載振函」を出状し,次のように感謝の意を述べられている。

 『潮汕鉄道建設に雇用する日本人技師,建設に使用する材料などを愛久澤直哉と張京堂(張煜南)との交渉で契約を結んだ。厦門日本領事館は外務大臣に契約の内容を伝え,外務大臣の命令により私は商務部へ感謝の意を伝えた。張京堂が両国の関係に立って大変熟慮しており,(張京堂に対して)敬意を持っている。交渉の成功は,商部大臣載振のお蔭だ。よって,この手紙でお礼申す。』

戴振大臣の協力により,日本側は技師の雇用,材料提供の独占権を取得、潮汕鉄道の工事を推し進めることが出来た。さらには、明治39年(1906年)10月の潮汕鉄道完工後すぐに、愛久澤氏は潮汕鉄道公司と営業委託契約を締結し、汕頭駅内に営業部を設置し、建設工事にあたった人員を全て営業部に移し、1115日に営業を開始した。

会社の重要幹部からは,林麗生氏が営業部長に就いたが,名前だけで決して毎日出社していた訳ではなく、実際の業務は総務課長兼技師長に就任した佐藤謙之輔氏が担っていた(鉄道建築時に技師長を務めていた)

その他に,総務課事務員1名,運輸係長と事務員4名,汽車係長兼技師及び事務員3名,駅長2名,機関士3名,工夫長1名,工夫名,鉄道雇用教師1名の合計32名は全て台湾総督府鉄道部出身の日本人で、その他重要なポストに日本人、台湾人70名を配置し、清国人111名が雑役及び日雇い苦力として雇われた。」と賀田が説明をし終えると、最年少の森が「後藤長官は本当に凄いお方ですね。密約やら、何だか複雑で難しい交渉とか、もうごちゃごちゃに絡まった糸を一本も切る事もなく、見事にすべてを解かれ、成功へと導かれるとは。」と大いに感心したように話した。

 賀田は「実は、この潮汕鉄道事業を成功へと導いた立役者がもうお一人いらっしゃる。それが、長谷川謹介先生だ。長谷川先生の想像を超えるご苦労があったからこそ、潮汕鉄道事業は成功したとも言えるだろう。当然、ここでも後藤長官は大きく関わっておられるのだがね。」と言い、テーブルに置かれたお茶に手を伸ばした。

 

戴振商務大臣


【参考資料】

中村孝志 「台湾総督府の華南鉄道工作―潮汕鉄道をめぐって」

 汝成 「近代中国鉄路史資料」下冊

 「潮汕鉄道ニ付載振貝子ヘ表謝方依ノ件」(『日本外交文書』第37卷第2冊(原文書:明治37(1904)4月22,19冊第800)

 「潮汕鉄道敷設ニ關連シ外国人ノ技師及材料賣込牽制ニ關スル訓令電詳細明ノ件」(『日本外交文書』第37卷第2冊(原文書:明治37(1904 )3月4日,19冊第793)

 「潮汕鉄道敷設ニ關連シ外国人ノ技師及材料賣込牽制策ニ關スル件」(『日本外交文書』第37卷第2冊(原文書:明治37(1904)2月26,19冊第791)

「潮汕鉄道敷設ニ關シ日本ヨリ技師招聘及器械供給方ノ件」(『日本外交文書』第37卷第2冊(原文書:明治37(1904)2月3日,19冊第782)

 「潮汕鉄道敷設ニ關シ日本ヨリ技師及材料供給ノ件」(『日本外交文書』第37卷第2冊(原文書:明治37(1904)2月19,19冊第787)

 「潮汕鉄道敷設假契約調印濟竝ニ日本ヨリ技師招聘及器械供給ニ關スル件」(『日本外交文書』第37卷第2冊(原文書:明治37(1904)1月28,19冊第778)

 蔡龍保 日本統治期における台湾総督府鉄道部の南進政策 清国広東省潮汕鉄道の事例 立教経済学研究第巻第5号年

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