東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 布拉旦部落・三桟神社 【花蓮縣秀林郷】

 【布拉旦部落】

 秀林部落から車で約10分南下したところに、太魯閣族の布拉旦部落があります。

この布拉旦部落の前を流れる川が三桟渓(川)。太魯閣渓谷から流れてくる川の水は透明度が非常に高く、夏になると、川遊びをする人たちで賑わいます。川の流れは穏やかで、浅瀬では子供も安心して遊べます。(但し、台風や大雨のあとは一気に水量が増え、濁流となりますので、ご注意ください)

また、川の上流には三桟渓谷があり、その風景は絶景で、別名、小太魯閣とも呼ばれています。

三桟渓(川)の西側に広がるのが布拉旦部落です。その昔、巴拉旦と呼ばれていました。巴拉旦の語源は太魯閣語のParatanで、「まこもたけ」という意味があります。実際、布拉旦部落の山々は「まこもたけ」の産地でもあります。

太魯閣語で部落は「Alang」と発音します。例えば、秀林部落の場合は、「Alang  Bsuring」となり、部落の意味である「Alang」が先にきます。

元々彼らは山に住む原住民で、狩猟民族で、家族単位で部落を構成していました。例えば、布拉旦部落は、今の南投県仁愛郷静観一帯から巴拉斯(Paras)家族と玻赫克(Puhuk)家族が立霧渓(川)南岸の支流、科蘭溪(川)流域に科蘭部落を作りました。しかしその後、巴拉斯家族内で結婚を巡り紛争が起こり、巴拉斯家族の大部分が三棧南溪(川)下流一帶に、今の布拉旦部落を作ったのです。

 

【三桟神社跡】

 秀林部落方面から三桟橋を渡って川沿いに右折し、そのまま直進すると、三叉路に出ます。その三叉路の左手の小高い丘の上には、三桟神社跡が残されています。

1934年(昭和9年)46日の台湾日日新報の記事によると、三桟神社は、カウワン(卡烏灣)社(部落)の頭目ピワサオワダソが、研海支廳に神社建立の申請を提出したと記されています。

理由としては、近隣のブスーリン=武士林社(部落)、エカドサン=埃卡托山社(部落)にはすでに神社が建立されていたため、サンサン=三桟社(部落)等々も守護神社が必要とのことで申請を出したとされています。

戦後、国民党軍によって神社は完全に破壊され、今はわずかな痕跡しか残されていません。

 

 【三桟秘話】

 今は美しく、穏やかな流れの三桟渓(川)が流れるのどかな部落、布拉旦部落ですが、第7章「新城社跡」で説明をします新城事件後、大きな事件が発生しました。

日本軍は、新城事件で惨殺された結城少佐以下24名の遺体収容のため、1897年(明治30年)110日、花蓮港守備隊の全兵士と公募によって集めた600名近い阿美族、さらには、基隆步兵、台北砲兵、工兵隊等が、軍艦葛城号の護衛の下、太魯閣へと進攻しましたが、立霧渓(川)の山中で太魯閣族の待ち伏せに遭い、軍が全滅しました。

第一回太魯閣族討伐戰が失敗した後、討伐隊指揮官の湯池中佐は改めて兵士、支援部隊を増員し、同年129日、第二回太魯閣進攻計画を遂行しました。しかし、山道は険しく、太魯閣族の攻撃も激しく、部隊は思うように前進できず、現在の太魯閣渓谷・砂卡 礑の山中でまたもや敗北を期したのです。これを「三棧事件」と呼んでいます。

三棧事件後,湯池中佐率いる日本軍は戦法を変え、同年26日、阿美族等を三桟東側の加灣部落から先攻させ、そのあとを日本軍が三桟渓(川)より遡上して攻めるも、またもや失敗に終わりました。(加灣事件)。

同年225日に再び日本軍は進攻したが膠着状態が続いていた。日本軍は、新城まで兵を進めるためには道路の開設が必要であると判断していたが、この場合もやはり、太魯閣族からの襲撃が予想され、さらに、莫大な費用と労働力が必要となるため、事実上は難しいと判断。その結果、海路を使って新城を目指すことになった。新城に上陸後、密林を伐採し、原住民が身を潜めそうな場所を取り除きながら徐々に、道路を作っていった。

途中、三桟渓(川)河口付近で通訳の謝成章と兵士五名の遺体と首を収容し、その後、新城到着後、結城少佐以下二十四名の遺体を無事に収容した。

 

 【歴史の生き証人 1】

 布拉旦部落で原住民伝統飲料「紅刺蔥茶」の生産販売を行っている林樹金さんがお話しくださいました。

 「私達、布拉旦部落の住民は、日本軍の皆さんに心から感謝をしています。実は、私達の部落は、日本統治時代以前は、太平洋から遮るものが何もなく、一望できる場所にありました。日本軍が私達の部落にやってきたとき、『万が一、太平洋側より敵が攻めてきた場合、真っ先に狙われるのはこの部落である。』という事で、それまで小高い丘だった場所に土砂を積み上げ、山を作ってくれたのです。そのおかげで、第二次世界大戦の際、アメリカ軍による花蓮空襲の際も、私達の部落には爆弾一つも落とされずに済みました。あの山がなければ、もしかすると私も今、こうやってあなたとお話が出来ていなかったかも知れません。」

 今も日本軍が作った山はあり、木々が茂っています。周りの山との区別もつかず、誰もその山が人工の山だとは気づきません。三桟橋から太平洋側を見て右手の山に、鉄塔が建っています。その山が日本軍が作った人工の山なのです。

 

【歴史の生き証人 2】

 花蓮港小学校(朝日国民学校)を卒業後、花蓮港中学へ進学され、卒業された(第三期卒業生)伊藤茂夫さん(大正14年生)のお話し。

 「私が中学生の時は、まず、グランドにたくさんの貝殻が落ちているので、その貝殻を除去する作業がありました。裸足でグランドを走っても怪我をしないようにするためです。

 中学3年生の時には軍事訓練の授業がありました。日本陸軍の新兵の方と一緒に訓練をします。しかも、実弾での演習です。当時、花蓮だけが実弾演習をしていました。中学3年生で実弾演習など、今の時代では考えられない事ですよね。しかし、当時はそれが当たり前だと思っていました。一番辛かった軍事演習は、重たい荷物を担いで、一晩中歩き続けるという訓練。途中、寝ながら歩いていました。あれは本当に辛かった。

 私は当時、写真撮影が趣味でした。いつも学校にもカメラを持参し、生徒や先生の写真をたくさん撮影していました。

そう言えば、軍事演習の時も、私は写真撮影をしていて、皆が汗を流して演習している姿を必死に撮影していました。本来なら懲罰ものなんでしょうが、何故か教官も先生も大目に見てくれていましたね。

 また、私は当時、中学校の寮で生活をしていたのですが、毎週日曜日は自習の時間がありました。でも、折角の日曜日。勉強など正直したくないですよね。だから、仲間と後輩を連れて『食料の調達に行ってきます』と自分から先生に提言し、学校から三桟(片道約20km)まで釣りに行きました。

 行きはバスがあるのですが、帰りはバスが定員いっぱいになると乗せてくれません。定員といっても、10名ほどしか乗れない様なバスでした。そのような時は運転手に頼み込み、後輩だけをバスに乗せてもらい、自分たちは歩いて20kmも道を帰りました。後輩を先に帰らせて、我々は歩いて帰る旨を寮長に伝えてもらうためです。

 三桟にはきれいな川が流れていて、深い場所には体長50cmほどのボラがいました。潜って、モリでボラを捕まえるのが私達高学年の役目。後輩は浅瀬で小魚を釣る。昼食は、学校から持ってきた米を川岸で炊き、釣った小魚やボラをおかずに食べました。もちろん、学校に持って帰る分はちゃんと確保してね。

 毎回、「食料調達」と言って出掛ける私達。ある時、先生も同行すると言い出し、一緒に、朝から晩まで、三桟の川で釣りをしたり、泳いだりして過ごしました。昼時には私たちでお金を出し合い、川の近くの原住民のやっているお店へ後輩にお酒を買いに行かせ、先生にプレゼントしました。生徒が先生を接待してわけです(笑)良い時代でした。

 花蓮市内にはゴルフ場があったのですが、戦争中はそこに芋を植えていました。作付から収穫は私たちの仕事でした。

 寮では、普段は夜10時が消灯時間なのですが、試験の時期になると自習室が解放され、夜通しそこで勉強できるようになっていました。その自習室の屋根裏には、お釜と七輪などを隠してあるんです。寮の担当の先生は、10時を過ぎると帰ります。そうすると、屋根裏から道具を取り出し、収穫し、隠してあった芋を蒸かして、皆で食べるのが楽しみでした。

 写真好きだった私は、国語の先生で、加藤謙一先生が出兵されることになった日、寮の生徒達と出兵式に参加しました。そこで、加藤先生を始め、加藤先生のご家族の方々、見送りに来た生徒達との集合写真を撮影しました。結局、その写真は先生にお渡しすることが出来ず、それが心残りです。ご遺族の方々の居場所が分かれば、是非、お渡ししたいと思っています。」

 


日本統治時代の三桟




三桟神社跡



加藤謙一先生の出兵式




花蓮港中学校軍事訓練

 

 

*布拉旦部落:花蓮駅より「秀林」「太魯閣」方面行きバスで約1時間 三桟下車すぐ


【参考資料】

行政院原住民委員會文化園區管理局

stampinged著 日治時期台灣郵政史 2013.0.06 非常通信之新城事件

伊藤茂夫氏が撮影した日本統治時代の各種写真

国田宏氏が撮影した日本統治時代の各種写真

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