東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 花蓮港日本陸軍守備隊駐屯基地(米崙山、現在の美崙山公園)
鱉亀山、八利山、八螺山、米崙山、美崙山。これは全て同じ山の名前です。
「鰲魚山」、「八利山」、「八螺山」、「八犁山」、「米崙山」、「美崙山」。これは全て同じ山の名前です。「八螺山」或いは「八犁山」は原住民の言葉で、「Bazik」と言います。
米崙山は日本統治時代の呼び名で、1951年に美崙山に改名されました。
元々この場所は、原住民によって開墾された場所ですが、海抜108mと低いながらも、当時は太平洋が望めた事もあり、また、花蓮市内では一番高台にあるため、清朝時代から「兵農合一制」により農兵が駐屯、その後、日本時代には、新城事件を受けてここに、花蓮港日本陸軍守備隊駐屯基地がおかれました。第二次大戦時には、日本軍が美崙山の麓のトーチカや地下道などの施設を修築しました。戦後、連合国軍も駐屯したことがあり、台湾で唯一、総統府侍衛の墓地があります。
美崙山には、旧花蓮港神社(現、忠烈祠)や先に述べました様に、日本陸軍守備隊駐屯基地がありましたが、現在も山の麓には、中華民国陸軍花東防衛指揮部があり、入り口前には、戦車などが展示されています。
美崙山公園は新興路と尚志路に囲まれており、入口も数か所あります。公園内には全長800mの遊歩道が完備されており、朝夕、散歩を楽しむ人達で賑わいます。
また、日本統治時代から続いているラジオ体操が今も行われており、朝の6時過ぎに行けば、もう沢山の人が朝の散歩を楽しんでいます。ここへ行けば、日本語の出来る方々との出会いもあります。
公園の入り口には、何故か、ミッキーがお出迎え。「何故、ミッキーなの?」という野暮な事は考えないでください。ただそこにミッキーらしきものが居るという程度でスル―して頂ければ幸いです。ここにミッキーが居る理由は諸説ありますが、はっきりとした理由は誰も知りません。深く考えないのが花蓮流。
また、公園に入ると、様々な動物がお出迎えしてくれます。実は、日本統治時代、美崙山(当時は、米崙山と呼ばれていた)の近くに、花蓮動物園がありました。その名残なのかも知れない。
尚、公園内には蛇が生息しているが、その中には毒蛇もいるので要注意です。公園内の看板にはコブラの絵が描かれています。台湾には「台湾コブラ」が生息しています。花蓮にも生息しており、筆者が今までに見た最大の台湾コブラは体長2mほどの大きなものでした。威嚇のポーズをとっていました。これ以外にも4種類の毒蛇がいます。蛇を見かけた時は絶対に触らない事。また、遊歩道以外のところへ無暗に立ち入らないようにした方が良いでしょう。
【日本時代、米崙地区に住んでいた日本人の方の証言】
お名前に関しては、ご本人のご希望により伏せさせて頂きます。
「私は当時、米崙地区の官舎に住んでいました。父は花蓮港の港湾関係の役人でした。戦争が始まって、私の住む米崙地区でも、防衛団米崙分団が結成され、母が結団式にも参加しました。小学校の校庭などで竹やりの訓練やバケツリレーの訓練をしていました。訓練の日は私も一緒に着いていき見学していました。家に帰ってくると母が『敵は銃を持っているし、飛行機で機銃掃射してくる。竹やりでどうやって戦うのかね』とボソッと独り言を言っていました。」
この防衛団米崙分団結団式については、東臺灣新報1941年(昭和16年)2月27日地方版新聞でも報導されていました。花蓮港市防衛団米崙分団結団式が3月1日午後5時から東花蓮港小学校で執り行われる事になったと報じています。当時は、第二次世界大戦の緊迫した状況で、国土の防衛は非常に重要な事でした。防衛団は民衆に対して軍事訓練や消防訓練を行う団体でした。
米崙山から米崙橋の西方の眺望(国家文化記憶庫より)
当時、日本陸軍花蓮港守備隊的駐屯基地があった美崙山。写真は、米崙山の麓から米崙溪(今の美崙溪)を撮影したもの。左側には当時の住宅街が見える。右側には、兵舎と家畜小屋やあり、兵舎正面口の正門へと続く木橋が見えます。(米崙橋、現在の農兵橋)
写真は、米崙溪(今の美崙溪)の西側、遠くに米崙山(今の美崙山)と当時の花蓮港守備隊所駐屯基地弊社が見えます。前方に写っているのが、米崙橋(今の農兵橋)。
米崙山腹から見た米崙兵舎
写真は米崙山山腹(今の美崙山山腹)から見た弊社と周辺の住宅街。遠くに米崙溪(今の美崙溪)が見える。
米崙兵舎正門
写真は当時の米崙兵舎正門。清朝時代の兵舎大門をそのまま使用している。
写真の注釈には、「米崙兵舎から見た米崙山」とあるが、これは間違いで、米崙山から海岸方向(今の七星潭・四八高地)を見た風景と思われる。
米崙兵舎傍の平地
写真は、当時の兵舎傍の平原地帶の風景。写真には二人の長槍と武器を持った原住民が写っている。遠くには、茅葺の官舎、さらに遠方には、中央山脈が写っている。
米崙兵舎で原住民から物を買う日本人将校
原住民の親子から物を買う日本人将校。当時は、この様に、頭に竹かごを置いて、原住民がモノを売りに歩いていた。
米崙山及び米崙の街の風景
写真は、米崙山腹から米崙兵舎を写したもの。前方には、兵舎傍に築かれた石垣(清朝時代に作られたものと思われる)が見える。
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