東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 福住稲荷跡(長老教会)、介壽眷村、羽鳥医院 【花蓮縣花蓮市】

 【福住稲荷神社(現、長老教会)】

花蓮市南京街・信義街の交差点に「長老教会」があります。ここは日本統治時代、福住稲荷神社があった場所です。しかし、当時の面影を残すものとしては、たった一基の石灯篭。

外からはこの石灯篭を見ることは出来ません。教会の敷地へ入ると、右手外壁のそばにひっそりと一基だけ建っています。

戦後、福住稲荷神社は取り壊しとなり、そこに、新たに長老教会と幼稚園が出来ました。

その当時の事を覚えている方にお話しを聞いたところ、教会の建築工事の際に、大量の人骨が発見されたそうだ。稲荷神社跡から何故、大量の人骨が発見されたのか、その謎は未だに解明はされていません。神社にお墓は普通の常識では存在しません。発見された人骨は教会で保管しているそうだ。ここにお墓があったかについても尋ねてみたが、「お墓は別の場所で、神社内にお墓はなかった」との事。

統治時代、この附近は色町として賑わっていました。水商売のお店が多かったことから、稲荷神社が建立されたという理屈は結びつくのだが、果たしてそれだけの理由だったかは、今となっては知る由もありません。

 

 *福住稲荷神社跡:花蓮市信義街30號(信義街・南京街の交差点)

 

 【介壽三街の介壽眷村】

花蓮の街を歩いていると目につくのが日本式の家屋。花蓮にはまだ日本統治時代の家屋が数多く残されています。文化局が保存を決めたものから、一般の人が今でも住んでいるもの、住むものが居なくなり、朽ち果てるのをただただ待つだけというもの、様々である。

古い家なんかに興味がないと言うあなた、そういわずに、一度でいいから見に行ってください。今のうちに見ておかないと、もう二度とみる事の出来ない家屋もあります。保存修復される日本時代の日本家屋は数が限られており、そのほとんどが取り壊しによって姿を消していっています。また、日本ではほとんど見る事が出来なくなった家屋であるのも大きな特徴です。

花蓮の日本家屋は、そのほとんどがセメント瓦です。木材は檜が多く使われています。日本統治時代初期のころは、日本から杉などの木材を運び込み、瓦葺の家が建てられましたが、花蓮は昔から台風の多い場所で、「台湾の台風銀座通」とも言われるほどです。結局、日本から持ち込んだ杉はシロアリに、茅葺の屋根は台風で飛ばされるという事が多発し、途中から、台湾檜とセメント瓦を使用した家に変わりました。

さて、この日本家屋が数多く残っている場所の一つが、花蓮市介壽三街の介壽眷村。

花蓮市民勤里介壽眷村には、日本統治時代に出来た官舎が今も残されています。面積は1.37ヘクタールと広大な面積に、100年以上前に建てられた官舎が残されているのです。

終戦後は中国四川省、重慶省からやってきた空軍防空学校の士官以上の人達の官舎として使用されてきましたが、1951年の花蓮大震災、その2年後の温妮台風により大きな被害が出ました。現在の住民たちは二代目にあたります。

 1998年、「国軍老舊眷村(県市)改建計画」が実施され、古くなった官舎の合併建て直しが行われました。介壽眷村の官舎も、新たに民意社區に合併され、ほとんどの人達がそちらへと移り住んでいったのです。そのために、介壽眷村は大部分が無人となり、廃墟化しています。2017年の段階で、わずか30戸95人が住むだけとなってしまった。今ではその数も更に減っており、何時消滅しても不思議ではない地域となっています。

ここの外壁に、地元のボランティアの人達によって、楽しい壁画が完成しました。それまでは、単に古く、朽ち果てた建物が並んでいるだけの印象が強く、地元民でも存在を知らない人がいた介壽村でしたが、この壁画が完成したことにより、見た目も楽しく、明るい感じになりました。

 尚、ここを訪れる際、一つだけ心がけて頂きたい事があります。まだ、人が実際にお住まいの家もあります。決してお住まいの家の写真を無断で撮影したりしないでください。また、大声を出して歩き回らない様にしてください。当たり前の事のようですが、意外とそれを忘れてしまう人が多いのです。

 今後、花蓮市政府は、建物を如何にして保存していくかという大きな問題に向き合う事になるでしょう。果たして、住民の期待通りに保存に向けて動いてくれるのか、あるいはまた、取り壊されてしまうのか・・・・。


【歴史の生き証人】

ご本人のご希望で、お名前は伏せさせて頂きます。

「戦後間もなくここに住み始めました。当時は中華民国建国のために必死でした。自分達の生活よりも、まずは、国家樹立にすべてをかけてきました。当時は本当に賑やかで、毎日、路地では子供達が走り回り、近所の人達と色々な世間話をして過ごしていました。ここに住んでいる人のほとんどが、中国大陸から来たので、故郷の話や民謡をよく歌った。今は皆引越をしてしまい、本当に寂しい。でも、ここは主人や子供と頑張ってきた場所。私の死に場所はここ以外に考えられないよ。」と寂しそうな眼をしながら語ってくれました。

 

 *介壽村:花蓮市介壽二街・三街一帯

 

 【羽鳥医院跡】

1909年(明治42年)、台湾総督府は重点政策として伝染病対策に乗り出しました。

防疫医官として、羽鳥重郎(マラリア)、倉岡彦助(ペスト)、荒井惠(チフス)が任命されたのです。

羽鳥重郎は、1871年(明治4年)116日、群馬県の勢多郡石井村に産まれ、1881年(明治14年)9月に群馬県尋常中学校に入学したものの、1885年(明治18年)に同校が廃校となり、前橋市で兄が開業していた病院や、前橋医院で薬の調剤の仕事を手伝いながら「医術開業試験」の勉強を重ね、1895年(明治28年)9月に医師となりました。

台湾に赴任した羽鳥は、マラリアの原因が台湾アノフェレス蚊であることを突き止め、蚊の生息地の源を断つと共に、原虫保有者の根絶に努めました。採取した蚊の中に新種を発見し「台東アノフェレス」と命名。別名、「アー・ハトリー」と羽鳥の名誉を讃えて命名された。また、当時の花蓮港(現花蓮市)や鳳林の密林地帯などで熱性病(不明熱)が流行。羽鳥は臨床観察の結果、台湾ツツガムシ病であることを突き止めたのです。羽鳥は台湾の風土病の研究と共に、衛生課長として台湾の衛生・医療行政に貢献しました。

1931年(昭和6年)花蓮港(現花蓮市)にある指宿病院を継承して欲しいとの依頼があり、羽鳥は、当時、台湾国内で最も衛生・医療状態が悪かった花蓮地方で「医療救治」にあたることが医師としての務めと引き受けました。この時、羽鳥重郎はすでに還暦を迎えていましたが、花蓮港市に羽鳥医院を開業、開業医として約10年間、花蓮のために医療に従事した。

1939年(昭和14年)15日、隣家からの出火が原因で羽鳥医院は全焼。同年3月に羽鳥は廃院を決意しました。火事で焼失後、羽鳥医院跡に、ほぼ同じ設計で家が建てられ、日本人、台湾人と主が変わり、最後は空き家となり、廃墟同然の状態となっていました。

2014年、廃墟化していた建物を購入した台湾人は、建物を修復、復元し、現在は秋朝喫茶館として営業をしています。

20244月の花蓮大地震では隣のビルが傾き、テレビなどでも放映されていましたが、羽鳥医院跡の建物は難を逃れました。

 

【参考引用資料】

富士見商工会発行 羽鳥重郎・羽鳥又男読本 台湾で敬愛される富士見出身の偉人

 

*羽鳥医院跡(秋朝珈琲館):花蓮市花崗街5號

 営業日:火曜日~金曜日 pm2:00-pm8:00


福住稲荷の石灯篭

灯篭の足元に刻まれた奉納者名

福住稲荷に石灯籠を奉納したと思われる山田組







介壽眷村





羽鳥医院

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