東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 太巴塱部落に伝わる神話、豊年祭の起源、花蓮の阿美族の衣装が赤の理由 【花蓮縣光復郷】

まず、本章を読む前に、前章の【阿美族の女神】を必ず読むようにしてください。そうしなければ、話の内容が理解出来ないと思います。


【太巴塱部落に伝わる神話】

 Tiyamacanの姉と四番目の兄、つまりDoci Lalakanは洪水が来た時、納屋で米をついていました。水が押し寄せてきたので二人は臼に乗って北の方へと流されていき、Cilangasan  (現、八里灣山)に到着しました。二人は小島になった場所の頂上に住み始めました。時を経て二人は子供を作ろうとしましたが、近親交配の禁忌によりkangic(阿美族の伝説に登場する蛇竜のこと。一説では単なる蛇であるとも言われています)との説もある)、rarokoh(亀を意味します)、fafikfik(ヤモリを意味します)、kakaka^ay(ヒキガエルを意味します。一説にはアオガエルという説もあります)を生みました。悲しい二人は泣き始め、その叫びは天に届き、Ina Cidal(太陽の女神)が二人の泣き叫ぶ声に気づきました。女神Ina Cidalは、Tatakosan no Cidalを二人の元へ派遣しました。戻って来たTatakosan no Cidalは二人の間に正常な子供が産めないことを女神Ina Cidalに報告したのです。

次に女神Ina Cidalは、Salalacal no Cidal Saoringaw no Cidalという二人の巫術の神をDoci Lalakanの元へ送り込みました。そして、白豚の入った竹筒やキビの入ったひょうたん、白もち米入りカボチャ、箭()(だけ)、檳榔(びんろう)、竹、黄藤(ミズトウヅル Calamus formosanus)、バナナなどを使った儀式をDoci Lalakanに教えました。これが、巫覡(ふげき)1の起源です。

その後、Doci Lalakan3人の娘と1人の息子を出産し、神々の教えに基づいて子どもたちの名前の後ろに感謝の気持ちを込めて「no Cidal(太陽に属するという意味)」を付け加えました。伝説によれば、これが阿美族の親子連名制度の起源であると言われています。 4人の子供たちは次のとおりです。

Cihcih no CIdal(又はCihek no Cidal):長女

Rarikayan no Cidal:次女

Pahpah no Cidal:三女

Tahtah no Cidal:長男

長男のTahtah no Cidal が成長するにつれて、洪水も減り始めました。ある日の事、Tahtahは山を下り、肥沃な土地を見つけ、そこで豚を殺しました。 このことから、Masafafoy(養豚)という言葉が生まれました。

Tahtah Cilangasanの 山頂から家族をここに住まわせるために連れてきて、その地を Saksakayと呼びました。Saksakayは今でも太巴塱文化の発祥の地で、彼らにとっては重要な歴史的拠点であり祭儀の場でもあります。次女のRarikayan no Cidal Saksakayに到着する事が出来ず、Cilangasan から南下し、奇美部落の始祖となりました。

 Tahtah no Cidal は後に3人の女の子を授かりました。三人の子は、Wahelol TahtahSokoy Tahtah Raya Tahtahと言い、それぞれが卑南族、阿美族 Pacidal Talakop (阿美族南勢群的祖先)となったと言われています。

 

【豊年祭の起源】

Doci Lalakan の長女 Cihcih no Cidal の子孫である Lona Awaw は妻であるKakalawanと結婚しました。そして、Mayaw Kakalawan Onak Kakalawanという兄弟を生みました。ある日の事、兄弟は狩りに出かけた父親を追いかけて、古代 Ma'ifor 地區(今の富田二街と建國路二段の交差点付近。太巴塱紅糯米生活館一帶)に来ました。その際、川が濁っていることに気づき、このことを父親に報告すると、父親は兄弟たちに、「川の濁りは上流で誰かが引き起こしたに違いない、明日布袋持ってその人物の首をはねるべきだ」と告げました。翌日、兄弟たちは川の上流で背を向けて立っている男性を発見。二人は背後からその男の頭を布袋で覆い、首を切りました。家に帰った兄弟は切った首を母に見せると、なんとその首は父親だったのです。怒った母親は二人を外に追い出しました。兄弟たちはもっと首を狩って持ち帰り、償った方がいいと話し合いました。

二人は首狩りを始めましたが、Mayawはナイフの刃をまっすぐに研いでいたため切れ味が悪く、Onakはナイフの刃を斜めに研ぐ方法を知っていたので、兄よりも多くの首を狩りました。兄弟たちが家に帰ると、母親は人を殺すことはタブー(lisinと言います)だと言い、二人に祭祀(さいし)の方法を教えました。これが太巴塱年祭(ilisin)、すなわち、現在の豊年祭の起源であると言われています。

その後、大きな間違いを犯し、弟に対して劣等感を感じたMayawは、自暴自棄になり、大地を踏みつけながら「大地に飲み込まれたい」と願い続け、遂に、身体は大地に飲み込まれてしまいました。弟のOnak と母親はMayawを大地から引き抜こうとしましたが、Onakも一緒に大地に飲み込まれてしまいました。地底に沈み込んでしまった兄弟は、月の守護星となりました。Mayawは黄昏時の金星、Onakは夜明け前の金星となったのです。

(豊年祭が行われる7月下旬から8月頃は、月の近くに金星が現れます。)

 また一説には、Onak Kakalawanは死なずにDongec Rinamayという女性と結婚し、Tiwarという息子と Piharawという娘が誕生。Piharaw Kaliting Piharawを生んでとされています。当時、Saksakay 部落の土地は限られており、増加する人口に対応できず、人々は麗太溪(川)と馬太鞍溪(川)の合流地点であるCifangi'anに移住しました。彼らは高台の開けた場所に定住しました。この場所が現在の太巴です

当時、Kaliting PiharawAlimolo'という男性と結婚し、長男Angah Alimolo'、長女Moyo と次女Sawahを出産しました。ある日、Sawahが卑南族の狩猟集団に誘拐されました。(古代、卑南族の勢力範囲は瑞穂郷と光復郷にまで及んだ)長男のAngah Alimolo'は卑南族の部落を攻撃しようとしましたが、既にその事を卑南族は知っていたため、多勢に無勢でした。そこで、Angah Alimolo'は台東地方の南阿美族のRarangesの人々を頼り相談。Rarangesの人々の提案で卑南族の祭祀日に赤い服を着た神に変装して彼らを威嚇し、混乱に乗じて妹のSawahを奪い返しました。(花蓮の阿美族の民族衣装が赤色の理由がここにあります)卑南族は騙されたことを知り、Rarangesの人々を攻撃し、彼らを全滅させました。

Angah Alimolo' Sawah 北へ向かって逃げ、今の秀姑巒溪一帶まで逃げたところで、奇美部落の阿美族の人々と出会い、奇美部落の人々は二人の事情を知り、二人を匿う事にしました。卑南族の追手がやってきた際に、奇美部落の人々は「二人を見た。あっちに向かって走っていったから、急いで追いかけた方が良い」と言い、それを聞いた卑南族の追手が走って追いかけた時、奇美部落の人々が事前に作っていた落とし穴に卑南族の追手全員が落ち死にました。

これが「太巴塱と奇美が古くから姉妹関係にある」と言われる所以です。

次章で紹介します太巴塱阿美族の頭目のKakitaan 家系は、Moyoが受け継いでいます。

              太巴塱部落祖先發祥地の路標

阿美族祖先文化発祥聖地遺跡紀念碑


日本時代の太巴塱部落の阿美族
國家文化記憶庫より 鳥居龍藏撮影


日本時代の阿美族の穀倉
中央研究院 數位物件典藏者《開放博物館》勝山吉作撮影より

日本時代の阿美族の住居
中央研究院 數位物件典藏者《開放博物館》勝山吉作撮影より

日本時代の阿美族の住居
賀田金三郎研究所所蔵






阿美族豊年祭


*1 巫覡(ふげき)とは、神に仕えて祈祷や神降ろしなどを行う人、神官や巫女(みこ)を指します。

「巫」は女性、「覡」は男性を指し、「かむなぎ」とも表記されます。神楽を奏して神意を慰め、祝詞をあげて神意をうかがい、それを人々に伝える、神と人間とのなかだちをする役割を担っていました。

*2 祭祀(さいし)とは、神や祖先をまつること、またはその儀式を指します。


【参考文献】

部落耆老的集體創作繪本 太巴塱部落創始經典故事 O Kimad no Tafalong

台湾総督府 蕃族調查報告書第二卷1914

コメント

このブログの人気の投稿

東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 布拉旦部落・三桟神社 【花蓮縣秀林郷】

台湾近代化のポラリス 新渡戸稲造2 台湾行きを決意

台湾近代化のポラリス 潮汕鉄道3 重要な独占権獲得