東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 光復郷ってどんな街、馬太鞍部落、馬太鞍神社跡、納骨碑 【花蓮縣光復郷】

 【光復郷ってどんな街】

台湾鉄道花蓮駅から特急列車で約36分、普通列車で1時間ほど到着するのが、光復駅。ここが光復郷の玄関口となります。この光復駅は、1913年11月20日に駅舎が完成。当時の駅名は「馬太鞍」でした。その後、1937年11月1日に駅名を「上大和」に改名。戦後、1947年に「台安」と駅名を改め、1951年5月1日に行政区画整備で光郷郷となったため、駅名も「光復」となり、現在に至っています。

阿美族が最も多く住む場所としても有名なのが光復郷です。2011 6 月の調査によると、総世帯数 5,012 世帯、総人口 12,536 人、このうち原住民が 6,714 人で、平地に住む原住民(阿美族)が6,501 人、山に住む原住民(太魯閣族、布農族、阿美族の一部等)が 213 人となっており、光復郷総人口の 53.6%を占めています。残りは、台湾人と客家人です。

光復郷の街を歩いていると、阿美語を耳にする機会が非常に多いのが特徴です。

大正 10 年( 1921 年)「鹽水港製糖株式會社」が製糖工場を光復郷に作り、戦後はその事業を引き継ぐ形で台糖公司の花蓮糖廠本部(製糖工場本部)がありました。その関係で、戦前からサトウキビ栽培が盛んに行われていましたが、製糖業の不況が原因で製糖工場が閉鎖となり、現在では、稲作、野菜、果物の他、マコモダケ、黄藤心(日本ではあまり見かけない)、種無しスイカ、紅もち米、そして、原住民には必需品と言っても過言ではない檳榔(ビンロウ)の栽培が盛んに行われています。春になると、国道沿いにはマコモダケの露店が数多く並び、地元の原住民にとっては貴重な現金収入源となっています。

また、台湾のプロ野球で活躍している選手は、光復郷出身の阿美族が多い事でも有名です。

清朝時代、光復郷は、阿美族の大きな部落が二つありました。馬太鞍(マータイアン)部落と太巴(タパロン)部落です。

昭和12年に日本人移民村・上大和村(私営の移民村)が開村されました。鹽水港製糖・大和工場で働く人達も上大和村には住んでいました。日本時代は、馬太鞍地区は大和、太巴地区は富田と呼ばれていました。

戦時中は、工場で生産されたお砂糖を、敵からの攻撃から守るために、上大和村の村民たちの家に分配し、保管させていました。

戦後、国民党政府が台湾にやってくると、光復郷にも福建省や広東省などから中国人が続々と移住してきました。その多くが退役軍人でした。

 

【馬太鞍部落】

馬太鞍部落(マータイアン)(阿美語:Fata'an,或作vata'an)は、台湾花蓮県光復郷の馬錫山の麓に位置し、阿美族最大の部落です。現在、馬太鞍部落とされているのは、大同村、大馬村、大平村、大華村となっています。

「馬太鞍」のいう地名の由来は、同地区に住む阿美族の祖先がこの地に移住してきた際に、「樹豆」(阿美語:Fata'an)が生えているのを見つけました。

樹豆は、保存が効き、育てやすいことから、彼らのお気に入りの主食でした。

そこで彼らはこの樹豆を栽培する事にし、地名を阿美語で樹豆を意味する「Fata'an」にしました。この発音に近い漢字をあてたのが「馬太鞍」となったのです。阿美族の間では、馬太鞍地区は阿美族の首都とも言われています。

馬太鞍部落の歷史を振り返って見ると、清朝の到来後、早々に二人の清朝の使者、KoWaLawTangが馬太鞍部落へとやって来た際に、当時の撒巴勒奧(sapalengaw)(頭目、部落のリーダー)のPanongに対し使者の二人が「陸稲と雑穀の播種はやめたほうがいいです。これを食べるとお腹が痛くなるからです。」と言いました。

そして、使者の二人は、「私たちはあなたたちに水牛を提供するつもりです。まず、あなた(撒巴勒奧のPanong)に水牛3頭、Saway1頭、Karo oracan1頭、Papay niyaday2頭、Rata Kafongid1頭の水牛を提供します」さらに、鋤(スキ)やレーキ(熊手)、鍋も与えました。これにより、馬太鞍では水牛を飼い始め、その後、水牛を出産させるようになり、徐々に部族のすべての家庭で水牛を飼うようになりました。

また、二人の使者は「家族に女性が5人いる場合、女性は分家して暮らすことを許可されるべきである。あるいは、家族に子供が10人いる場合、女性は分家して家族を築くことが許可されるべきである」と説きました。

これにより馬太鞍部落では本家、分家という形の家庭が増え、農地もそれぞれの家庭に分配する様になりました。当初は水田未経験者も多く、使者たちが水田農法について指導していました。

水田農法に関しては、Panongが率先して行う様になり、鎮平(Cingping)北側のCifarosanで始めました。そしてPanongは部落の人々に対し「皆さんはこの新しい農法にまだ慣れていないかもしれませんが、粘り強く学んでほしいと思います!すぐに慣れてくれると思います。他にも大変な事があるでしょうが協力して下さい!」と呼びかけたのです。

正に、馬太鞍部落の生活様式が大きく変化した瞬間でもあったのです。

 

【阿美族ミニ知識】

(その1)

馬太鞍地区に阿美族が移住してきた初期の頃のお話ですが、元々阿美族は母系社会であったため、結婚の際は入り婿制度となっていました。また、結婚をする際は、まず、男性(婿候補)が女性側の家庭に入り、三カ月から1年半の期間、一緒に暮らす必要がありました。この観察期間中、怠け者やその他の悪い習慣のある男性に対しては、結婚が認められません。そのため、男性は体力があり、勤勉で、農作業を真面目に熟し、重労働をする必要がありました。

唯一、男性が減目を外せるのが豊年祭の時でした。

現在はこの様な結婚前のお試し期間は無くなりましたが、女性の方が実権を握っているケースが多いと言う点では母系社会の名残はあるかと思います。

また、客家人と阿美族の婚姻もよくあるケースで、客家人の方が言うには「阿美族の女性は美人が多く、働き者が多い」と阿美族の女性を敬愛している方が多くいます。

 

(その2)

光復駅前から東に延びる台11甲線。この道を東に向かって進むと、光復川と馬佛川があり、両方に橋があります。二本目の橋(馬佛川に架かる橋)の左手に小さな古い橋が残されており、この橋が完成した時の記念碑が残されています。

昔は、橋の手前が馬太鞍部落で、橋を渡ると太巴堲部落となっており、狩りなどで獲物を追っている時、この橋を獲物が越えると、それ以上は追ってはいけないという暗黙のルールが阿美族の間であったそうです。

 

【現在の馬太鞍部落】

台湾鉄道光復駅を出ると、目の前に東へと一本道が延びています。これが台11甲線で、中正路という通りになります。駅前の南北に走る大きな道路は台9線(国道9号線)。そこを横断し、中正路に入ると馬太鞍へ一歩足を踏み入れたことになります。

中正路に入ると目に留まるのが古いバロック建築の建物。これは、日本時代、すなわち、上大和村時代に建てられた建造物です。現在も現役です。その中の一つで現在、薬局(合康薬局)となっている建物(益壽堂)は、2002923日に花蓮縣政府が「歴史的に価値のある建物」として認定しています。(下記のファミリーマートの西隣)

中正路と中山路の交差点に全家(ファミリーマート)がありますが、この建物は日本時代、大和会館と呼ばれ、集会場や映画館がありました。2階部分の外観は当時のままです。

 

【馬太鞍神社跡(現、台灣基督長老教會馬太鞍教會)】

 昭和4年(1929 年)に建てられ馬太鞍神社。戦後は台灣基督長老教會馬太鞍教会(キリスト教長老派教会)となりました。神社の面影は、正面入り口への階段やわずかに残った石垣くらいです。

今の教会は、ドーム型の鐘楼で、この地域の代表的な歴史的建造物となっています。

 

【納骨碑】

秀林郷の章でもご案内しました様に、昔、山に住む原住民達には首狩りの習慣がありました。これは、成人になるための男子の儀式でもあり、「首を狩ってこそ一人前の男」として認められ、結婚する事の許されました。

また、自分達の領域に侵入してくる部外者は敵とみなし、首を狩るという習慣は、原住民の間では広まっていました(山、平地関係なく)。

狩って来た首は、まずは部落の頭目に見せ、頭目と酒を交わします。その後、全員でお祝いの宴を楽しみ、終わると首は山の中の所定の場所に1年間吊るしておきます。1年後、白骨化した首を持ち帰り、部落の入り口に首棚に戦利品として飾ります。この首棚に首が多いほど、「我々の部落には勇猛果敢な戦士が沢山いるから近寄るな」という合図にもなっていました。

日本時代に入り、原住民の首狩りの習慣は禁止されました。大正14年(1925年)、首棚の頭骨も全て強制撤去され、集団埋葬されました。

一方、日本時代、花蓮ではマラリアが流行しており、当時は真で特効薬もなく、大勢の人が命を落としました。さらに、度重なる台風、大雨で家も畑も失い、行き場を失った人が大勢いました。野宿同然の生活をしていた人もおり、誰に看取られることもなく亡くなっていった人もおり、この様な無縁仏となった人は、村人達が火葬し、遺骨を前述の頭骨を集団埋葬した場所に一緒に埋葬しました。

昭和6年(1931年),第八代花蓮港廳廰長の淺野安吉氏がこの集団埋葬地に「納骨牌」を建て、無縁仏となった人々の御霊をお祀りしました。

この納骨牌は、馬太鞍部落と、次章で紹介する太巴堲部落にも建てられ、両方ともに、今も大切に地元に人々によってお祀りされています。

光復郷には馬太鞍部落と太巴堲部落の納骨碑は2002923日に花蓮縣政府が「花蓮縣歴史遺跡」に指定しました。


【歴史の生き証人】

蔡慶隆さんへのインタビュー2015415日インタビュー)

蔡慶隆さん、日本名は伊藤貞夫さん。大正13910日生まれの92歳。

花蓮農林高校を卒業後、先生の推薦により教員助手として働き始めました。その半年後、兵隊へ行きましたが間もなく終戦を迎え、国民小学校の教員として復帰。阿美族という事で、様々な差別を受け、辛い思いをされていましたが、ある時、「地元に戻って地元の子供達を指導した方がいい」という恩師からの薦めもあり、地元の小学校へ転勤。定年まで教師一筋でやってこられました。

「日本時代、徴兵されることをどの様に感じておられましたか?」という筆者の問いに対し蔡さんは、「一日も早く、立派な兵隊になって、戦地へ行きたかった。高校在学中に、海軍航空部隊を志願し、試験を受けに行ったが、視力が悪く不合格になった。悔しかった。一緒に試験を受けた仲間が合格し、半年間の訓練の後、戦闘機に乗って、学校の上空を旋回し、自分の配属地のメモを飛行機から落としていった。南飛行場と書かれていたので、放課後、友達とすぐに南飛行場へ会いに行った。羨ましかった。日本国のために立派な兵隊となった友達がまぶしかった。自分も学校卒業後、半年間の教員助手を得て、やっと海軍へ配属になり、これで自分もお国のためにお役に立てる男になったと嬉しく、誇らしかった。死ぬことなど何も怖くはなかった。

海軍では航空部隊の配属になったが、地上勤務で、主に、上大和飛行場での作業と空襲の際には、街角に立って、人々の避難を誘導したり、空襲後の遺体の回収作業だった。一番印象に残っているのは、アメリカ軍の機銃掃射があり、爆弾も投下され、その内の一つが防空壕の入り口に直撃した。そこにいた人たちは全員死亡。遺体は全てが肉片となっていた。頭上を見上げると建物の屋根の上から電線の様なものがぶら下がっていた。よく見るとそれは人の腸だった。あれには参った。」と応えてくださいました。

そして最後に蔡さんは「私に教員の道を薦めてくださったのも日本人の先生。教育を受けさせてくださったのも日本。私は自分が日本人であったことを誇りに思っています。今でも私は伊藤貞夫です。」と笑顔で話してくださいました。(2017年他界)


光復郷老人会にてのインタビュー

老人会に集まった皆さんに日本時代の思い出話を話して頂きました。

◎「日本統治時代の教育は本当に素晴らしかった。あの教育があったからこそ、今の台湾がある。しかし、最近の日本、台湾の教育はダメだ。まず、先生を尊敬する心が、子供にも親にもない。あれではダメだ。ただ一つ、嫌だったところは、すぐに叩くという事。暴力はいけない。」

◎「日本時代は泥棒もいなかった。」

◎「艦載機が機銃掃射して来たとき、日本の兵隊さんが子供だった私を防空壕へと導いてくれて命が助かった」

◎「台湾人が一番嫌いだった台湾総督は乃木総督。彼は、台湾人を見下げていた。一番好きな総督は、児玉総督。彼は常に心があり、また、彼と後藤新平のおかげで、今の台湾の基礎が出来た。そして、賀田金三郎の貢献度は本当に大きく、忘れてはならない人物である」


昭和15年生まれの台湾の方へインタビュー(名前は伏せて欲しいとの事)

「終戦当時は5歳だったので、残念ながら日本教育を受ける事は出来なかったが、両親が家庭内では日本語を使っていたので、日本語は聞取りは多少出来きます。幼い時の思い出としては、アメリカ軍の戦闘機が当時の鹽水港製糖大和工場に空爆を行っている光景だそうです。日本軍は必死に高射砲で応戦するも、そのはるか上空から爆弾を落とすアメリカの飛行機を見た時、子供ながらも、「日本は負ける」と感じた。また、ある日、日本兵が自宅を訪れ、自宅で飼っていた地鶏を一匹、購入していったそうです。その時、その兵隊さんが「この地鶏は、明日、出撃する特攻隊員への最後の食事に出すんだよ」と悲しそうな顔をして語った事を今も鮮明に覚えている。

日本が敗戦し、引き揚げた後、1945年に国民党がやって来た。それからは生活が一変し、悪くなる一方だった。中国は台湾をダメにした。」その他、色々なことをお話し下さいました。そして最後に笑顔でおっしゃった事は、やはり、「私の心は今でも日本人です。」でした。


昭和2年生まれの台湾人の方へのインタビュー(名前は伏せて欲しいとの事)

「私は日本人として生き、日本教育を受けていました。その事に誇りを持っています。日本人は勉強だけでなく、人間としての躾、常識というものもしっかりと教育してくれました。しかし、1945年の終戦後、中国から国民党がやって来ました。彼らは教育レベルが低かった。勉強のみならず、人間としての教育レベルも低かった。だから私は中国人が嫌いです。日本教育を受けたほとんどの台湾人が中国人が嫌いなのは、教育の違いがあるからです」


羅さんへのインタビュー(苗字のみ公開を了承して頂きました)

「私は幼少時代は、今の光復郷、昔の上大和村に住んでいました。丁度、昭和20年の春、鹽水港製糖大和工場へのアメリカ軍の空襲がありました。空襲の前、製糖会社の人達が、空襲に備えて、生産した砂糖を俵に入れ、上大和の住民の家で保管して欲しいとやってきました。私の家でも大きな俵に入った砂糖を幾つも預かっていました。俵の隙間から砂糖が漏れ出すのですが、それを集め、火で焚き、水あめにしておやつにしていました。あの味は今でも忘れることが出来ません。

私の家は製糖工場から離れた場所にあったので、空襲の際は、その様子を見ていました。アメリカ軍の戦闘機から爆弾が投下され、工場からは黒煙が出ていました。また、戦闘機からの機銃掃射は、遠くから見ていると、まるで、ロケット花火が戦闘機から発射されているように見えました。私の友達のお父さんも工場勤務でしたから、とても心配でした。

戦後、私達家族は、隣の鳳林へと引っ越しをしました。引っ越した家は日本人が住んでいたい家で、敷地内には大きな煙草葉の乾燥小屋もありました。しかし、終戦の翌年、台風が花蓮を直撃。私の家も、煙草葉の乾燥小屋も、潰されてしまいました。日本人が住んでいた頃も大きな台風が何度も花蓮を直撃しましたが、ビクともしなかった家屋と乾燥小屋。それが、日本人が去った後、すぐに、台風で倒壊したのです。

父は「これはきっと、神様が怒っているんだ。日本人が一生懸命に作り上げた街や田んぼや畑や建物を、我々が奪ったことへの天罰だ」と言っておりました。あの時の父の言葉が今でも忘れることが出来ません。

今の台湾は日本人によって作られたもの。我々台湾人は、それを引き継ぎ、拡大させただけ。日本人への恩を我々は決して忘れてはいけないと思います。」


日本名 山下愛子さん(阿美族)へのインタビュー(2015415日)

インタビューを始める前に必ず「お名前を教えて頂けますか」とお尋ねするのですが、この方は、「名前は山下愛子です」と即答されました。筆者は「日本時代は山下愛子さんだったのですね。今のお名前は何と言いますか」と尋ねると「今の名前は仮の名前です。私は山下愛子です」とお答えになりました。そのお気持ちを尊重し、ここでは、山下愛子さんとご紹介させて頂きます。

「日本統治時代の教育は本当に素晴らしかった。あの教育があったからこそ、今の台湾がある。しかし、最近の日本、台湾の教育はダメだ。まず、先生を尊敬する心が、子供にも親にもない。あれではダメだ。ただ一つ、嫌だったところは、すぐに叩くという事。暴力はいけない。日本時代は泥棒もいなかった。

艦載機が機銃掃射して来たとき、日本の兵隊さんが子供だった私を防空壕へと導いてくれて命が助かった。終戦後、日本兵として出兵し、戦死した台湾人、原住民の家を、日本の兵隊さんが一軒一軒回り、乾パンや缶詰を持って、慰めに来てくれた。そして、すまなかったと謝罪していた」(2016年他界)


前列右側が山下愛子さん
山下愛子さん提供 賀田金三郎研究所所蔵

馬太鞍國小の卒業写真
山下愛子さん提供 賀田金三郎研究所所蔵




台9線(国道9号線)沿いに建つ、馬太鞍部落阿美族の碑

 

台湾鉄道光復駅

花蓮縣歴史遺跡指定のバロック建築の家屋


光復郷中正路

旧大和会館(現在は、1階がファミリーマート)


馬太鞍官吏派出所
國家文化記憶庫より

現在の光復派出所と消防署


馬太鞍神社へと続いていた参道の階段(当時のままです)



教会の建物の足元に残る神社の階段


台灣基督長老教會馬太鞍教會



馬太鞍部落納骨碑



*益壽堂 : 花蓮縣光復郷中正路一段85號(現、合康薬局)

 台湾鉄道光復駅下車 徒歩3

*馬太鞍納骨碑 : 花蓮縣光復郷延平街

 台湾鉄道光復駅下車 徒歩20

*台灣基督長老教會馬太鞍教會 : 花蓮縣光復鄉大馬村中山路三段8914

 台湾鉄道光復駅下車 徒歩15

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