台湾近代化のポラリス 潮汕鉄道2 愛久澤直哉

 明治37年(1904年)に後藤新平民政長官は愛久澤直哉以下元鉄道部員送別晩餐の席上で、「抑本島ノ位地タル帝国南進ノ「ステーション」ニシテ之ガ統治上ニハ對岸及南洋諸島經綸ノ必要ヲ生スルハ自然ノ理ナリ 就中福建省不割譲及鉄道布設ニ関スル約定ノ如キ……之ガ効力ヲ発揮セントスルニハ着々彼地ニ於ケル我商業的又実業的勢力ヲ扶植セサルベカラズ 目今ノ商業的帝国主義ハ各国共ニ国家ノ後援ノ下ニ進ムヲ以テ通義トスル以上ハ吾人モ亦此注意ヲ怠リベカラサルハ勿論ナリトス……。」と演説している。これは、潮汕鉄道と台湾総督府の対岸及び南洋政策は非常に緊密な関係がある事を物語っている。

 これから賀田組若手従業員達を前にして、社長の賀田金三郎が語るのは、この潮汕鉄道についてだった。

「さて、潮汕鉄道を語る上で忘れてはならない人物の一人が愛久澤直哉氏である。彼は私より9歳年下で愛媛県新居郡の出身。明治27年(1894年)に、東京帝国大学(政治科)卒業後、三菱合資会社庶務部に入社した。明治32年(1899年)11月に依願退職し、同12月より、台湾総督府商工旧慣取調嘱託、参事官室勤務となった。その後、明治35年(1902年)から明治43年(1910年)までの間、臨時台湾旧慣調査会第二部部長(明治37年のみ委員)を務めた。後藤長官が台湾統治政策のために必要不可欠と訴えられたあの旧慣調査だよ。

 一方日本が台湾を統治して以降、明治35年頃(1902年)までは、台湾における武装抗日運動犯が対岸である中国福建省に逃げこむという状況が続いていた。そのため、総督府は、島内治安維持のため、さらには中国大陸南部地域への影響力をのばすため対岸とりわけ福建省廈門に注目していた。

明治33年(1900年)の義和団事件に乗じて廈門に出兵し軍事的占拠も試みたが失敗し、(廈門事件)事件後は経済的側面による対岸政策を進めていくことになった。

 総督府が、この「対岸経営」の実行機関として明治35年(1902年)福建省廈門にて「三五公司」を設立させ、その責任者が愛久澤直哉氏だった。愛久澤氏は、後藤長官の台湾統治上の経済方面の最高顧問だった。後藤長官も絶対的な信頼を置いておられた。

 余談だが、三五公司の『三五』とは、設立が明治35年であり、愛久澤が当時35歳であったことから命名されたそうだ。この三五公司は、表面上は日本と中国の合弁会社の形態をとっていたが、実際は、国家的色彩の強い機関であっ多様に思える。」と賀田は言った。

 愛久澤は、明治41年(1908年)の後藤新平にあてた手紙において三五公司の設立趣旨について、以下のように語っている。

「蓋シ清国ハ恐ルルニ足ラズトスルモ、支那民衆ノ経済吸集力ハ實ニ懼ルベキモノナルベク、之レヲ敵トスルト、之ヲ味方トスルトハ、邦家百年ノ計ニ於イテ得失最モ著大ナルモノアラムカ。三五公司ハ其ノ對岸経營ニ於テ、其ノ南洋施設ニ於テ、當ニ是ノ主義ニ原ヅキ行動シ、走馬鐙的政府ノ處理ヲ度外ニ置キ、固ク民族ノ咽喉ヲ扼シ、深ク其ノ肺肝ニ入ルニ於テハ、其事ノ大小ニ論ナク、又我政府ノ時々ニ孌更セラルル方略ノ如何ニ係ラズ、伸縮自在、邦家ノ爲メ得ル所在ルモ、決シテ損スル疑コトナキヲ疑ガワズ。故ニ年ト共ニ此ノ趣旨ノ實行ヲ擴大セント冀(こいねが)ヘリ。」

廈門事件後の対岸経営はもっぱら経済面から行うというものであり、実際台湾総督府の対岸経営も愛久澤のこの認識に基づいて行われた。

 三五公司の事業内容は、以下の様なものであった。

① 福建省で産出される樟脳の専売事業

② 広東省汕頭と潮州を結ぶ潮汕鉄道の経営

③ 星架坡殖林業務

④ 仏領東京採貝業務(トンキン湾のことと思われる)

⑤ 源成銀行

⑥ 東亜書院

⑦ 龍岩及び福建鉄路

⑧ 汕頭水道事業

 ちなみに、三五公司の八大事業が順調に発達すれば満州における南満州鉄道のような植民会社となるはずであったが、総督府は三五公司に対して継続的な支持補助をしなかった。

また、愛久澤に対する讒言(ざんげん:他人をおとしいれるため、ありもしない事を目上の人に告げ、その人を悪く言うこと。)が日本の政治運動家で、児玉源太郎、後藤新平、桂太郎などの参謀役を務め、政界の黒幕と言われた杉山茂丸によりなされた。これが児玉や後藤の愛久澤への信頼を揺るがせることになり、三五公司は八大事業すべてにおいて対岸からの撤退を余儀なくされた。愛久澤の三五公司も「国家的色彩の強い機関」から愛久澤の個人的私企業の変化していった。

いつの時代にも、讒言という、人間の醜さが人の人生を変えてしまう事は誠に悲しい事である。

 さて、賀田組事務所2階の様子はと言うと、賀田が愛久澤について紹介し終わり、いよいよ潮汕鉄道の話に入ろうとしていた。

「潮汕鉄道敷設計画について,清国では早くから知れ渡っており,明治34年(1901年)に惠潮嘉道(清朝時代の広東省の行政編制)の丁寶銓氏が汕頭(広東省東部)の紳商と路線測量について協議を行ったのだが,最終的に資金の目途が立たなかった事により実現されなかった。この鉄道計画は,広東,江西,福建3省の商業圏にとって最も期待されていた事業で,かつ敷設工事も容易な事もあり、資金を集め着工することさえ出来れば成功する事業と言われていた。

そこで動いたのが、買弁と呼ばれる連中だった。買弁とは、外国人居住区である租界において、外国商社に雇われて商品の買い付けや売り込みなどに従事し、手数料を得る中国人商人で、このような、租界で成長した外国資本の手先となった商人の事だ。

彼らが地方紳商と協議を重ね,秘密裏に計画を作成し,当時の清国郵伝部大臣の盛宣懐大臣とも話し合いを行っていた。

盛宣懐大臣は,このような重要な事業が外国人に独占されてしまうのを恐れ,香港の清国人で阿片商人の呉理卿氏(別名、呉大容)と協議し,清国人の事業として建設する事を約束したのだ。

しかし、その時点では呉氏は鉄道事業にはあまり興味を示さなかった。

その後,この鉄道計画については暫く機密事項とされ、華南地方の有志達の間で、鉄道建設が必要だという世論が起こった際に,呉氏は鉄道事業に再度関心をよせるようになった。

 明治36年(1903年)11月上旬,呉氏は阿片の事業で厦門、台湾を訪れた際に愛久澤氏と面会し、潮汕鉄道の経営について話をした。

 そして、呉氏と愛久澤氏は「呉が北京政府に対し,鉄道敷設権取得の手続きを行い,日本側は資金の一部を負担する。その見返りとして、鉄道建設は完全に日本の技師に委託する」という旨の密約を締結した。

 明治37年(1904年)219日、愛久澤氏は、台湾総督府の派遣員と密接な関係を持ち、大阪商船会社厦門支店の買弁を行うと同時に,愛久澤氏の華南における事業の支援を行っていた林麗生氏が提出した契約書と会社章程に基づいて、次のような要点を児玉総督及び後藤長官に報告した。

 1:本会社の資金は200万元とし,張京堂(張煜南)と謝栄光がその半分を負担し,我国と呉理卿が残りの半分を負担する。

2:本会社の事務は主に呉理卿,林麗生が取り仕切り,南洋にいる張,謝に報告を行う。

3:建設や運転に関する事務は,日本技師を用いる。

4:全ての機械類は日本品を優先的に使用する。

技師の雇用と材料提供に対しては日本側に独占権がある訳だが、会社がまだ設立していかったので、正式な契約は行われていなかった。

 呉氏と林氏が潮汕鉄路公司の事実上の統率者であり,呉氏と愛久澤氏との間では既に密約を結んでいたし、林氏は潮汕鉄道事業において三五公司愛久澤氏の分身であって,密約を結ぶことは非常に容易なことであった。

しかし、日本側にとっての一番の難題は,潮汕鉄道の名義上の代表であった張煜南氏から独占権の保障を受けることが出来るかと言う事だった。

 実はこの張煜南氏、なかなかのやり手で、広東嘉応州出身で,南洋に渡り事業を展開し,ソロモン島のジャワに住んでいた。オランダ東インド会社で、中国移民の管理を担当し、オランダ政府と種々協力関係にあり,現地では名の通った華人リーダーだった。

さらに、張氏と商部で官職に就いている者の一人が親戚関係にあり,盛宣懐大臣とは非常に親しい関係にあった。愛久澤氏と呉氏の密談の前に,張氏は明治36年(1903年)10月に,既に正式な敷設権を取得していたのである。

 両広総督の岑春総督と広東巡撫の張人駿巡撫(知事)は「商業振興と利便向上の為,同氏が行う開鑿や土地収用,材料運搬,施工等の一切の事項について,指示通りに行い,これを少しも疎んではならない,と住民に知らせるように」と地方官に命令を発していた。

 つまり愛久澤氏にとっては、呉氏との密約はあるとはいえ、もし潮汕鉄道名義上の代表である張氏の保証を得ることが出来なければ,技師雇用や材料提供の独占権を得ることは難しいという状況にあったのだよ。」と賀田が言うと、最年少の森が「社長、何だか小説みたいなお話ですね。ハラハラ、ドキドキする話ですね。」と興奮したように言うと、隣に座っていた最年長の菊地が「正に、商いで一番難しく、でも、やりがいのある駆け引きですね。」とこちらも興奮気味に言った。

 この後、愛久澤は、台湾総督府に支援を求める電文を送るのであった。

その電文を受け取った総督府だが、日露戦争寸前で児玉総督は台湾を不在にしており,後藤長官は東京に出張中という状況であることを愛久澤はその時は知らなかった。

 

愛久沢直哉 東京帝国大学明治27年7月政治科卒業生・教員集合写真より)

東京大学デジタルアーカイブポータルより引用


東京帝国大学明治27年7月政治科卒業生・教員集合写真

東京大学デジタルアーカイブポータルより引用


東京帝国大学明治27年7月政治科卒業生・教員集合写真裏面

東京大学デジタルアーカイブポータルより引用


【参考文献】

明治37年後藤民政長官演説 海軍省公文備考第11章戦役等日露戦書明治37-38年戦時書類補遺 防衛省防衛研究所,明治37(1904 )5月27

中村孝志 「台湾総督府の華南鉄道工作―潮汕鉄道をめぐって」

 「潮汕鉄道敷設假契約調印濟竝ニ日本ヨリ技師招聘及器械供給ニ關スル件」 日本外交文書第37巻第2冊(原文書:明治37(1904)1月28,19冊第778

 「潮汕鉄道敷設ニ関シ張南ノ奏請竝ニ右ニ對スル上諭ノ件」 日本外交文書第37卷第2冊(原文書:明治37(1904)2月6日,19,784

蔡龍保 日本統治期における台湾総督府鉄道部の南進政策 清国広東省潮汕鉄道の事例 立教経済学研究第巻第5号年


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