台湾近代化のポラリス 後藤新平が指摘した統治政策における日本人の弱点

 日本出張から台湾へ戻った賀田金三郎。当時の賀田は、台湾のみならず、日本での様々な事業への投資も行っており、その打ち合わせのために日本へ出張する事も多かった。日本に戻った際には、麻布の邸宅に滞在していたのだが、彼が麻布に邸宅を設けたのは、後藤新平もまた、麻布に邸宅を設けていたことが大きく関わっていた。

 今日は、久しぶりに、賀田を囲んで、台湾統治初期の話を聴けるとあって、仕事が終わると、大勢の賀田組若手従業員達が賀田組台北本店の2階に集まっていた。そこに賀田が現れると一斉に拍手が起こった。驚いた賀田は「どうしたんだね」と笑顔で言った。すると最年少の森が「社長、おかえりなさい。日本はどうでしたか?」と尋ねた。賀田は「今回の日本出張は忙しかったよ。まあ、いつものことだがね。」と答えると「今回はどの様な用件で日本へ」と今度は最年長の菊地が尋ねた。「今回は、渋沢栄一氏とお会いして、東京急行電鉄設立について話をしてきたよ。出資することになった。」と答えた。

 日本での土産話を一通り終えた賀田は「さて、今日は、後藤新平長官に対して、君たちが感じている事を聞きたいね。素直な気持ちで答えてくれた。」と言った。しばらく沈黙が続いた後、菊地が「社長より素直な気持ちでというお言葉がございましたので、自分の気持ちを正直に述べさせて頂きます。後藤長官が台湾の近代化に向けてなさってきた事は本当に素晴らしい事ばかりだと思います。しかし、そのために莫大なお金が必要となり、日本政府からの批判も多かったと思います。何故、後藤長官はそこまでして莫大なお金をかけたのか。他に方法は無かったのかを知りたいです。それと、巷では、後藤長官の台湾統治方法は、差別主義的な方法を講じたと云うものもございます。この点についても教えて欲しいです。」と言った。

 これの質問に対し賀田は「菊地君、なかなか鋭い質問だね。我々の様な商売人にとっては、一つの事に投資する場合、それが、活きたお金の使い方なのか、単なる死に金となるのかを見極める事は非常に大切だ。確かに、後藤長官の台湾近代化には莫大なお金が必要となった。当時の日本の経済状態からみればその投資は、過剰なものであり、内地の経済的利害と衝突する不合理なものであるという意見もあった事は事実だよ。

しかし、統治した頃は抗日派との武力衝突が続き、総督府も抗日対策に追われる日々だった。当然、その事は内地にも知れ渡っており、台湾へ移住を希望する者は冒険者とも言われ、台湾勤務を命じられたらそれは左遷と思われる様な有様だった。

抗日派対策に集中するあまりに、台湾国内の整備は一向に進まず、台湾人からも不満の声があがり、それがまた、抗日派を勢いづけることになるという悪循環を続けていた。その様な状況下で、児玉源太郎総督、後藤新平民政長官が台湾に赴任され、一気に、状況が変わった。詳しい話は今まで話してきたのでここでは割愛するが、これによって、まず、台湾人からの不満の声が減った。これは、日本が台湾を統治する上で、非常に重要な事だった。しかし、単に、台湾人からの不満を無くすことだけが目的ではなかった。後藤長官は、現地に進出した一般の日本人に定住意識を持たせ、台湾での経営と開発に本格的に取り組む姿勢を、日本人と台湾人の双方に対して持たせることが重要だとお考えだった。事実、様々な環境整備が整うと、日本からの移住者も増えていった。

実は、後藤長官は、統治当初、台湾経営が上手くいかなかった原因を分析されている。

失敗原因を抗日派側に一方的に帰責すべきではなく、日本人自身が克服すべき弱点があると述べられた。特に、これから説明する3つの問題が最も致命的な弱点であるとおっしゃっている。

まずは、植民政策に適した宗教を欠くこと、次に、内地が良すぎること、そして資本の不足。

まず宗教についてだが、西欧の歴史を振り返って見ると、植民地統治を円滑に進めるには民間レベルでの活発な情報収集や相互交流が不可欠だと西欧では考えられていた。そのために、まずは宣教師が先発し現地に入り込み、宗教活動を行っている。この宣教師たちが、その土地の様々な習慣、慣習、文化、人間性等々の情報を得て、それを基にして、政策が打ち出されている。

さらに、宣教師は、「誠実に風俗人情歴史の変遷等」を考慮し、移住者に「拓殖精神」、つまり拓殖事業の苦難に耐えうる強い信念を植え付けるうえでも、鍵となる役割を果たしていた。しかし、日本の場合、台湾での日本人による布教活動(仏教やキリスト教など) は不十分であり、それゆえ日本の植民地支配は、「宗教に頼らずして拓殖事業を成就する」 という独白の道を歩まなくてはならなかった。

「内地が良すぎる」「資金不足」という点についても、台湾が内地に比べて危険で、環境整備も整わず、新たな事業や昇進の見込みもない土地と思われていることが、 定住意識をもたない、冒険主義的な日本人の流入を引き起こしている。

あらゆる面において、当時の台湾の位置づけは、政府の掛け声とは遠く離れた場所にあり、政府も掛け声ばかりで、その実態は伴っていなかったのだよ。

 さらに、後藤長官は、統治政策を円滑に進めるためには、統治する側、すなわち、日本人が統治される側、すなわち、台湾人よりも優位に立つ必要があるとお考えだった。この優位的立場を得るために、武力ではなく、知力で勝る必要性を訴えておられる。

それ故に、清国ですら出来なかった鉄道・道路整備、衛生環境を整える事を最優先とされたのだよ。例えば、台湾の医療衛生施設においても、「台北の病院で治療をしてもらい、それで死んだとしても後悔しない」というレベルにすることで、内地の日本人に対しては台湾の優良性を訴える事が出来るし、台湾人に対しては日本人の優良性を訴える事が出来るという考えだよ。

 これらを実現させるためには、当然のことながらそれ相応のお金が必要となる。しかし、台湾への投資は活きた投資であることを後藤長官は見事に証明されたわけだし、台湾人も日本人の優秀さを確認し、日本人の優秀さのおかげで、それまでとは違った、より良い生活環境を得ることが出来たのだよ。

 台湾に対する内地人の誤解を解く一つが第五回内国勧業博覧会への台湾館としての参加だったな。」と賀田が言うと森が「第五回内国勧業博覧会と言えば、社長も関わられた博覧会ですよね。」と言った。

 賀田は、当時のことを思い出し、懐かしく思った。

 

 

若いころの後藤新平

(近代日本人の肖像より)

 

 【参考文献】

 陳培豊 『「同化」の同床異夢』

越沢明 『台湾・満州・中国の都市計画』『近代日本の植民地3

後藤新平 『台湾協会設立に就て所感を述ぶ』 協会報2号。

拓殖大学創立百年史編纂室編 『後藤新平』

伊能嘉矩編 『領台十年史』

後藤新平 『台湾の実況』 協会報7

後藤新平 『台湾協会学校学生諸君に告ぐ』 協会報28

後藤新平 『師友の地再遊の所感』 東洋時報216

後藤新平 『台湾協会学校学生諸君に望む』 協会報40

阿部純一郎 博覧会における「帝国の緊張」 第五回内国勧業博覧会(1903)における内地観光事業と台湾館出展事業 文化情報学部紀要,第11 巻,2011 年,

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