台湾近代化のポラリス 教育改革2 婦人会への関与

 「さて、後藤長官の台湾における教育方針について既に話した通りだが、もう一つ、長官にはお考えがあった。それは、台湾人女子に対する教育だ。先ほども申したように、中華思想の悪しき慣習とでも言うか、女子に対しては教育は不要という考えを是正させ、台湾女子にも男子と同じ様に教育を受けさせる必要性を後藤長官は感じておられた。その理由としては、日本精神と根付かせるためには、家庭教育も非常に大切な事。折角、学校で日本式の教育を受けても、家に帰るとそこには、昔ながら台湾の生活、習慣、慣習、文化(特に言語)しか無ければ、学校での学んだことは半分以下になってしまう。

家庭教育で重要な位置にいるのが婦人達だ。故に、女子教育は絶対に必要だと思われた。

しかし、突然、『女子も学校へ行きましょう。』と呼びかけても、それは何の効果も出ないことは容易く想像出来る。そこで後藤長官が眼をつけられたのが台湾の婦人団体だった。当時台湾にはいくつかの婦人団体があったが、後藤長官は、台湾人の婦人に対し影響力のある団体はどれかを調査され、その結果、『篤志看護婦人会』『愛国婦人会』『台湾婦人慈善会』の3つの団体に対し積極的に関与された。

毎時32年(1899年)4月に、当時の台北縣知事だった村上義雄知事の奥様を始めとする四十余名の台湾在住の日本人婦人達が『日本赤十字社篤志看護婦人会台北支会』を設立された。発起人たちが集まった際に、後藤長官の奥様である和子様に支会長になって頂きたいと要望があったのだが、後藤長官が謝絶されたそうだ。」と賀田金三郎は、賀田組若手従業員達を前に、台湾教育についての続きを話していた。

すると菊地が「社長、何故、後藤長官は奥様の支会長就任話を謝絶されたのですか?」と不思議そうな顔をして尋ねた。それもそのはずである。後藤は、台湾女子に対する教育の重要性を理解し、台湾女子を学校へ入学させるための手段として、婦人団体を活用しようと考えたのならば、自分の妻を支会長にすれば何かと便利ではないかと普通ならば考えるところだ。

賀田は「後藤長官は、『女の会は難しい。特に陸軍との関係が面倒である。』とおっしゃって謝絶されたそうだ。私が思うに、これは表向きの理由で、本当のところは、発起人の中に村上知事の奥様がいらっしゃり、その方が中心となって動いておられた事が原因ではないかと。と言うのも、村上知事は、明治29年(1896年)8月に台中県知事として台湾総督府にお越しになり、その後、明治355月に、新竹縣知事・台北縣知事兼務となられた。すなわち、後藤長官や和子様よりも早く、台湾に来られていたので、その方を差し置いて、和子様が支会長に就任されると、そこは女性の世界。色々と面倒があると思われたはずだ。その一方で長官は、月給50円以上の官史に対して『夫が妻に対し、日本赤十字社篤志看護婦人会台北支会に入会する様に勧誘する様』督励され、その後、会員数は激増したそうだ。和子様は会員として同会に入会され、明治38年(1905年)1114日には、看護学を修業されたのだよ。その後、愛国婦人会が明治34年(1901年)東京で設立された。同会は台北支部設立に向けて後藤長官に協力を要請したのだが、後藤長官は冷ややかな対応をお続けになった。実はこの頃から後藤長官のお考えに変化が現れたのだよ。」と言った。すると最年少の森が「女の世界は複雑だ」と真顔で言ったのを聞いて、一同が大爆笑した。賀田も一緒になって大笑いした。

その笑いの中から青木が「社長、愛国婦人会に対して後藤長官は非協力的だったのですか?」と笑いを必死に堪えながら質問した。

賀田は笑い過ぎて涙が出ていた眼を拭いながら答えた。

「非協力的というよりも、後藤長官は、日本人中心の婦人会の必要性に疑問を感じておられたのだよ。そもそも婦人団体に後藤長官が積極的関与をお決めになったのは、台湾女子も学校で学べる様にする必要性を感じてのこと。しかし、日本人中心の婦人会に台湾のご婦人方は参加するだろうかという単純な疑問を感じられたのだ。それと、台湾で集まった会費や募金、慈善救護の資金は、日本の本部に流れていく。それでは意味がない。台湾で集まったものは、台湾で使うべきであるとお考えになった。後藤長官は『台湾は台湾のみ守成の覚悟をもつことが緊要である』とおっしゃっていた。

そこで、明治37年(1904年)、後藤長官自らが『台湾婦人慈善会』の設立を呼びかけられ、和子様が会長にご就任された。翌年には幾度かの協議を経た末、やっと愛国婦人会台北支部が設立し、支部長に同じく和子様がご就任された。

和子様は、台湾では有名な実力者である林献堂(元大東信託社長)の母親や台中の士紳である蔡蓮舫婦人(蔡には、正妻の他に3人の妾がいたが、その内の誰なのかは不明)などを役員、幹部とし、十数名の台湾人婦人を会員として迎えられたのだよ。」と言った。

するとまたまた森が「和子様って凄いお方なのですね。」と感心したように言うと賀田は、「確かに凄いお方だが、決してご自分が前に出る事はされず、あくまでも内助に徹せられた。私の妻、ミチは和子様に大変可愛がっていただき、様々な事を教わったのだが、その中でも、とても印象に残り、自分もそのお考えに従おうと思ったお言葉があって『一家の主婦が、偉いとか何とか、世間に名前が知られるようになった時は、その家庭に不幸があるという印です。』というものだ。」と言った。

それを聞いた菊地は「社長の奥様も、後藤長官の奥様も、正に、良妻賢母を体現されておられますね」と言った。賀田は嬉しそうに笑った。

そして菊地はさらに話を続けた。「社長、後藤長官が婦人団体に積極的関与されたことはわかりましたが、その関与がどういった形で、台湾女子の教育への道へと繋がっていくのですか。」と質問した。

賀田は、「それには、幾つかの答えがある。まず最初は、纏足*1と断髪だよ。当時、士紳階級の女性はまだ、纏足の習慣が残っていた。こういった女性に文明の空気を知ってもらおうとした。台湾婦人慈善会や愛国婦人会は薬代を負担するなどして士紳階級の女性達を纏足から解放しようと活動し、篤志看護婦人会には纏足からの解放を奨励させた。日本が台湾を統治した当初、纏足、辮髪が禁止されるという噂が台湾中に広がり、台湾人達の間では日本人に対しての恐怖感が広まっていたのだが、婦人会の活動のおかげで、緊張は徐々に和らいでいったのだよ。

次が、資金集めだ。例えば、明治37年(1904年)10月、和子様を始めとして、台湾社会の各方面の中枢にいるご婦人方による慈善音楽会が開催された。収入総額10,64494銭、諸経費を差引いた実収入が9,000円以上もあったそうだ。その後、各地でも慈善音楽会が開催され、5万円以上の収益があったそうだ。

さらに、この慈善音楽会では、後藤長官、総督府の官史、在留内地人、台湾(本島)人が参加し、会場内では、和子様や局長、課長の奥様が来場者への接待に当たられた。来場者にしてみれば、普段はお目にかかれない民政長官夫人からお菓子やお茶が頂戴出来のだから台湾人してみれば無上の喜びでもあったようだ。また台湾人士紳達にとっては、総督府の上層部に近づく手段の場でもあった。

最後に、この慈善音楽会では、日本の文明開化の成果を見せる最高の場でもあった。日本人は全員、モーニング又はフロックコート姿で、蓄音機(当時はまだ珍しかった)をかけ、オペラを歌い、社交ダンスを披露したりと、当時の台湾と比べて進んだ日本の文明を披露する事で、台湾人自身の知識を高めようとされた。

実はここでは後藤長官ご自身が創作された唱歌「新高山」「世界の友」のレコードを私費でアメリカのコロンビアレコードに各48枚を製作させて、台湾婦人慈善会にご寄贈されたのだよ。」といつもの様に、後藤新平の偉業を誇らしそうに語る賀田であった。

 この様に、後藤新平は婦人会を活用して、台湾士紳や日本と台湾の女性同士の関係を円滑なものにし、協力体制を固めていった。特に、日本人女性を通して、台湾人女性の考えを変革させることで、台湾女子教育計画を前に進めていこうと考えたのである。

 一説には、後藤は全て、日本統治経営を円滑に進めるために、あらゆるものを利用し、心底、台湾人の事を考えて行った事ではないという説もあるようだが、結果的には、この後藤の働きがあったからこそ、台湾人女子への教育の門戸が開かれたという事実は忘れてはいけない。

 

*1纏足(てんそく)は、幼児期より足に布を巻かせ、足が大きくならないようにするという、唐の末期から辛亥革命ごろまで中国で女性に対して行われていた風習。現代の中国では「小脚」とも呼ばれる。


後藤和子(奥州市立後藤新平記念館より借用)

後藤和子(奥州市立後藤新平記念館より借用)


看護学修学証書(奥州市立後藤新平記念館より借用)



【参考文献】

鶴見祐輔 後藤新平 第一巻 第二巻

日本赤十字社篤志看護婦人会台北支会沿革概要 後藤新平文書

後藤新平 「篤志看護婦人会事業に就き後藤赤十字支部長の演説」

大橋捨三郎 「愛国婦人会台湾本部沿革誌」

台湾婦人慈善会報告 1908

竹中信子 「植民地台湾の日本女性生活史 明治篇」

何純慎 「後藤新平と台湾女子教育」

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