台湾近代化のポラリス 阿片政策

賀田金三郎は賀田組の社長であり、台湾や日本の数々の会社の株主、取締役、監査役を務める人物であったが、決して威張ることはなく、賀田組の若手従業員達とも時間の許す限り、色々な話をするのが好きな人物であった。話す内容は、自分の成功話はせず、失敗談ばかりを話したり、恩義のある人達の話をしていた。

今日も仕事を終えた賀田組若手従業員達が賀田の話を聞きたく、事務所2階に集まっていた。

そこへ賀田がやって来た。「おー、今日も沢山集まっているなあ。」と少し驚いた表情で彼らを見渡した。そこには常連である菊地や青木の顔もあった。すると青木が「社長、今日は後藤長官の阿片対策についてお話してくださるのですよね。」と言うと賀田は、「そうだね。でもその前に、そもそも阿片というものが何時頃から広まったかを君たちは知っているかね。」と尋ねたが、返答出来る者がいなかった。

賀田は「実は、私も詳しいことは知らなかったので調べてみたんだよ」と言いながら一枚のメモを取り出した。

「阿片は元々医薬用にのみ使用されたのだが、これを嗜好品として用いたのは、イスラム教徒によってはじめられたそうだ。阿片を嗜好品として呑食する悪習はペルシャやトルコなどに伝わり、大航海時代にはオランダによってオランダの植民地ジャワに伝わった。そのジャワで、華僑・華人達が阿片に煙草を混ぜてキセルで吸食するようになり、これが阿片吸食(Opium-smoking)のはじまりとされている。

このアヘン吸食は中国人または漢民族の好みに合い、ジャワから北上し、たちまち中国の南部や台湾に伝わったそうだ。

阿片の吸食が台湾へ伝わった経路は、中国経由という説と、ジャワから直接という説があるそうだが、どちらが正解かはわかっていない。

下関講和会議でも李鴻章は伊藤博文閣下に対し“貴国は台湾で土匪と阿片で手を焼くよ”と捨て台詞を吐かれたと言われているが、正に、その通りだった。

私が台湾へ来た当時は、街の至る所に阿片中毒者がいた。土匪によって誰もいなくなった街でたまに見かける者といえば、阿片中毒者だった。

内閣総理大臣であった伊藤博文総理は 初代台湾総督の樺山資紀総督に対し、阿片の厳禁を指示したのだが、とても禁止できる状況ではないほど阿片は台湾に根深く根付いていたのだよ。

伊藤総理は、当時、内務省衛生局長だった後藤長官に意見書の提出を命令されたのだが、この意見書に、後に漸減策と呼ばれる政策が記載されていたのだ。何と、意見書には、具体的な施策や法律に至るまで書いてあったというから凄いではないか。

内容としては、阿片を専売にして登録した中毒患者にのみ販売し、新たな中毒者の発生を防ぎ、50年ほどかけて阿片中毒者を根絶するというものだった。

明治29年(1896年)2月3日に、漸減策で閣議決定され、日本の台湾における阿片政策が定まったのだが、これによって、阿片中毒者達は「自分達には阿片が必要だ。」「阿片を取り上げるな」と猛烈な反発が起こり、土匪達と共に、抵抗する者が増えてしまった。

一方で、先日も話したように、後藤長官は旧慣調査を実施され、同時に、戸口調査もされた。これにより、実際の阿片中毒者が約17万人いる事がわかった。当時の戸籍謄本には、阿片の吸食の有無、纏足の有無が記載されていた。」と言った。

ここまでの話を聞いた青木は賀田に対して「社長、少し話はズレますが、以前に後藤長官の「鯛とヒラメ」の名言があるって聞いたことがあるのですが、これって、今回の阿片対策と何か関係があるのですか?」と尋ねると、賀田は声をだして笑いながら「あー、後藤長官の鯛とヒラメの話か。まあ、阿片の事よりもその一歩手前の旧慣調査にまつわる話かなあ。でも、それがあったから阿片対策へと繋がるのだから、全く関係がないとは言えないかな。しかし、青木君、よくその事を知っているね。」と言うと青木は「はっきりとした内容は知らないのですが、親が話しているのを聞いたような記憶がありまして。社長、具体的にどの様な内容のお話なのでしょうか。」と興味津々の顔で賀田に尋ねた。

「後藤長官の鯉とヒラメの話だが、これは児玉源太郎総督が後藤長官に台湾統治の基本理念をお尋ねになった際にお答になった話で、後日、私も後藤長官に同じ質問をさせて頂いたことがあるのだが、その際に後藤長官がおっしゃったのは、

『ヒラメの目を鯛の目にすることはできんよ。鯛の目はちゃんと頭の両側についている。ヒラメの目は頭の一方についている。それがおかしいといって、鯛の目のように両方につけ替えることはできない。ヒラメの目が一方に二つ付いているのは、生物学上その必要があって付いているのだ。それをすべて目は両方に付けなければいかんといったって、そうはいかんのだ。政治にもこれが大切だ。

社会の習慣とか制度とかいうものは、みな相当の理由があって、永い間の必要から生まれてきているものだ。その理由も弁わきまえずにむやみに未開国に文明国の文化と制度を実施しようとするのは、文明の逆政というものだ。そういうことをしてはいかん。

だからわが輩は、台湾を統治するときに、まずこの島の旧慣制度をよく科学的に調査して、その民情に応ずるように政治をしたのだ。これを理解せんで、日本内地の法政をいきなり台湾に輸入実施しようとする奴らは、ヒラメの目をいきなり鯛の目に取り替えようとする奴らで、本当の政治ということのわからん奴らだ」』と。

これと同じ内容を児玉総督にもお答えになったそうだ。その上で、台湾の習慣や制度は、生物と同様でそれ相応の理由と必要性があるから習慣化しているので、無理に変更すれば当然大きな反発を招くだろうから、台湾の現状をよく調査し、調査結果に合った統治をするのが良いと考えられたのだよ。そのために旧慣調査を実施され、阿片政策もお考えになったのだよ。」と答えた。

青木や他の従業員達は一同に「なるほど」とうなずき、感心していた。

賀田は話を続けた。「台湾における阿片政策の素晴らしいところは、一つの政策でいくつもの効果を導き出すというところなのだ。

阿片は専売制とされたのだが、この専売制度は、16世紀以来東南アジアの諸地域において、ヨーロッパの先進帝国主義国が、阿片収入という財政目的から設けた措置だったのだが、後藤長官は単に財政専売という意味合いだけでなく、阿片吸食者を台湾から無くすことを最終目的とされていた。そこでまず、阿片患者を登録し、登録者や20歳以上の阿片購入・吸引は禁止せず、阿片の専売制という方法を導入された。生阿片は全て輸入して、台湾国内で阿片煙膏(*1)に加工し、輸入価格の3倍の値で販売。これによって総督府は大きな利益を上げ、この利益によって台湾の産業振興の資金を得ることが出来たのだよ。さらに、阿片煙膏の仲売人・小売人への営業特許権付与を通じて、従来から総督府に協力的な人々を「身元慥(まこと)なる者」として選び、権利をあたえたのだ。俗に言う御用紳士というやつだよ。台湾全土の仲売人は60人前後で推移していた。警察署または警察文書ごとに1人の割合で、地方では、郡警察課を単位に警察課ごとに1人の仲売人が指定された。彼らは総督府に買収も強制もされないで、反日台湾人の情報を官憲に提供し、台湾人の民族運動に反対する官制運動を起こして、植民地統治に協力し、阿片専売を通して、治安維持にも役立てたられた。ここが後藤長官の素晴らしいところで、一つの政策がいくつもの効果を生み出す仕組みをお考えになった。」と、賀田は大いに感心しながら話した。この様子を見た最年少者の森が「社長って、後藤長官のなされた素晴らしい実績をお話になる時は、いつもご自分の様に誇らしげに話されますね」と言うと、一同は思わず笑った。賀田も一緒になって大笑いをした。

 

*1 阿片煙膏

けしの液汁を凝固させたもの(生阿片)を吸引に適するように加工・精製したもの

 

【参考文献】

謝春木 『台湾人の要求』 台湾新民報社

馬場虎 『阿片東漸史』 満洲国禁煙総局

伊能嘉矩 『台湾文化志』中巻

王育徳 『台湾――苦悶するその歴史』

鶴見祐輔 『後藤新平』

栗原純 「上海における「国際阿片調査委員会」と日本のアヘン政策――台湾総督府のアヘン専売制度を中心に」『近代日本研究』 第28巻慶應義塾福沢研究センター、

崔 学松 植民地台湾のアヘン問題とその歴史的背景 静岡文化芸術大学研究紀要 VOL.20

杜聡明 『杜聡明第八報告』 杜聡明博士奨学基金管理委員会

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