東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 富里郷農會、公埔遺址、六十石山、吉拉米代(Cilamitay)部落、小天祥 【花蓮縣富里郷】
【富里郷ってどんな街】
富里郷の開拓は、160 年以上前の清朝の道光時代に始まりました。この地で最初に農業を始めたのは、南部の馬卡道、大滿、西拉雅からこの地へ移住してきた西拉雅族(シラヤ族Siraya)です。(西拉雅族は、民族として中華民国政府にまだ認定されていません。ただし、台南市政府と花蓮縣富里郷公所、地方政府によって民族として認定されています。)西拉雅族は平埔族の一部でもあり、そのため、富里郷は平埔族の東部の重要な街であり、街には平埔文化が今も残っています。
清朝の光緒元年(1875 年)、清朝は「開山撫番」によって東部の開発に全力を尽くしました。丁度その時期に初めて、福建省南部人(閩南人)や客家人々の移住が始まり、この地域に移住して開墾を始めました。
日本時代には台湾北部から多くの移民が流入し、人口は清朝時代の2,000人以上から、日本時代の昭和には1万人近くに増加していました。その中で客家人が約40%を占めていました。福建人と平埔族が50%を占め、残りは原住民でした。
戦後も台湾西側からの移民が流入し続け、1956 年までにこの町の人口は 26,000 人を超え、富里郷で最も人口が多い時期でした。しかし、現在では深刻な人口流出により 12,000 人ほどにまで人口が減少しました。主力産業は農業で、中でもお米、金針花は富里郷を代表する農産物で、台湾では全国的に有名な場所となっています。
また、金針花は、六十石山の金針花が全国的に有名で、毎年、8月のシーズンを迎えると、大勢の観光客が六十石山を訪れます。玉里鎮の赤科山と富里郷の六十石山は台湾を代表する金針花の産地です。
山を開墾して作られた富里郷は、豊富な湧き水と肥沃な土壌、豊かな農産物で有名な台湾東部の農業地帯であり、そのため「富里」と名付けられました。
富里郷農會(農協)は、富里産農産物の販売に力を入れており、特に、お米を使った様々な加工品なども積極的に研究開発を行っています。また、富里郷農會販売所に隣接した広場では、見事な多数のオブジェが来る人の目を引き付けています。インスタ映えすると言う事から、毎年大勢の人々がこの広場に見学に集まり、それと同時に、富里郷産の農産物や農産物加工品をお土産として買って帰ります。農會が単に、農業の発展だけではなく、郷内の観光客誘致にも大きく貢献している例として、全国の農會、行政機関が注目しています。
【公埔遺址】
鹿野忠雄氏が昭和4年(1929年)5月13日に立石4個と石壁2座を発見しました。これが公埔遺址(遺跡)です。
富里には、約 2,000 年から 7,000 年前の新石器時代の先史時代には既に、人類が居住していました。郷内では十数か所の先史時代の遺跡が発見されており、その中で最も有名なのが公埔遺跡です。日本人研究者・鹿野忠雄氏の研究により、当時の旧名「公埔」にちなんで公埔遺址と名付けられました。現在は花蓮縣の指定遺跡として登録されています。
新石器時代中期から後期にかけて、富里郷には、東海岸の麒麟文化人と台東平野の卑南文化人の二つの異なる文化集団が同時に存在していました。麒麟文化人と卑南文化人は富里郷に定住し、非常に豊富な遺物や工芸品を残しました。新しい考古学の発見によると、富里郷は東部の先史文化にとって非常に重要な人類の拠点であった可能性があり、また、麒麟文化と卑南文化の人々が互いの文化の知恵を学び合う重要な拠点でもあったことがわかりました。
公埔遺跡の巨大な石壁は、麒麟文化の非常に重要な特徴ですが、この遺跡では、卑南文化人が使用した多数の埋葬土器も発見されています。公埔遺跡の特徴は、一つの遺跡に二つの遺物が同時に発掘されるという点です。
富里郷には、新石器時代の遺物が豊富に発掘されることに加えて、鉄器時代の人類が残した多くの遺物も発掘されています。阿美族は漢人が富里郷に移住してくる前、少なくとも今から千年以上前から富里郷に住んでいました。郷内のあちこちに阿美族が住んでおり、彼らが使用していた土器や住居跡も発掘されています。
【六十石山】
六十石山は花蓮県富里郷竹田村東側の海岸山脈にあり、海抜は800m。ここには約300ヘクタールにわたり、金針花(忘れ草)畑が一面に広がっています。
何故、六十石山という名がついたのか。地元の人の話では、日本統治時代、この附近一帯には水田が広がり、米が毎年六十石収穫できたところから、その名がついたと言われています。元々は、この附近一帯は、クスノキが自生していましたが、日本時代初期、樟脳作りのために、原木であるクスノキの伐採が盛んに行なわれた結果、広々とした原野となり、そこに水田を作ったとの事です。
8月から9月にかけて金針花が満開になる時期で、あたり一面が、黄色い金針花の絨毯で覆われます。太陽の光が金針花に反射し、その美しさは正に絵に描いたような美しさで見るものを感動に包みこみます。
金針花のつぼみは、食用として使用されている。乾燥させたつぼみは、豚骨スープに入れて食させている。鉄分が多く含まれており、女性には人気のある食材となっています。
【吉拉米代(Cilamitay)部落と小天祥】
富里郷南村にある海岸山脈に鱉川(溪)が流れています。鱉川を日本語で言うと、「すっぽん川」。名前の通り、昔からすっぽんが出没する事からこの名がついたと言われています。
豐南村の昔の名まえも「鱉村=すっぽん村」と言われていました。鱉川は海岸山脈から「石門」にたどりつき、そこから、富里市街附近の秀姑巒溪に流れ込んできます。
鱉川は小さい川ですが、この川が堅い巒山層火山脊に流れ込み、約五百メートルの深い峡谷が形成されます。峡谷の富東公路を歩いていると、どんどん道が狭くなります。片方の壁は岩壁でできており、もう片方の壁は渓谷でできています。他にも鑿岩でできた小さい洞窟もあります。鱉川が平地の泥岩層地区を流れる時、泥岩層が軟らかいのと、近隣の山が渓流の行く手を塞ぐ事から、豐南村は曲がりくねった地形になりました。
吉拉米代(Cilamitay)は富里郷豐南村にあり、海岸山脈の西側に住む阿美族の部落です。吉拉米代は阿美族語で「大きな木の根」を意味し、部落が出来た初期の頃は、阿美族の人々は自分たちの耕作地から遠すぎると感じていましたが、年月が過ぎ、カエデの木の根が橋として利用できるほど大きく成長していることに気づき、橋として活用したことから、この名が付けられました。近隣の山が渓流の行く手を塞ぐ事から、部落は曲がりくねった地形の河岸段丘の上で暮らしています。そのため、交通の便は非常に悪いのですが、その分、他からの文化が入り込みに難かったことから、部落の素朴な風景が今も残されています。
吉拉米代部落は、東富公路沿いに位置しており、途中には美しい段々畑が見られます。東富公路は曲がりくねり、道幅はどんどん狭くなり、片側には急峻な岩壁、もう片側には深い谷があり、V 字型の小天祥峡を形成しています。海岸山脈の水源から吉拉米代部落の棚田に水を送るために、岩壁に沿って漢人と阿美族が協力して石を削り、1928年に峡谷を貫く石門圳が建設されました。
人工的に掘削された小さな洞窟と石門、その景色は一見、太魯閣峡谷に見えるため、「小天祥」と呼ばれています。但し、太魯閣は変成岩ですが、小天祥は火成岩です。小天祥には、数多くの品種の岩壁植物が生息しており、その中でも、金花石蒜(ショウキズイセン)は台湾農業委員會特有生物研究保育中心のリストに「深刻な絶滅危惧種」として記載されています。
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