東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 豐濱郷ってどんな街、東海岸線の旅

 【豐濱郷ってどんな街】

花蓮最後の街は豐濱郷。東海岸側では花蓮の一番南に位置します。

豐濱郷の面積は約162.43平方キロメートル。細長い形状をしており、西側には海岸山脈が連なり、東側は太平洋に面していて、花蓮縣内では最も人口の少ない地域になります。(20244月現在で4,161人)

豐濱郷には阿美族の文化と噶瑪蘭族(カバラン族)、撒奇萊雅族(サキザヤ族)の文化があり、それぞれに自身の生活文化を大切にしています。

豊浜郷は、阿美族文化発祥の地で、オランダ時代の記録によれば、1875 年に清朝が開山した後、加禮宛事件により漢民族がこの地域に流入し始めました。また、噶瑪蘭族の移住により、民族の多様性を見ることが出来ます。経済産業は主に農業と漁業で、米、檳榔、柑橘類などが栽培されています。稲作に関しては、日本時代に棚田農法を日本人が教えました。今も、新社地区ではこの棚田農法が行われています。

 豐濱郷はその昔、「貓公」と呼ばれており、境には複数の原住民が住んでいました。主に、納納、港口、大港口、貓公、新社、加路蘭等部落にそれぞれの部族が独自の文化を守りながら住んでいました。

1909年に花蓮港廳となったのを機に,豐濱地区は大港口区となり、花蓮港廳直轄地域となりました。大港口区には当時、9つの部落がありました。1916年,大港口区は「貓公区」と改名され、さらに1920年には、「新社区」と改名されました。1937年には、新社区は「新社庄」と改められ、花蓮港廳鳳林郡に属するようになりました。

戦後の194512月、新社庄は「新社郷」と改められ、花蓮県に属する事になりましたが、他県に同名の地区があったため、1946年に「豐濱郷」と改名されました。

豊浜郷の阿美族の中で、最も正統的伝統文化部落である貓公(Fakon)部落及港口(Makota’ay)部落は、103 年に花蓮県の文化資產に登録されました。

 現在、豐濱郷には、新社部落(Paterungan)、磯崎部落(Kaluluwan)、豐富部落(Tingalaw)、八里灣部落(Haciliwan)、立德部落(Kodic)、豐濱部落(Fakong)、大港口部落(Laeno)、港口部落(Makotaay)、石梯坪部落(Tida'an)、石梯灣部落(Morito)、靜浦部落(Cawi)、三富橋部落(Tafugan)、東興部落(Malaloong)、打古目部落(Dagumu)、高山部落(Culiu)、靜安部落(Tisilan)、復興部落(Dipit)があります。

その中でも、豐富部落(Tingalaw)は阿美族最大の氏族である太陽氏族(Pacidal)発祥の地とも伝えられます。阿美族はこの地を「Tingalaw」(清らかの意)と呼んでいました。豐富部落は、昔、阿美族が豐濱部落と光復郷を往復する際に必ず通る場所で、ここで休憩して水を飲んだ阿美族の人々は、澄んだ甘い水質から、この地を「清らか」を意味する「Tingalaw」と命名しました。

 

【東海岸線の旅】

ここからは、花蓮・東海岸線の旅をご案内します。正式名は東部海岸国家風景区ですが、ここでは東海岸線と呼ぶことにします。

属する行政区としては、新城郷(七星潭)、花蓮市、吉安郷、壽豐郷と豐濱郷になります。

一般的に花蓮では、壽豐郷の海岸線側から豐濱郷海岸線側を東海岸線と呼んでいます。

花蓮市内から海岸線(台11線)を南へ向かって走り、花蓮大橋を渡ると東海岸線。一部を除いてほとんど、海岸と並行して道路が走っています。台11線は全長178kmで、台東県太麻里郷まで続いています。

東海岸線は鉄道網がなく、バス路線しかありません。ただ、バスの本数は少ないため、東海岸を旅される際には、運転手付の車をチャーターされることをお薦めします。

 

 【東海岸花蓮旅客中心】

まず、東海岸の旅に出る前に是非、立ち寄って欲しい場所が、花蓮旅客中心(花蓮ツーリストサービスセンター)。花蓮駅前にもありますが、そこではなく、今回ご案内するのは、東海岸線の旅客センター。東海岸線の最北端に位置する旅客センター。駐車場に到着すると目の前には太平洋が広がります。「地球は丸い」という事が実感出来る場所。水平線が丸く見えます。

旅客センターの前の山には多種多様な草花が植えられています。2月には桜、4月から5月末頃までは鉄砲百合、夏場はハイビスカスが満開になります。

旅客センターから北に進むと海岸山脈の北端、嶺頂岬に到着します。ここからは、花蓮渓(川)が太平洋に注ぎ、「洄瀾」と呼ばれる光景を見ることが出来ます。「洄瀾」とは、「水が渦を巻く」という意味があります。その昔、花蓮は「洄瀾」という地名で呼ばれていました。しかし、「洄瀾」という地名は意味的にもあまり良くないという事で、この「洄瀾」の発音に似ていて、土地柄のイメージにふさわしい地名はないかと考えた結果、「花蓮」と名付けられたと言われています。

旅客センターの南側には、花蓮海洋公園があります。旅客サンタ―内には、観光スポットを紹介する展示室や84人収容可能な視聴覚室などがあります。



*花蓮旅客中心:花蓮縣壽豐鄉鹽寮村大坑5號 開館時間:am8:30-pm17:00

 

【海洋公園】

親子で楽しめる花蓮の海洋公園。東海岸沿いにあるテーマパークです。

19世紀のイギリスの波止場風景や海の祭りがコンセプトになっています。

イルカやアシカのショーや水族館、アトラクションなど一日楽しめるリゾート地になっています。

園内には自然景観公園もあり、海抜100-200mの間に、鳥園、熱帯雨林エリア、砂漠植物園、温帯常緑園などがあります。

海洋公園の近くには同じ系列のリゾートホテルもあります。広々としたロビーは豪華絢爛。前庭から見る夜景も最高。

日中は子供達と思い切り遊び、夜は夫婦二人で夜景を眺めながら語り合うという、日常では味わうことの出来ない時間を過ごしてみませんか。

 




【和南寺】

境内に入るとまず目に飛び込んでくるのが巨大な黄金の観音像。

台湾の有名な彫刻家である楊英風作の黄金の観音像が和南寺の顔ともなっています。

和南寺は1967年に伝慶法師が修業に訪れた際に創建されました。釈迦牟尼仏が祀られ、東台湾を代表する仏門道場として有名です。観音像の後方には海岸山脈、目の前には太平洋が一望出来ます。

 



【牛山呼庭】

和南寺を出発してしばらく台11線を走ると、水璉と呼ばれる地域に入ります。この水璉という地名の語源は、阿美族の「Ciwdiyan」だと言われています。「Ciwdiyan」とは「ヒルの産地(多い場所)」という意味です。実はこの附近は以前はジャングルでヒルが沢山棲息していました。漢人が台湾へやって来て、この「Ciwdiyan」という発音を聞いて似た発音で「水璉」と呼ぶようになりました。

 

水璉に入って南に向かってしばらく走ると、左手にひときわ目立つゲートがあります。ここが「牛山呼庭」への入り口です。険しい山道をどんどん谷底へと下っていくと、目の前に太平洋が突然広がって来ます。ここはその昔、阿美族の人達は「Hudin」と呼んでいました。大きな牧草地という意味で、その意味の通り、ここでは以前、阿美族の人達が水牛を放牧していました。

今は「牛山呼庭」と名付けられ、入場料を支払って園内へと入ると、流木で作られた様々なユニークな人形が飾られています。そして、園内中央には一面芝生の丘があり、その頂上からは太平洋が一望出来ます。

海岸線はきれいな砂浜になっています。ただし、ここでご注意を。以前、七星潭の際にもご説明しましたが、花蓮の海は海岸線から一気に深くなっているため大変危険です。ここも遊泳禁止区域になっています。波打ち際で遊びたい気持ちが湧いてくるほど綺麗な海ですが、突然、大きな波が来る場合もあるので、極力、波打ち際に近づかない様にしてください。

余談ですが、ここ牛山呼庭は、2015年、遠藤周作著「沈黙」のハリウッド映画「サイレント」のロケーション現場の一つとなり、撮影が行われました。

息を飲むほどの美しい海の色、緑の山と青い海、そして、砂浜。東海岸でも珍しい砂浜の海岸をご堪能ください。

ちなみに、ここのオーナーである呉さんは日本語が堪能で、観光ガイドもされています。バイオリン、サックスフォンの奏者でもあります。

 




【蕃薯寮】

海岸線を走っていると、いくつかの橋があります。橋には番号がついており、18番目の橋である18号橋、ここが今回ご案内する蕃薯寮です。

駐車場に車を停めて、歩行者用の橋に立つと、道路の両側で地質が違う事にお気づき頂けると思います。西側(台東方面を向いて右側)は盆地になっており、反対の東側は太魯閣(タロコ)渓谷にも匹敵するほどの険しい渓谷になっています。

 

ここには、阿美族の伝説が残されています。

蕃薯寮に住む阿美族は大変勇猛でした。彼らは頭目に推薦してもらうための条件として、深さ100m近くある渓谷を竹竿一本で飛び越えなければなりませんでした。しかし、この渓谷を越える事は容易ではなく、数多くの青年が谷底へと落ちていったそうです。そして、彼らが使った竹竿が谷周辺に残り、一面の竹林になったと言われており、阿美族の間では「遺勇成林」とも呼ばれています。

渓谷の右側の岩壁をよく見ると、手すりもない階段があります。今でも阿美族の人達はこの階段を使って谷底まで行くと言われています。ただ、今まで何度も現場には行きましたが、未だ、この階段を上り下りしている方とは出会った事がありません。しかし、いずれにせよ、ここに階段を付ける作業だけを考えても恐ろしくなります。

やはり、蕃薯寮の阿美族は勇猛果敢な方が多いのだと思います。

 



【芭崎眺望台(展望台)】

東海岸線(台11号線)で最も高い場所に位置するのが、芭崎眺望台(展望台)。

標高168m。この168という数字、中文の発音の「一路發=ALL WAY」と似ており、この展望台に到着するまでの急な登り坂を登りきった場所にある展望台にふさわしい高さにあるとされています。

展望台から眺める太平洋の景色は格別で、南には、磯崎湾と亀吼岬、新社断崖を望むことができます。昼間の風景と夕方の風景、まったく違う顔を見せる太平洋の眺望を是非、お楽しみ下さい。

展望台には簡易喫茶・売店もあり、きれいな花で覆われた休憩所も完備されています。

まだまだ続く東海岸線の旅。ここで少し休憩を取ることをお薦めします。筆者も、今日のご案内はこの辺で終え、のんびりと海を眺めながら休憩させて頂きます。

 



【磯崎海水浴場】

芭崎展望台を出発し、一気に坂道を下りましょう。しばらく走ると、磯崎海水浴場に到着します。ここは、花蓮で唯一、海水浴が楽しめる場所となっています。何度もお伝えしている様に、花蓮の海は、海岸線から一気に深くなっており、海流の流れも速いため、海水浴が出来ません。しかし、この磯崎海岸は、砂浜のビーチが2.5km続き、磯崎湾内にあるため、海流の流れも比較的穏やかです。海水浴に、マリンスポーツに最適の場所です。

その昔、阿美族の人達はここを「加路蘭」と呼んでいました。阿美族の人達は狩りを終えて帰る途中に、ここで塩を取って帰ったと言われています。今は、磯崎村の奇萊雅族の人達が毎年3月に海祭りを行っています。

磯崎海岸の南側には突き出した様な小高い山があります。大石鼻山です。遊歩道が完備されています。大石鼻山の山頂から眺める磯崎海岸は絶景です。遊歩道は階段になっており、比較的登り易い作りになっています。

大石鼻山の南側には、水産養殖場もあり、白エビ、草エビ、イセエビなどの養殖がおこなわれています。

大石鼻山遊歩道入口前にはトイレ、駐車場も完備されています。また、駐車場の対面には、トビウオの一夜干しをその場で炭火焼してくれるお店が数軒並んでいます。向かって左側のお店が筆者の好みです。

ここからさらに南下していきますが、車窓から見える海岸線の様子が徐々に変わっていきます。ここから先は、ダイビング好きの方には最高の場所も。

 



【親不知子断崖】

磯崎海水浴場を出発して南下していくと、新豐トンネルがあります。このトンネルの入り口手前に、脇道へ抜ける道路があるのですが、現在は通行止めになっています。この先に、親不知子断崖があります。

この断崖の名前、大変奇妙な名前ですが、世間一般的には「今の道路が出来るまでは、磯崎から新社までの間、非常に険しい断崖に作られた細い道を通って行くしかなかった。その道は狭く、足場も悪く、地元原住民でさえ、毎回、緊張しながら通っていた。ある日、一人の女性が子供をおんぶしてこの道を通った。女性は過度に緊張し、やっとの事でこの道を通過した際、おぶっていた子供が居ない事に初めて気づいたという。それほどまでに危険で緊張する道であった」と言われています。しかし、地元の原住民噶瑪蘭族の方はこの説に反論している。「我々噶瑪蘭族は、昔からこの断崖の道を日常茶飯事使っていた。子供の頃は緊張したが、大人になれば皆、慣れていて、大きな荷物を背負って女性もこの道を利用していた。故に、大人の女性が子供を背負ってこの道をある事など平気で、背負っていた子供が居なくなった事に気づかないほどの緊張をしていたなど、あり得ない事」と反論。まあ、どちらが正しいかはこの際横に置き、それほどまでに緊張する道である事には違いはないようです。

花蓮県政府は観光資源としてこの断崖に空中遊歩道を作りました。ただ、花蓮は元々地震の多い場所であるが故に、この遊歩道も、予告なしに封鎖となっている場合がありますのでご注意ください。

 

この断崖に「海盗洞」と呼ばれる岩洞があります。ここは、「オランダ統治時代に、東台湾の地形調査のために太平洋を航行していたオランダ船が、台風に遭遇し難破。乗組員たちが流れ着いた場所とされている。流れ着いたオランダ人に対し、地元の原住民は海賊ではないかと警戒。そして、数名の原住民がオランダ人に接触、その結果、海賊ではない事がわかり、手厚く接待を行い、船の修理も手伝い、後に、乗組員たちは無事に航海を続けられた。」と言われている。が、ここでも地元噶瑪蘭族の人達は、「この洞窟には陸地はなく、遭難した人達がここに流れ着いたとしても助からない。おそらく、台風を避け、船ごとこの洞窟に避難したのではないかと思う」と反論しています。諸説色々とあるが、絶景である事には間違いない。

 



【新社の段々畑(棚田)】

新社は噶瑪蘭族の言葉で「万物養生之地」という意味があります。

ここは海岸線ギリギリまで段々畑が広がっています。この農法を地元原住民の人達に伝授したのは日本人でした。

日本統治時代以前は、この地の人達は狭い土地に芋などを植えて自給自足の生活をしていました。日本統治時代に入り、日本人達が狭い土地を有効活用し、稲作が出来る、棚田を教えたのです。また、海岸沿いのため、塩害が心配されますが、塩害に強い米の品種改良に取り組み、今では、二期作が出来るまでになったのです。

ここでは、日本時代に稲作と一緒に伝授された案山子が今でも現役で活躍しており、台11線沿いには、地元原住民の人達による案山子ワールドが沿線を通る人達の目を楽しませてくれます。この案山子達、年に1回はその姿を変えます。

 



【新社遺址(新社岩棺)】

「新社石棺」は台湾東部の先史文化の遺物で、花蓮の新社から台東の都蘭までの東海岸一帯にのみに見られるものです。新社岩棺は、台湾国内で完全に保存されている 2 つの石棺のうちの 1 つで、約 2,000 年から 3,000 年前のものであり、麒麟文化の貴重な遺産で、巨石加工技術の職人技のみならず、新石器時代の工芸技術であり、当時の文化を色濃く現した貴重で珍しい文化を現しています。

主な材質と特徴:凝灰岩、本体の各側面に3つの正方形の突起を備えた溝のある直方体で、内部底の中央に穴があり、また、周囲に浅い溝があります。上部の溝の開口部には凹部があり、固定するために使用されていた様です。

サイズ:

岩棺:長さ219cm、幅83cm、高さ94cm

手前の石:長さ84cm、幅29cm、高さ29cm

 


【女媧娘娘廟】

東海岸線(台11線)沿いに突如として現れる廟。縁結びの神様で有名な女媧娘娘廟です。

この廟では、中国語以外に日本語でのご祈祷も受付けています。聴くところによると、かなりのご利益があるとの事。

ここに来て、真っ先に目につくのがとてもユニークな男女の神様。共に、愛の大きさ、重さを測るための道具を掲げています。良縁を求めて、内外から参拝者が訪れる場所となっています。

 



【猫公祠】

台湾東海岸の町、豐濱にある祠。豐濱郷は前述の如く「猫公」と呼ばれていた時期がありました。初代の祠は豐濱國小の民権街近辺の小山の上にありました。(現在は現場に立ち入ることができません)二代目は豐濱國中の中の民家の裏にあります。但し、私有地のため、無断で立ち入ることは避けてください。事前に、民家方に断わりを入れるようにしてください。木々に覆われているものの、本殿の基礎部分のみが確認できます。

初代猫公祠は、昭和8年(1933年)以前に建てられたと思われます。二代目の祠が建てられた理由は諸説ありますが、最も有力な説としては、シロアリ被害と塩害だったとされています。紀元二千六百年記念行事(神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った一連の行事)として、昭和15年(1940年)に二代目が建立されました。

 

【石門】石門洞 ( 麻糬洞 / March )

石門遊憩区は、大奇山と猫公山の麓、花蓮県豐濱郷にあります。石門という地名は、かつてこの海岸にあった門のような形をした海食洞に由来しています。

石門の洞を抜けると険しい崖になっており、目の前には太平洋が広がっています。海からの波が崖にぶつかり、時より大きな波しぶきを上げます。

地元の人々は、石門の洞に差し込む陽射しの角度によって、時間がわかると言います。

 

その昔、阿美族が密かに石門に集まり、秀姑巒溪口の部落を襲撃する約束をし、その際、彼らは祝の餅を用意し、全員で食べたと言われています。その後、この祝の餅が岩となって、今の石門の地形を構成したという伝説が残されています。

また、近年、石門の洞の形が、自動車のMARCH(マーチ)に似ているとされ、若い人を中心にマーチ洞とも呼ばれ、人気の撮影スポットとなっています。

 




【石梯坪】

花蓮豐濱郷石梯湾の南端に位置する石梯坪。

清朝光諸年間、呉光亮が兵を率いて道を開き、長短の岩盤が階段状に海に突出している奇観を見つけ、「石梯坪」と名付けられたとされています。

石梯坪の係蹄には、珊瑚礁群が広がり、熱帯魚が多数生息しています。また、高さ17mの単面山の頂上からの眺めは絶景です。

石梯坪休憩区に入るとすぐ右手に駐車場があります。一般のツアーではここで車を降りて、徒歩で近辺を散策します。道路際に設置された遊歩道を歩いていくと、単面山への入り口がありますが、普通はここで終わり。そのまま、駐車場へと引き返します。しかし、筆者がお薦めなのは、車で休憩区に入りと、そのまま、区内の一番奥まで行って欲しい。そこには旅客センターがあります。そのセンターの前が駐車場になっていて、駐車場から海へ向けて階段があります。この階段を降りたところが、筆者お薦めの場所。夏休み期間以外だと、完全にプライベートビーチ状態。

花蓮の場合、5月から10月上旬までは夏なので、海に入る事も出来ます。シュノーケル持参で来れば、浅瀬でも熱帯魚が観察できます。透明度は抜群。

筆者は夏場、休みのたびにこの海岸を訪れ、帰りは、そのまま南下し、玉長公路を通って安通温泉に入って帰るのがお決まりのコースになっています。

 

石梯坪で忘れてはいけないのが、「口福海鮮レストラン」。漁港の前に建つレストラン。鮮度は保証付き。はっきり言って、西側でここまで美味い海鮮が食べられる場所はない。

特に、伊勢海老は最高。自分好みの大きさの活きた伊勢海老を水槽から選びます。身の部分は刺身、頭部は味噌汁。これが一番のお薦め。値段は安く、新鮮な海鮮が食べたと時には、迷わず、石梯坪の「口福海鮮餐廳(レストラン)」へ行くことです。

また、石梯坪漁港は、花蓮でのクジラ鑑賞船(フォエールウォッチング)発祥の地。

口福海鮮餐廳でも受け付けを行っています。

 

口福海鮮餐廳:花蓮縣豐濱鄉石梯灣80

レストラン予約專線:03-8781041

鯨鑑賞予約專線:03-8781236

営業時間:am11:00-pm14:00  pm17:00-pm20:00  無休

 






【月洞】

石梯坪から南下すること約3分、月洞に到着します。

月洞は天然の鍾乳洞があり、洞内の積水は5mほどの深さがあると言われています。夜になると水面に月が映し出されることから「月洞」または「月井」と呼ばれる様になりました。

洞内は小舟で移動することが出来、船頭が案内をしてくれます。薄暗い洞内は神秘的で、コウモリの群れに驚きます。また、観音様の形をした鍾乳石や石筍、魚頭化石、伏流、滴泉などの珍しい光景とも出会えます。

門を入り、階段を登って行くとお土産屋さんが並んでいます。そこを右手に進むと、チケット売り場があります。一人100元です。

 





【港口村・大港口神社跡】

月洞を出てさらに南下すると「港口村」があります。人口900人強の内90%以上が阿美族の人達です。村では今でも阿美族の伝統が大切に守り継がれており、川や海で漁をし、海岸山脈で農耕、狩猟をしています。村内では藤や竹で籠を編んだり、流木で彫刻を作ったりもしています。阿美族の方々の文化を身近に感じる事の出来る貴重な場所となっています。

 

この港口村にあるのが、大港口神社跡です。現在は、「玄靈聖山玄聖堂」となっていますが、当時の石灯篭や鳥居はそのまま残されています。また、廟内には、当時の観世音菩薩立像が残されています。

大港口神社は昭和12年(1937年)10月に建立されたもので、北白川宮能久親王と開拓三神をお祀りしています。

大港口神社は戦後も比較的良い状態で保存されていましたが、阿美族の人々が戦後は元々の自分達の信仰していた宗教に改宗したため、神社を訪れる人はほとんどおらず、度重なる台風、豪雨により遂に、1951年頃に木造建築だった本殿は朽ち果てました。その後、神社の土地は1988年に私有地となり、最終的に20038月に元の地主から現在の地主に売却され、「玄靈聖山玄聖堂」が建てられました。地主の黃淳誠さんによれば、「最初に土地を購入したとき、敷地内の雑草や木々は人の背丈よりも高く、登り階段は倒れた竹や木で覆われ、足の踏み場もありませんでした。それらを全て刈り取り、やっとの事で本田のあった場所まで登ることができました。 石灯籠の多くは壊れて地面に散らばっており、それらを一つ一つ組み立てました。また、神社本殿のセメントの柱だけが残っていたので、それはそのままにして残すことにしました。」とのこと。今も廟内には当時のセメントの柱も残されています。

 






【長虹橋】

赤い長虹橋。その手前にもう一つの旧長虹橋があります。この旧長虹橋は1968年に建設された、全長120メートルの台湾初の橋脚のないアーム型鉄筋コンクリート製の橋です。交通量の増加により2003年にその任は赤い長虹橋に譲りましたが、今でも、台湾初の誇りを持って皆さんを迎えてくれます。

秀姑巒渓は長虹橋付近で川幅が大きく広がり、河川敷には「帝王石」と呼ばれる石灰岩が点在しています。様々な形をした岩はまるで庭石の様で、また、ヒスイの様に白く輝いて見えることから、「秀姑瀬玉」とも呼ばれています。

長虹橋から太平洋を望むと、丁度、河口付近に小島が浮かんでいます。川の流れはここで二つの分かれ、太平洋へと注いでいます。

高さ約40メートル、10.67ヘクタールという小島は「奚卜蘭島」と呼ばれています。この島の形が丁度、獅子が球を飲み込んでいる様に見えるという事から阿美族の人達がそう名付けたと言われています。

 





【秀姑巒渓のラフティング】

花東地区における水上レジャーと言えば、もっとも有名なのが「秀姑巒渓のラフティングボート」です。 1980年代から国内ラフティングボート場のベストスポットとして選ばれています。毎年夏になると、瑞穂大橋から長虹橋までの24キロに渡って、赤いボードが川沿いに並べられます。ここには20箇所余りの激流スポットがあり、スリル満点のラフティングボートを楽しめます。また、渓流沿いの峡谷や奇岩などの自然風景も美しいです。

東海岸国家風景区管理処は瑞穂大橋南側の秀姑巒渓流沿いに瑞穂ラフティングボートセンターを設立しています。この建物は原住民族の伝統的な建築をモチーフにしてデザインしたものです。館内では秀姑巒渓の生態資源を紹介するほか、ラフティングボートに関連した情報を提供し、安全に関するフィルムを放映しています。センターにはキャンプ場も附設され、シーズンには行楽客でいっぱいになります。

全長104キロ、東台湾最大の河川が秀姑巒渓です。秀姑巒渓は、中央山脈の秀姑巒山を水源としており、高さ3200メートルから流れ始め、瑞穂郷を通り、海岸山脈を突っ切って大港口から太平洋へと注いでいます。

瑞穂大橋から出発し、20数か所の激流を乗り越え、難所を乗り越えて約2時間すると、奇美吊り橋に到着します。吊り橋附近の難所を乗り越えると奇美休憩所に到着します。

ここで軽食を取り、再びラフティングにチャレンジ。ここから先は今までとは一変し、水深が深くなり、急流が渦を巻いて皆さんを待ち構えています。そして、ラフティングの終点となるが、長虹橋を越えたところ。

 

瑞穂ラフティングボートセンター

【奇美部落】

東海岸線から少し離れて、秀姑巒溪に沿って山の方へと進みます。すると、秀姑巒溪の中流域に奇美村があります。ここは阿美族の部落。

「奇美」は、阿美語の「Kiwit.」が語源と言われています。これは藤を意味します。昔は、物を縛るのに藤が使われていました。藤は切っても切ってもまた成長していきます。この藤の様に強靭な生命力を持った部族である事を意味しています。

奇美部落は阿美族文化発祥の地と言われています。

阿美族の祖先督季(Ducy)と喇拉淦(Lalakan)が南方から大海を渡り、台灣東海岸に到着。その後,色々な場所を転々とし、最後にたどりついたのが豐濱郷的貓公山。そこに、今の奇美部落を作り、定住したのが始まりとされています。

その不便な場所に位置していたがために、近代化の波が押し寄せる事もなく、伝統、文化、習慣が大切に守られてきました。今でも昔同様に年齢に基づく組織を厳格に守り続けています。

1986年に瑞港公路が開通し、その生活ぶりも徐々には変わって来たものの、まだまだ伝統が色濃く残されている場所です。

この奇美村、日本統治時代には、「奇密社」と呼ばれていました。この奇密社にも神社「奇美神社」が奉納されていました。今ではその姿はなく、参道と思われる道が残されているだけです。

また、部落内には、花蓮縣瑞穗郷奇美原住民文物館があります。

20071013日にオープンした文物館は2階建ての建物で、1階には阿美族の文化が判る文物展示ルームがあります。

 



【北回帰線】

花蓮東海岸線最後の訪問先となるのが、北回帰線です。以前にも北回帰線についてはご案内しましたが、以前ご案内したのは瑞穂の北回帰線(山側の北回帰線)。今回は、海側、豐濱郷の北回帰線です。

山側のそれとは異なり、丸みを帯びた白い塔が、青い太平洋と空にマッチしています。

 


 

北回帰線で花蓮東海岸の旅が終了します。ここから先は台東縣。台東縣にも歴史的に価値の高い、様々なスポットがあります。「東台湾の歴史を巡る旅 台東編」に尽きましては、現在、取材中の為、執筆にはまだ時間がかかりますが、必ず、執筆しますので期待してお待ちください。

 

【あとがき】

山口県萩市出身の実業家、賀田金三郎によって本格的に開拓が始まった花蓮。原住民との度重なる戦い。太魯閣の戦役によって一旦は落ち着いた花蓮。大勢の人達の犠牲の結果、女性一人でも旅が出来るようになった花蓮。

新天地を求めて、日本から大勢の日本人移民が花蓮へとやって来ました。(終戦時、花蓮には約2万人の日本人がいました)

ここが永住の地と信じ、必死に開墾をし、家族全員が平穏に暮らせると喜んでいた日本人移民達。それが、戦争という愚かな行為の結果、一夜にして全てを奪われ、一人1,000円の現金と柳行李1個という厳しい規制の下、泣く泣く台湾を後にした日本人。

一方で、自分は台湾の日本人と信じ、日本国に誇りを持ち、自分達が日本人である事にも誇りを持っていた日本教育を受けていた台湾人の方々。同じ様に、一夜にして日本人から中華民国台湾人となり、言語も中国語に変わった。

 さらに、別の見方をすれば、自分達の永年の生活様式、習慣、慣習、文化を守り抜こうと、命がけで日本に抵抗していた原住民の人達。自分達の歴史、すなわち、祖先の遺志を否定されてしまった原住民の人達の悔しさ、悲しさ、怒り、憎しみは大きいと思う。

様々な歴史を乗り越えて、今の日本と台湾の関係が構築されている。

私は歴史学者ではない。だから、歴史の生き証人の方々の証言には、学者先生達の様に、「歴史的裏付け」はない。しかし、その方が実際に経験されたお話を、伝承していく事も大切ではないかと思い、今回の執筆では証言も掲載させてもらった。

花蓮は台湾統治50年間の最初の第一歩を日本人が歩み出した場所。そして、今も、数多くの歴史を花蓮の人々は守り続けてくださっている。もっと大勢の日本人が花蓮を訪れ、この地に生きていた先人たちの想い、息遣いを感じ、そして、それを必死に守り続けてくださっている花蓮の人々に感謝の気持ちを伝えて欲しいと願っております。 (おわり)

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 布拉旦部落・三桟神社 【花蓮縣秀林郷】

台湾近代化のポラリス 新渡戸稲造2 台湾行きを決意

台湾近代化のポラリス 潮汕鉄道3 重要な独占権獲得