東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 太魯閣の戦役
花蓮の太魯閣地区には、明治29年(1895年)に日本軍が新城に駐屯基地を設け、同年6月29日には、花蓮、台東地区の開拓と原住民問題を監督する台東撫墾署(台東開拓署)が開設されました。
日本が台湾を統治した初期の頃、台湾総督府は、匪賊、土匪の鎮圧のために全勢力を注いでおり、原住民対策は後手に回っていました。その様な状況の中で発生した新城事件。
台湾総督府にとってはこの事件は衝撃的な事件でした。その後、威里事件が発生し、東台湾開拓に注力していた賀田金三郎から台湾総督府に対して「原住民の討伐無くして、東台湾の開拓は成功しない」という直訴を受けていました。
東台湾の歴史は清朝時代から原住民との戦いが続いていました。
そもそも、匪賊、土匪という漢人との戦いは「台湾における日本の権力行使を否定」というものでしたが、原住民との戦いは「原住民の既存の生活圏を守る」というもので、その原因は根本的に違うものでした。
日本時代に台湾総督府が打ち出した「理蕃政策」が原住民の間では大きな波紋を呼んだことになります。この「理蕃政策」を積極的に推し進めたのが、明治39年(1906年)5月23日に台湾総督に就任した佐久間左馬太総督でした。佐久間総統は、明治42年(1909年)までに、原住民の土地を2約200平方メートルごとに隘勇線を設けました。
隘勇線は隘勇制度によって設けられたもので、隘勇制度は、日本時代、原住民の襲撃に備えるために設けられた一連の防衛組織のことを指し、「隘勇線」は、原住民の住む山地を砦と柵で包囲して閉じ込めるものでした。
清朝は1683年(康熙22年)に台湾を制圧しましたが、原住民の居住地域までは実効支配が及んでいませんでした。1722年(康熙61年)に清朝は「土牛界線」を設け、この境より奥の開拓を禁止しました。これが「隘勇線」の起源といえます。しかし、その禁令は守られず、どんどん奥地まで開拓が進められました。奥地に行くにつれ、原住民の反発が強くなり、度々襲撃されては、首狩りの対象になっていました。これらの被害(蕃害)から身を守るために「隘勇」「隘丁」と呼ばれる自警団が設けられるようになったのです。
日本時代、台湾総督府は隘勇制度の必要性を認め、官費で維持されることになりました。1905年(明治38年)以降総督府は、原住民に対し厳しい弾圧策をとるようになりました。「隘勇線」には、電話線および必要な地点には砲台の設備を設け、高電圧鉄条網、地雷なども使用されました。1909年(明治42年)になると、山地に構築された「隘勇線」は総延長470キロメートルにもなり、ほとんどすべての原住民を山地区に押し込めてしまいました。「隘勇線」は原住民の生活圏を狭め、その結果、武装抵抗を誘発したといえるでしょう。樟脳の採取により生活圏を荒らされていた原住民は幾度となく反乱を起こしました。タブ重なる原住民との戦いの末、明治42年(1909年)、台湾総督府は「5カ年理蕃事業計画」として、軍隊を投入して総攻撃を行い、全島の「隘勇線」を圧縮して包囲網を狭め、原住民を標高3000メートル級の高山が連なる台湾脊梁山系(中央山脈、雪山山脈、玉山山脈、阿里山脈)に追いあげ、追いつめ、餓死か降伏かの択一を迫るという作戦を展開。5年目の大正3年(1914年)、脊梁山系の西側から台湾守備隊の兵力の大部分を投入し、東側から警察隊を投入し、最後の包囲圧縮を行い、5カ年計画を終了させました。これが、太魯閣の戦役と呼ばれる戦いでした。
この「5カ年理蕃事業計画」に対し、台湾総督府は1,600万円以上の予算を投じ、山地での大規模軍事作戦を行いました。その結果、死傷者は2,000人以上、原住民から没収した銃器は18,000丁以上に上りました。
太魯閣の戦役以後、隘勇線は原住民と文明社会との接点でした。日本は原住民達の祖先の土地への侵入し、銃、弾薬、鉄器、塩、マッチ、布地などの生活必需品の供給を統制し、漢人と原住民との物資交流を制限するなどし、原住民の経済的弱体化を図ったといえるでしょう。
日本の原住民に対する政策は、「原住民を軽視し、支配し、威信を完全に断つ」ことを目的としたものであると言う見解が台湾には存在する事を我々日本人は決して忘れはいけないと筆者は感じます。
さて、この太魯閣の戦役については、台湾総督府はかなり緻密に計画が練られました。その理由は、太魯閣族は、原住民の中でも最も勇猛果敢な民族であり、ある意味、日本に対して徹底抗戦も辞さない一つの敵国として見ていたからです。
明治43年(1910年)から三度に渡って偵察が行われました。大正2年(1913年)9月から11月にかけては、合歡山、能高山、達其黎溪及び愚屈、巴督蘭という方面の偵察が徹底的に行われました。
翌年の大正3年(1914年)にはさらに、5回目の偵察も実施。この偵察期間中、各偵察部隊は討伐隊進行のための道路建設も行いました。そして、全ての偵察結果を取りまとめた「太魯閣事情」という冊子を作り、必要な地理知識を身につけさせるために、太魯閣地区の開墾を準備している作業員達にも配布しました。
一方、佐久間左馬太台湾総督就任後、先にも述べました様に、理蕃事業計画は一気に加速し、隘勇線も次の様に次々に設定されました。
1907.05.16 威里隘勇線:南自沙巴督溪(纱婆噹溪右岸北至遮埔頭(今北埔)海岸)
1908.05. 巴托蘭隘勇線:自達莫南(現、文蘭)至牟義路(現、榕樹)。
1908.12.2~1909.02.27 七角川隘勇線:威里隘勇線北側至鯉魚尾庄南側(現、壽豐)
1910.02.2~03.25 鯉魚尾隘勇線:七角川隘勇線北側至北清水溪南側(現、鳳林)
1914.01.2~03.09 得其黎隘勇線:威里隘勇線南側至得其黎溪口(現、立霧)
佐久間総督は、台湾統治において理蕃事業は最も緊急の課題であると考え、明治43年(1910年)から大正3年(1914年)の間に原住民達を完全に掃討し、領土を開拓することを目標に掲げました。明治42年(1909年)の官制改革において、佐久間総統はまず「警察本部」から分離し、新たに「蕃務本部」を設け、各地方には、「蕃務課」を配置。さらに、「開拓署」を廃止し、「蕃政局」と改めました。また、同年10月25日には、「台東廰花蓮港支廰」を「花蓮港廰」に格上げし、花蓮地区を独立した行政区域としました。
大正2年(1913年)9月から、通信設備の設置、新城から花蓮まで武器輸送用の軽便鉄道の建設、仮設病院及び救護班の設置を行いました。
大正3年(1914年)1月、佐久間総統は花蓮港廰の飯田廰長に対し、有刺鉄線の柵を設置するよう命令を出しました。有刺鉄線は二重に設置され、これに対し、太魯閣族は猛烈に反対をしたのです。
同年2 月 20 日,花蓮港前進部隊が太魯閣族居住地に進軍を開始し、太魯閣族との激しい戦いが始まりました。この戦いは、台湾の歴史史上、最も激しい戦い(鎮圧戦争)であったと言われています。
西部から5月29日に佐久間総督を最高司令官として軍隊が進軍。6月1日には東部から内田嘉吉民政長官を最高司令官として警察隊が進軍しました。軍隊は3408人、警察は3127人、それ以外に6800人ほどの人夫が同行しました。武器は野戦砲48基、機関銃24丁に併せ、軍艦が沿岸から砲撃しました。一方太魯閣族側は2350人でした。彼らの武器は槍や弓、銃も一部ありました。そして何よりも彼らには武器以上の強味であった野戦先方(ゲリラ戦法)が得意でした。例えば、軍用道路を行進中の日本人に対し、岩や石を落としたり、巧みに身を隠して襲撃をかけるという、地形を利用した戦法で日本軍を苦しめたのです。
太魯閣の戦役では台湾総督府側は以下の様な組織を形成し、太魯閣族との戦いに挑みました。
【討伐軍司令部】 最高司令官 佐久間左馬太總督
【第一守備隊司令部】 司令官 平岡茂少將
【第二守備隊司令部】 司令官 萩野末吉少將
歩兵第一連隊第一大隊:第一、第二中隊、機関銃小隊
歩兵第二連隊:本部、第一、第二、第三大隊、機関銃隊、第二及び第 九中隊、第十一、第十二中隊
山砲兵第二中隊:山砲四門
基隆臼砲中隊:9ミリ臼砲4門
第一衛生隊、第一作業隊、第一電話隊、電信隊
【步兵第一聯隊】
聯隊長 鈴木秀五郎 大佐
步兵第一聯隊聯隊長 鈴木 秀五郎 大佐
步兵第一聯隊本部 第五、第六中隊、第三大隊本部、第九、十一、十二中隊、機關銃小隊
澎湖島臼砲小隊(九公分口徑臼砲二門)
第二衛生隊、第二作業隊、第二電話隊、各地倉庫員
【步兵第二聯隊】
聯隊長 阿久津秀夫 大佐
步兵第二聯隊聯隊長 阿久津 秀夫 大佐
第一大隊本部
第二大隊本部
第三大隊本部
第二中隊、第三中隊、第四中隊、
第五中隊、第六中隊、第七中隊、第八中隊、
第九中隊、第十一中隊、第十二中隊、
機關槍隊、山砲第二中隊、基隆臼砲中隊、
第一衛生隊、第一作業隊、第一電話隊、電信隊
【警察討伐隊】
最高司令官 民政長官 內田嘉吉,
副司令官 警視総長 亀山理平太
得其黎方面討伐隊隊長 警視 永田綱明
八部隊(一部隊の銃 約200丁 合計約1600丁)
各種火砲二十二門,機関銃六丁
巴督蘭方面討伐隊隊長 警視 松山 隆治
四部隊(銃 約800丁)
各種火砲九門,機関銃2丁
予備隊 二部隊 (銃 約400丁)
計 十四部隊(銃 約2800丁)
各種火砲三十一門,機関銃八丁
少し余談にはなりますが、清朝時代、統治する側と統治される側の橋渡し的な役割を果たす「通事」と呼ばれる人員を配置していました。日本時代、台湾総督府もこの「通事」を活用していました。通事は、政府からの命令を伝達したり、部下から上司への情報を伝達するという重要な任務があり、伝達する際には、一切の省略も許されませんでした。花蓮北部では李阿隆という人物がその役割を担っていました。明治29年(1896年)6月、日本軍が花蓮に進攻した際、日本軍は李阿隆を介して太魯閣族側に、帰順する様に説得させようとしました。(李阿隆は明治31年(1898年)1月に、台東廰花蓮支廰から月給20円で「太魯閣総通事」に任命されています。)これに対し李阿隆は、次のような条件を出してきました。
①日本人は太魯閣地域に対し直接的な干渉は行わない
②仔埔頭を平地と太魯閣地域との境界線とする
③日本人、平地に住む原住民は仔埔頭以北の土地に足を踏み入れない。
実はこの条件を出した裏には、李阿隆自身が太魯閣地域と新城地域を支配したいと言う思惑があったのです。
李阿隆は、「通事」としての立場を利用して、日本側に金銭、物資、弾薬を度々要求していました。この事に、台東廰廰長の相良長綱が怪しく思い調査したところ、これらの要求は太魯閣族からの要求ではなく、李阿隆自身の要求であることを突き止めました。当時の新城地区は宜蘭地域からの船が出入りしており、李阿隆は秘密裏に砂金を採掘しており、太魯閣族からも物品と砂金を交換するなどして、莫大な利益を得ていたのです。
李阿隆は自らの権力と金を得るために、通事と言う立場を利用しており、本来の通事の重要な役目である伝達をしておらず、その結果、日本側と太魯閣族側との確執がさらに深まり、それが太魯閣の戦役へと向かったという見解も台湾にはあります。
尚、この太魯閣の戦役で負傷した佐久間左馬太総督は、大正4年(1915)5月1日に台湾総督辞任・退役し、日本に戻り、同年8月5日に亡くなっています。佐久間総督の死後、太魯閣渓谷内(現、天祥)に、佐久間神社が建てられました。
太魯閣の戦役後、生き残った太魯閣族達に対し日本は、彼らが住み慣れた山地から日本側が用意した場所への移住を強制。さらに、伝統的文化であった首狩り、刺青も禁止しました。さらに、それまでは狩猟をして暮らしていた彼らに農業を教えられ、田畑を耕すようになりました。この様に、原住民の伝統的な生活様式、宗教儀式、習慣、慣習、文化を全て変えていったのです。
ただその反面、教育、医療といった分野において得るものもありました。教育を受ける事で、まずは、共通語(日本語)が出来、他の部族、民族との意思疎通が可能になりました。また、それまでは病気をしても祈祷師頼りだったのが、当時の最先端医療を受ける事が出来ました。
原住民と日本人との争い。血で血を洗う戦い。その悲劇の上に、花蓮という地域は発展を遂げていったのです。
原住民の方々とお話をしていると、今でも「私は日本人が嫌いだ。私の祖父母は日本人に苦しまれた。祖父母の知り合いも沢山、日本人に殺された」と言われる方と出会います。「台湾は親日派の人が多い」とよく言われますが、確かに多いとは思いますが、決して全員が親日派ではないと言う事を忘れないで欲しいです。台湾の歴史というものをきちんと把握した上で、台湾を正しく理解して欲しいと強く願います。
筆者は、この太魯閣の戦役の章を執筆する際、可能な限り公平な立場で書くことを心掛けたつもりではありますが、果たしてどこまでそれが果たせたかはわかりません。もしも、どちらかに偏ってしまった部分があれば、お許しいただきたい。
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