東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 太魯閣(タロコ)渓谷 

前章の富里郷のご案内で花蓮縣内陸部(花東縦谷線)は終了しました。ここで、「えっ、あそこを忘れていませんか」と思われた方は、花蓮について関心をお持ちの方と思います。その場所とは、花蓮を代表する観光名所だった太魯閣(タロコ)渓谷です。

 太魯閣渓谷は、太魯閣国家公園区となっており、台湾の国立公園です。総面積は92000ヘクタール。行政区画上は花蓮県、台中市、南投県に属しています。太魯閣渓谷は、立霧渓が大理石の岩盤を侵食して形成された渓谷。奇岩怪石と水の美しさが有名です。

19371227日に台湾総督府が「次高タロコ国立公園」として太魯閣周辺の広い地域を国立公園に指定しました。しかし、戦後、「次高タロコ国立公園指定」はなくなり、新たに、する。19861128日に「太魯閣国家公園」が成立しました。

太魯閣(タロコ)は太魯閣族のTurkuが語源で、意味は「連なる山々」という意味です。また、太魯閣族の高名な頭目の名前であるとも言われています。

太魯閣族の長老にお聞きしたところ、どちらも正解で、その昔、西側からこの地に移住してきた太魯閣族で、決して豊かな土壌とは言えないこの地で、部族を統括し、太魯閣族としての生活基盤を築いた頭目が、自らの名前を、Trukuと改名。その名前には、この険しい連なる山々を越えて、この地にやって来たということから名付けたのが、太魯閣の始まりだとお話してくれました。

太魯閣は偶然、発見された場所です。1732年前後、太魯閣族が狩猟の最中に、中央山脈の東側に広く緑豊かな原野を発見しました。これを機に、現在の静観西方の托魯萬(Toroko-Tarowan)から、濁水渓上流に居住していた太魯閣族が東側に移動することを決め、奇來山北峰(Kiliiyun )から立霧渓に沿って、現在の花蓮秀林郷の太魯閣渓谷の段丘やなだらかな傾斜地に移住してきました。

日本時代の1910年から「五ヵ年理蕃計画」が実施されました。この「五ヵ年理蕃計画」とは大規模な対原住民政策の事です。この計画を実施するにあたり、28回に渡る軍事行動が起こりました。度重なる争いの末、1914531日に「太魯閣の戦役」が発生しました。この「太魯閣の戦役」については、次章でご説明しますが、この戦いの舞台となってのが、太魯閣渓谷一帯です。

202442日、花蓮県全体を大きな地震が襲いました。この地震により、太魯閣渓谷に非常に大きな被害が出ました。2018年の花蓮地震やそれ以外の地震、豪雨によって、幾度となく被害が出た太魯閣渓谷ですが、今回の地震では、今まで以上の大きな被害が出てしまい、地震以降、太魯閣渓谷への立ち入りは禁止されています。花蓮縣政府は、20251月末に一部開放が実現出来るように、懸命な復興活動が行われています。

筆者も過去に、大勢の日本人観光客を太魯閣渓谷にご案内しました。回数にして千回以上は太魯閣渓谷に行っています。しかし、2024年の地震発生以後、立ち入ることが出来ないため、今、渓谷内がどの様な状態なのか、あの美しい風景がどの様に変化しているのかは、皆目見当もつきません。

ただ、地震前から、筆者は、太魯閣渓谷觀光については警鐘を促していました。理由としては、先にも述べました様に、渓谷全体が大理石で出来た山のため、雨に弱く、大規模、小規模の落石事故が過去に何度も発生していました。落石とは言え、その大きさが問題で、筆者は「落岩」と呼んでいました。大型観光バスほどの岩が落ちてきます。車に当たれば、助かる見込みはありません。また、例え、小さな落石でも、地面に当たり、大理石が破裂し、その破片が人を襲います。破裂した大理石の欠片は、鋭利な刃物の様なっています。今までも大勢の観光客、ガイドが犠牲になっています。故に、筆者の方では、2018年からは、太魯閣渓谷観光案内は全面中止にしていました。

以上の様な理由から、誠に残念ではありますが、太魯閣渓谷についての解説を今は書くことが出来ません。

太魯閣渓谷観光がより安全に楽しめるようになった時点で、改めて、太魯閣渓谷の案内は書きたいと思っています。

今はただ、一日も早く、安全な太魯閣渓谷が復興する事を祈るばかりです。


日本時代の太魯閣国立公園入口にて
賀田金三郎研究所所蔵

現在の太魯閣国家公園入口
写真後方に見えるトンネルが上記日本時代の写真撮影現場


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