東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 卓渓郷ってどんな街、17の原住民部落紹介 【花蓮縣卓渓郷】

 【卓渓郷ってどんな街】

卓渓郷は花蓮県南西部に位置し、県内で面積第2位、全国でも第5位の郷鎮ですが、人口は僅か6,043人(20232月現在)です。その理由の一つが、中央山脈上に位置するため、郷内の95%以上が山地となり、地勢は極めて厳しく、平地は中央山脈東麓の河谷平原が存在するのみだからです。住民の多くは原住民である布農族ですが、その他少数ながら泰雅族(タイヤル族)や太魯閣族、賽德克族(セデック族)も少数います。一つの郷(村)で、4つの部族が互いに協力し合いながら暮らしているという花蓮でも珍しい郷となっています。主力産業は農業です。

卓渓郷は旧名を「乾渓」と称し、本地の渓流が降雨時以外は干上がるために命名されました。布農族は18世紀中期に中央山脈東側のこの地に移動し定住していました。日本統治時代中期に原住民に対する集団移住政策が採用され、1933年には八通関沿いのターフン社、タルナス社が現在の卓渓郷の地域に集団移住をし、警察による統治を受けました。現在の部落の大部分はこの時の集団移住により形成された。戦後当初は玉里鎮、富里郷の管轄とされていましたが、1946年に分割され「太平郷」が設置されました。その後同名の郷鎮が存在したことから1950年に「卓渓郷」と改称され現在に至っています。

郷内には17の部落があり、各部落ごとに特徴があるのも卓渓郷の大きな特徴の一つです。

以下が17の部落名です。

崙山(Daqpusan)、古村(Swasal)、三笠山(Baurah Branaw)、山里 (Tawsay)、太平(Tavila)、中平(Nakahila)、中興(Valau)、卓溪(Panitaz)、中正(Sinkang)、卓樂(Taluk)、南安(Lamuan)、清水(Saiku)、白端(Suluvata)、古楓(Hunungaz)、崙天(Izukanlunting)、秀巒(Siulang)、石平(Sikihiki)

 

各部落の特徴を簡単にまとめてみます。

 

卓樂部落 Taluk

三株の百年老樟樹(クスノキ)があり、「老樟樹部落」とも呼ばれています。 卓樂派出所の側には、一座の「抗日英雄紀念碑」があります。これは、日本時代に日本軍によって殺害された部族の人々の激動の生活と日本軍に抵抗する彼らの勇敢な精神を忘れず、後世に伝承するために建てられたものです。

卓渓郷公所ホームページより



抗日英雄紀念碑


 中平部落 Nakahila

Nakahilaという発音は正に日本語が起源で、「中央平地」という意味です。日本時代に部落の区画整備計画が行われました。

部落内には、「一串小米族語獨立出版工作室(Tastubuqul tu maduq i malas-Bunun tu papatasanan)」があります。これは、中平部落の青年沙力浪(Salizan Takisvilainan)が創設したもので、民族言語で本を執筆し、自主出版することに尽力しています。さらに、工作室には、原住民文化に関する書籍が数多く置かれており、郷内惟一の部落図書館となっています。

一串小米族語獨立出版工作室
一串小米工作室提供

 

山里 部落 Tawsay

山里部落は、賽德克族のTuda語群を使う人々が住んでいます。彼らは元々は今の秀林郷の立霧渓の支流である陶賽溪(タオサイ川)の中流域の部落に住んでいました。彼らは日本の移民政策により1940年に卓渓郷に移住。花蓮県唯一の賽德克族であり、山に住む原住民賽德克族の入れ墨や織物技術、籐編みの技術などが県の文化財に登録されています。

毎年 11 月に苧麻節が開催され、賽德克族による 14 段階の工程を経る織物が展示されます。同時に歌や踊りを通じて織物の技術が伝えられます。 この様にして、先人の知恵が若者に受け継がれています。さらに、賽德克族の胡正昌氏は伝統的な籐織りの技術を守り、伝統技法を使ってさまざまな生活用品を作っており、その作品はどれも皆、籐織りの素朴で自然な美しさが表現されています。

部落内を歩くと、外壁に描かれた伝統的な賽德克族の女性の人生の物語を描いた壁画に出会うことが出来ます。賽德克族の文化的エネルギーが詰まった美しい部落です。

 

三笠山部落 Baurah Branaw

三笠山部落と後述する古村部落は卓溪鄉の中でも太魯閣族が住む部落です。

昭和13年(1938年)から昭和14年(1939年)にかけて、山地に住む太魯閣族の管理を容易にするために、日本軍は太魯閣族を秀林山から平地へ移住させる計画を立てました。当初、日本側は彼らを吉安に移住させたかったのですが、太魯閣族は山での生活に慣れていたため、山と水と豊富な獲物に恵まれ、適切な地形と環境を備えた場所を探し、三笠山部落を見つけました。

三笠山部落の世帯数は約 15世帯 で、卓渓郷で最も小さい部落です。住民の多くは日本統治時代から農業で生計を立てており、また、経済的価値が非常に高い桐の木は主に建築資材として日本に輸出されており、重要産業のひとつでもありました。現在では米、トウモロコシ、文旦などが主な農産物となっています。毎年10月には部落内にある立山國民小學校でこの土地の豊かさとその年の収穫に感謝する感恩祭を開催しています。

 


              卓渓郷公所ホームページより


中興部落 Valau

日本時代は中平と呼ばれていたこの部落ですが、戦後、部落の人々の同意を得て、中興(Valau)に改名しました。

日本時代、布農族の動向を把握するために、八通關沿線の部落を移転させました。彼らは元々は南投縣信義郷巒部落の人々で、最初は蝴蝶谷(現、瑞穂郷富源)の上方のmagsaimanに移住し、最終的に、現在の中興部落に移り住みました。

 

太平部落 Tavila

太平部落は布農族語でTavilaと言いますが、意味は白鷺のことです。太平部落は平原に位置し、白鷺が生息しており、農民たちが田畑を耕すと、白鷺が餌を求めて群がってくることから名付けられました。今でも、田畑を耕す時期になると、部落の上空には沢山の白鷺が群れを成して飛び交っています。周囲を山々に囲まれ、盆地地形の太平部落。山の形が「眠っている女性」の形をしている事で有名ですが、この山は、部落を洪水から守ると言われている「鱷魚山」です。山に囲まれた田んぼの風景は見る者の心を癒してくれます。この部落は山の麓に位置し、道は平坦なので自転車での部落観光に適しています。

 

卓渓郷公所ホームページより


中正部落 Sinkang

中正部落の道路両側の外壁には、布農族伝統の壁画やモザイクが施されており、布農族の文化が色濃く表現されています。

Sikanとは非常に高い尖った山を意味するという人もいますが、その発音が玉里鎮の酸柑(柑橘類)に似ているからという人もいます。この地域は日本時代は玉里鎮の大禹地区に属していましたが、1991年前後、この地域は原住民保留地に指定されました。

中正部落は布農族文化の保存に力を入れており、部落内には、動物の骨を保管する場所「獸骨場」があります。この獸骨場は神聖な場所であるため一般公開はされていません。毎年、射耳祭前日の早朝、部落の長老たちが男性たちを率いてここで礼拝を行います。

この部落にある卓渓天主堂教会は、フランスのジャスリン神父 (1927 2011 ) によって、フランスのルルドの聖母の巡礼地を模倣して建てられました。神父は 40 年以上中正落で神父をしており、中正部落の人々とは家族のような関係でした。この教会は、ジャスリン神父が部落の人々に残した贈り物であり、福音(キリストの教え)を広め続ける場所となっています。

 


卓渓郷公所ホームページより

ジャスリン神父 
2019.12.30 被布農族人看為是親人的賈士林神父(一)【民視台灣學堂】より


古楓部落 Hunungaz

古楓部落の地名の由来は、昔、ここに茵蔯蒿(いんちんこう)(カワラヨモギ:漢方薬にも使用されています)がたくさん生えていたため、布農族がHunungazと名付けました。このHunungazという名を聞いた漢人が「古諾風」と略し、後に似た音で古楓と呼ばれるようになりました。

部落内の竹林歩道は元々、古楓部落と白端部落との連絡道でした。その後、古楓社區發展協會によって修復され、竹が植えられ、今の1周約80分の遊歩道となりました。頂上からは花東縦谷と呼ばれる平原が見渡せ、自然を身近に感じられる遊歩道となっています。また、DIY工藝教室では、手作りの竹風鈴づくりを体験できます。

古楓部落には布農族の文化の痕跡が数多く残っており、部落内の道路脇の低い外壁は伝統的な石板積み上げ工法で作られています。部落内の環境美化だけでなく、布農族の歴史的文化も表現されています。

部落内に唯一残っている伝統的な石造りの家には、今も布農族の方が住んでいます。昔、この地に移住してきた布農族の方が、石板を先祖代々の家から少しずつ運び出され、元の姿に再び積み上げたものです。これは部落の歴史の証しだと言えるでしょう。伝統的な布農族の家の外観が大切に保存されています。

 

古楓社區發展協會DIY教室 手作り竹風鈴

白端部落 Sulapatan

県道75線路を進んでいくと、壮大な古い天主教教会が見えたら、それは白端部落に到着したことを意味します。この部落は集村(住居がある場所に集中する村落形態)形式で、部族の入り口には布農族の戦士の狩猟する様子や弓矢を描いた石の彫刻があります。この部落の外壁のほとんどは、モザイク、石板の彫刻で美化されており、布農族の伝統的なトーテムが示されています。

Sulapatanには2つの意味があります。1つは、この地の後ろに大きな「石壁(batu)」があるためその名前が付けられました。もう1つは、この地に「グアバ(番石榴)(lapat)」がたくさん生えているためです。

この地域の生態環境はフクロウの生息に適しており、夜になると部落内ではフクロウの鳴き声をよく聞くことが出来ます。布農族の間ではフクロウは良い知らせの使者であるとされており、白端部落には数多くの昔話(伝説)が残されています。

布農族文化を大切に守り続けている白瑞部落ですが、その一方で、卓溪數位機會中心(卓溪DOC)と呼ばれる機関が部落内にあります。この卓渓DOCでは、都市部と農村部の間のデジタル格差を縮め、コンピューターと情報技術の応用コースを提供することに尽力しています。それは単なるコンピューター教室ではなく、布農族文化の保存と促進のための媒体として発展してきました。

さらに、白端部落の李筱菁女士は、伝統的な織物や衣服作りの技術を持っており、部落の教育と継承に熱心に取り組んでおり、同郷の布農族の伝統的な文化技術の保存に多大な貢献をしています。

 

李筱菁老師(先生)
李筱菁老師Facebookより

南安部落 Maaivul

南安部落は山に囲まれ、台30号線で玉里鎮とつながっており、玉山国立公園東部への玄関口となっています。南安は郷内で最も観光地として様々なスポットを持つ部落です。南安ビジターセンター(南安遊客中心)があり、近くには鹿鳴橋、南安瀑布(南安滝)などの景勝地もあります。魯明橋や南安滝などの観光スポットがあります。南安ビジターセンター(南安遊客中心)をさらに西へと進むと瓦拉米步道入口(八通關越嶺古道へと繋がります)に到着します。

南安部落の布農族語はLamunanと言い、「山に囲まれた小さな盆地」を意味します。漢人は昔この地を「那麼剛」と呼び、後に「那母安」と改めました。戦後になってこの地を南安部落と名付けました。

南安部落では米、トウモロコシ、油茶椿、レッドキヌアなどの栽培が行われており、近年、地元の農民は米を主な農産物として有機農法や伝統作物の栽培を積極的に推進しています。有機栽培の広大な田んぼに風が吹くたびに、美しい稲波の風景が生まれ、人々に安らぎを与えてくれます。

 



崙山部落 Dauqpusan

崙山部落は卓渓郷の最北端に位置する部落です。

この部落は主に布農族で構成されており、賽德克族も一部含まれています。この様に異なる2つの部族が共存して住むため、特別な文化的特徴を持った部落となっています。部落の元々の名前は「馬樂布士」で、「大家族」を意味します。日本時代に日本がここに住んでいた部族のために長屋を建てて大家族で暮らしていました。戦後、「崙山」と改名されました。

 

卓渓郷公所ホームページより

崙天部落 Izukan

崙天族落は上、中、下という 3 つの小さな集落に分かれています。

崙天Izukanは橘子樹izukにちなんで名付けられました。部落が出来た頃、この部落には柑橘類が豊富にあったため、柑橘類が豊富な場所を意味する「Izukan」と名付けられました。日本時代、日本人は部落の南側の山を崙天山(Lunting)と呼んだため、この場所は崙天と改名されました。

部落内には、卓渓郷の新たな拠点である「伊入柑布農部落遊憩區」があり、文化観光と農業特産品の展示販売を組み合わせた場所(發展平台と言われ、部落発展のためのプラットフォーム)となっています。近くには、崙天遊憩區,崙天步道、崙天攔砂壩、必勇橋などの景勝地もあり、自然景観の美しさや部族の習慣なども同時に味わえる場所となっています。

 


卓渓郷公所ホームページより

秀巒部落 Siulang

秀巒部落には道路の両側に、特徴的な石積みが施された大きな起伏のある段々畑が広がっています。

秀巒Siulangは日本語で、大分地区の異なる部落から人々が移住してきた唯一の部落です。

この部落は、前述の崙天步道、崙天攔砂壩に隣接しており、近年、部落内でも遊歩道建設の計画が進められています。山と川が近くにあり、静かな自然環境を味わえる部落です。

部落の人々は天然資源を保護するために一致団結して努力しており、卓渓郷の自然の小川を保護する活動の一例として全国からも注目されています。この部落の小川は、透明度が非常に高く、生態学的にも貴重な場所となっており、この貴重な天然資源が将来の世代に渡って保存されるよう、人為的な破壊を避けるために、部落外の者が自由に入ることができません。

 


石平部落 Tatana

石平部落は卓溪鄉最南端の部落で、ここに住む人々は近隣のBubunul(大肚)、Tatana(丹那)、Maliwan(馬里旺)が移住してきました。

75卓富公路は、近年、台湾でも人気の高い「環島」と呼ばれる台湾一周のサイクリングロードの一つで、石平社區活動中心はライダーたちの休憩場所として提供されています。立体造形物、トーテムで装飾された壁には、部落の習慣や布農族の織物、狩猟、儀式などの場面が表現されています。

部落内の地夢(Tibung)木雕工作室は、部族の長老である馬祥成氏によって設立されました。馬祥成氏は二十数年間木彫刻をしており、彼の作品は力強い布農族文化に満ちており、自然で素朴な作品です。

 

馬祥成 2017.2.6聯合電子報より

馬祥成老師(先生)の作品

清水部落 Zaiku

清水族落は清水渓(川)の側に位置しています。清水部落は布農族語の「Zaiku」といい、川が「S」字型に曲がって流れていることを意味します。大雨の後に川の水が増しても、翌日にはすぐにきれいな水に戻ります。戦後、「きれいな水」を意味する「清水」が部落の名前になりました。

清水渓の岸辺は(はく)(ぼう)(チガヤとススキで覆われ、秋にはススキが風になびいてとても美しい光景を見ることが出来ますまた、上流から美しい石がたくさん流れてきており、の宝庫です。河川敷からは、谷の中腹に霧のかかった山と水の幻想的な景色を楽しむことができます。

 

Tripadvisorより

卓溪部落 Panitaz

卓溪部落は上部落と下部落に分かれており、卓渓郷公所(役場)や郷民代表会議場(町議会)、図書館、郵便局、活動センターなどの行政機関が置かれています。部落の壁のほとんどが伝統的な布農族のトーテムや文化などを描いた壁画となっており、非常に特徴ある行政の中心地となっています。

ブヌン族の伝説によると、Panitaは一株の木の事で、高忠宜氏によると、この木は車桑子(ハウチワノキ)の事だそうです。布農族の伝統的な狩猟文化には多くのタブーがあり、山での狩猟を公言することはできませんでした。そのため、かつて布農族は狩猟の前に、車桑子(ハウチワノキ)の木を使って狩りをする場所を仲間に伝えていました。

この伝統的な習慣から、その昔、布農族の人々が山から下りてこの地に移り住んだ際に、その地をPanitazと名付けたのではないかと言われています。戦後、毎年やってくる台風の後、川の水が濁るため、それを意味する「卓渓」と改名されました。

卓渓郷公所では、部族のつながりと布農族文化の継承を目的として、毎年4月と5月に卓渓国民小学校で「全鄉聯合射耳祭」を開催しています。

 

全鄉聯合射耳祭
卓渓郷公所ホームページより

卓渓郷公所ホームページより

古村部落 Swasal

古村部落は花蓮縣卓溪鄉立山村豐坪溪(川)北岸のなだらかな斜面に位置しており、美しい水田と川の風景が広がっています。

この部落は太魯閣族の集落で、1933 年に日本が行った集団の移住政策により立霧渓上流域(現在の蓮花池及その東側の希卡拉汗溪流域一帶の高山中腹地帯)から移住してきました。1943年、台風により豐坪溪が氾濫し、三笠山部落の家屋のほとんどが流され、住民の一部が古村部落に移住してきました。

山に隣接しているため、道路は曲がりくねり、起伏も激しく、家や道路の幅は狭く、山間地特有の風景がそこにあります。「谷村外環道」に沿って歩くと、部落の風景、縦長の平原(花東縦谷)、豐坪溪のS字の流れなどが一望できます。

部落では文旦、米、油茶椿などの栽培が行われており、中でも文旦は主力農産物です。毎年3月から4月には文旦の花が咲き誇り、文旦の花の香りが漂っています。中秋節の頃、部落の人たちは伝統的な籐の籠を背負って、固くてふっくらとした甘い文旦を摘む姿を見ることが出来ます。

豐坪溪S字流域
地球公民基金會提供

【参考文献】
卓渓郷公所ホームページ 部落介紹

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