東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 玉里ってどんな街、玉里協天宮、日本人が残した玉里名物、玉里神社跡 【花蓮縣玉里鎮】

 【玉里鎮ってどんな街】

花蓮縣第三の街が玉里。玉里鎮の旧名は「璞石閣」と言いました。その由来については諸説ありますが、有力なものとしては布農(プノン)族語の「風塵」に由来するとの説があります。これは秀姑巒渓(川)が乾季に干上がり、風に吹かれて土塵が舞い上がることから命名されたというものです。また、別の説では、阿美族語でワラビを意味する「pahekoパヘコ」に由来するとの説もあります。(璞石閣の発音に似ているから)

3の説に1875年に台湾鎮総兵呉光亮が中央山脈を越え玉里に向かった際、秀姑巒渓(川)のほとりで純白の玉石(大理石)を見つけ、磨かれていない石(璞石)の有る場所に、「閣」楼街道を建築したことから「璞石閣」と命名されたというものです。

 玉里鎮は古くは阿美族、布農族、西拉雅族(シラヤ)族及び噶瑪蘭族(カバラン)族の活動範囲の交差地帯でした。清末より中路(八通関古道)の検察に伴い開発が進み、日本統治時代には台東廰璞石閣区が設けられ、後に璞石閣支廰と改められました。1917年に花東線鉄道が開通すると、まだ磨いていないという意味の「璞」を取り除き、「玉里」と改称されたのです。1920年の台湾地方制度改制の際に「玉里庄」が設置され、1937年に「玉里街」に昇格、花蓮港廰玉里郡に帰属しました。戦後花蓮縣玉里鎮と改編され現在に至っています。

 主な産業は農業で、稲作が盛んで、玉里米は台湾でも有名なお米です。

玉里の中心地(市街地)には総合病院が3軒あり、街の中央には円環(ロータリー)があり、その円環を中心に街が広がっています。街自体は小さな街で、人口は20233月現在で約22,300人です。また、郊外には安通温泉、金針花で有名な景勝地の一つ赤科山もあり、毎年、金針花の時期となる8月頃や、秋に開催される温泉祭りには大勢の観光客が訪れます。市街地外れには、フィリピンプレートとユーラシアプレートが交差する地点もあります。さらに、台湾初となる旧鉄道路線跡を利用したサイクリングコースも人気があります。

 

【玉里協天宮】

玉里の市街地に鎮座する玉里協天宮。140年前の1875年に建立された玉里鎮を代表する寺廟建築です。境内には「關聖帝君」が主神として祀られ、別名「關帝廟」と呼ばれています。

協天宮の由来は、八通関古道の開通と関係があります。清国が台湾を統治していた時代、清国政府は台湾の西部と東部の往来を促進するため、1875年に南投県林圮埔(今の竹山)から花蓮県璞石閣(今の玉里)まで八通關古道を設けました。古道工事の際、工事の責任者であった呉光亮が玉里に到着したところ、疫病が発生しました。そこで、これを鎮めるために、關聖帝君を祀る小さな廟が建てられ、呉光亮自らが廟の中に「後山保障」と書いた額を掲げました。これが協天宮の前身です。この額は今でも協天宮の正殿に置かれています。

協天宮の門は伝統的な中国建築スタイルで、二体の石獅子が門の両側に鎮座しています。毎年農暦624日の關聖帝君の誕生日と7月の中元節には、盛大な祭りが行われます。

 

【日本人が残した名物】

玉里を代表するグルメと言えば、玉里麺と玉里臭豆腐。玉里麺はあっさりとした素朴な麺で、日本人好みの味です。臭豆腐と言えば、台湾を代表するグルメとも言われており。あの強烈なニオイは台湾を訪れた外国人観光客が最初に受ける洗礼とも言えるでしょう。その臭豆腐の中でも、玉里臭豆腐は台湾国中の臭豆腐ファンが、死ぬまでに一度は食べたい臭豆腐とも言われるほどの美味だそうです。ちなみに、筆者は35年以上台湾に住んでいますが、未だに苦手な料理のダントツ一位が臭豆腐です。

さて、表題の日本人が残した名物ですが、玉里麺でもなければ、臭豆腐でもありません。それが、玉里羊羹(ようかん)です。

羊羹はもともと中国料理のひとつで、豆と粉を混ぜた後、それを羊の腸に押し込み、煮込んだものと言われています。これが900年前に日本に伝わり、デザートとして改良されたと言われています。

玉里羊羹は日本統治時代、日本人の窪田氏が日本から羊羹の技術を持ち込み、玉里の特産である花豆を原料に作ったのがはじまりです。花豆の独特な風味と弱火でじっくりと煮込む技術により、滑らかで弾力性のある玉里羊羹が生まれました。以前は日本にも輸出されていました。

アズキ味以外にも、キンカン、コーヒー、ハチミツ、フルーツ味などがあります。さらに近年では、甘さ控えめの緑茶羊羹も人気を集めています。

 

【玉里神社跡】

玉里の街の西側、中央山脈の麓に、日本時代の貴重な史蹟が残されています。それが、玉里神社跡です。

台湾鉄道・玉里駅の線路を西に渡り、西邊街を北に進むと玉里神社跡がありますが、入り口が非常にわかり難く、うっかりしていると通り過ぎてしまう可能性があるので、注意が必要です。

住宅が建っている路地に突然現れる鳥居。これが一の鳥居です。この一の鳥居、左側の柱が住宅の屋根にかかっています。当然、その当時はこのような家はなかった。戦後、その地に住み着いた人達が家を建て、その際、鳥居を壊さない様にした結果、今の様になったとの事。

一の鳥居をくぐり、旧参道の階段を登って行くと、踊り場になっています。ここに朽ち果てた建造物がありますが、これも、戦後に建てられたもので、日本時代にはなかったもの。

さらに階段を登っていくと、二の鳥居が現れます。昭和118月建立という文字が読んで取れます。玉里神社自体は、昭和3年に建立されているので、この二の鳥居はその後、建立されたもの。奉納者は、東台湾無盡株式会社となっています。

参道脇には、当時、奉納された石灯篭が無数に残されています。奉納者の名前に関しては、セメントで塗りつぶされているものや、削り取られた跡があり、ほとんどが解読不能。これは、戦後、国民党軍によってなされました。

その様な状態の中で、一基の石灯篭の奉納者の名前が微かながら残されており、可能な限り解読してみました。「末廣 吉本 ○○ 妻 よね」。「末廣」は屋号と思われます。

二の鳥居をくぐると、参道はきれいに整備され、本殿跡へと続きます。本殿があった場所は広く、手前に、当時の玉里神社の写真が掲示されています。

まず目に飛び込むのが、拝殿跡。無残にも破壊された拝殿の残骸が残されています。これを目にした時、改めて戦争の残した傷の大きさを感じずにはいられません。当然、本殿は跡形もなく排除されていますが、本殿の基礎部分だけは残されています。

その昔、ここで、大勢の日本人達が、明るい未来を信じて参拝したのかと思うと、胸が熱くなります。

筆者は今までに、花蓮県下の神社跡を数多く巡りましたが、そのほとんどが国民党によって破壊されたままの状態、もしくは、山の奥深くに埋もれ、地元の人ですら正確な場所がわからず、探すのに苦労するという様な場所が多くありました。しかし、この玉里神社跡は、完璧なまでの管理がされており、非常に驚きました。

この様に、日本の史蹟を地元の人達が大切に保存、維持管理をしてくださっている事に心より感謝すると共に、何故、ここまで、日本時代の史蹟を守ってくださるのかを考えた時、日本統治時代、玉里に住んでいた日本人の方々が、如何に、地元に大きく貢献をされ、そして、地元の人達と共に、生きていたかを強く感じずにはいられませんでした。

 

 

1930年(昭和5年)の協天宮
國家文化記憶庫より《顧我洄瀾:花蓮歷史影像集》葉柏強先生提供

 

 

玉里協天宮關帝廟
國家文化記憶庫より《顧我洄瀾:花蓮歷史影像集》葉柏強先生提供

現在の協天宮

協天宮正門の周りには一般の住宅が立ち並ぶ


協天宮拝殿

呉光亮が書いた「後山保障」の額




             日本人が残した玉里名物 玉里羊羹


玉里神社                                             國家文化記憶庫より

現在の玉里神社跡 一の鳥居




二の鳥居



地元ボランティアの皆さんによって整備された参道


社殿の残骸

拝殿への階段跡

本殿の基礎だけが残されています

玉里神社跡から見た玉里の街

二つの断層が交差する地点
左:オセアニアンプレート 右:フィリピンプレート



旧鉄道路線がサイクルロードに生まれ変わった

サイクルロード(手前)と玉里大橋(奥)




*玉里協天宮:花蓮縣玉里鎮泰昌里和平路75

*玉里神社跡:花蓮縣玉里鎮西邊街21號附近

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