東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 瑞穂青蓮寺、瑞穂温泉、紅葉温泉、瑞穂牧場、瑞穂三元宮、慶安宮土地公廟 【花蓮縣瑞穂郷】
【瑞穂青蓮寺】
今から120年ほど前に建立された花蓮で最も古いお寺、それが、瑞穂青蓮寺です。境内には珍しい「黒面仏祖(顔が黒色の仏)」というお釈迦様が祀られています。
青蓮寺の起源については不思議な伝説が残っています。
1877年、この村に一人のおじいさんが竹籠を担いでやってきました。彼は竹籠を水尾庄打馬煙(現在の瑞穂郷瑞北村)の一軒の家の前におろしたまま姿を消し、何日たっても帰ってきませんでした。そこで、この家の人は近所の人と一緒に竹籠の中を開けたところ、竹籠の中には二体の銅製の釈迦像があったそうです。さらに一枚の紙が貼り付けられており、そこには「一体は水尾庄に、一体は馬太鞍(現在の光復郷)に安置するように」と書いてありました。人々は驚きながらも、あのおじいさんはお釈迦様の化身であるに違いないと口々にいい、紙に書かれていた通り、瑞美村に茅葺きの小屋を建て、仏像をお祀りしました。後に、「慈聖宮」と名付けられ、1924年にはレンガ造りの寺院に建て替えられました。後、瑞穂郷の秀才である張采香氏によって名前も変えられ、今日の瑞穂青蓮寺となりました。
青蓮寺の建物は度重なる修復を経て、1986年に現在の形となりました。古色蒼然とした寺院は荘厳な雰囲気となっています。外壁と内部の床には瑞穂郷で取れた蛇紋石が建材として用いられています。毎年旧暦4月8日の釈迦生誕祭になると、青蓮寺では盛大な浴仏式が行われ、仏像が巡礼します。
青蓮寺を訪れた際には、この寺の宝物である仏像が入っていたという竹籠も忘れずに見てください。
日本統治時代の1919年、日本人によって発見された温泉です。1920年に警察保養所が設置され、1922年(大正11年)公共浴場を付設した日本式旅館が完成しました。その後,台湾軍司令官福田雅太郎が南部視察の際に当地を訪れ、浴場を「滴翠閣」と命名しました。「滴翠閣」は花蓮港廳直営の共同浴場でした。「滴翠閣」が完成すると同時に、公共浴場も建設され、和式旅館が次々と建てられ、温泉郷として知られるようになりました。温泉に浸かった夫婦から男子が産まれることが多かったことにより、「生男の湯(子宝の湯)」とも呼ばれました。
戦後、1944年(昭和19年)頃は瑞穗庄役場が管理していましたが、1960年(民國49年)に売りに出され、一部改築を行い、紅葉観光旅社として今も現役で営業を続けています。
2001年には、瑞穂郷における地元業者の開発が行われ、それを追うように多くの温泉業開発が行われ、温泉旅館や会館が林立するようになりました。
全国で最大規模を誇る温泉地で、その水量は大変豊かです。泉質は2種類あり、ひとつは無味無色の炭酸水素ナトリウム泉で、もうひとつは鉄を含む炭酸ナトリウム泉で、酸化鉄の黄色を呈しており、俗に「黄金温泉」といわれています。泉質は日本の有馬温泉と同じです。
この瑞穂温泉、紅葉温泉ですが、「瑞穂」という名前がついており、最寄りの駅も瑞穂駅ですが、住所表示では瑞穂郷ではなく、萬榮郷となります。
【瑞穂牧場】
瑞穂には、台湾を代表する牧場「瑞穂牧場」があります。
瑞穂牧場のある土地は1969年当初、パパイヤ畑でした。1985年の台風でパパイヤが全滅し、牧場主は経営方針を風災に遭っても損失の少ない乳牛(ホルスタイン)の放牧に転じ、乳製品の生産をはじめました。1998年から牛乳の販売を統一企業に委託し、牛乳ブランド「統一瑞穂鮮乳」となって、台湾全土に普及するようになりました。その後、政府の農業観光の推進により、訪問者が増加したため、多元的な観光牧場として展開しています。
牧場内には、乳牛以外にもダチョウがおり、来場者に愛嬌を振舞っています。
瑞穂には日本時代、「玉苑」(瑞北村)、「瑞源」(瑞北村南部)、「宮の里」(瑞祥村)の三つの日本人移民村がありました。玉苑移民村の地神碑は瑞興橋の下にありましたが、戦後、日本人が引き揚げた後は「土地公(土地の神様)」として旧暦の毎月1日と15日に地元の人がお参りに行くようになりました。2016年6月に行われた道路工事に伴い、瑞穂三元宮の前に移築されました。現在、「地神碑」が置かれている場所には「五角地神碑」がありましたが、それを廟に向かって右側に移動し、元々「五角地神碑」があった場所に「地神碑」を置くことになりました。五角柱には「天照大御神」「大己貴命オ」「少名彦命」「倉稲魂命」「埴安媛命」の名が彫られています。
慶安宮は瑞穂郷富興村の県道193号線から約78km離れたところにあり、富興古道の近くにあります。慶安宮は花蓮でも珍しい古老土地公廟ですが、非常に目立たない丘のふもとにあり、注意していないと発見するのは困難です。この様な場所に建てられたのは、日本統治時代末期、皇民化運動が強く推進され、日本政府は台湾の地元の神々への崇拝を厳しく禁止したことに理由があります。人々は日本政府の監視の目を潜るように、この様な山奥に神様を置き、信仰をしていました。それ故に、慶安宮一帯は、「廟仔坑」(廟を隠した場所)と呼ばれています。
慶安宮は大正 9 年 (1920 年) に建てられ、大きさの異なる 13 枚の厚い石板で構成されています。1951 年の花蓮地震により廟自体は倒壊しましたが、祠は無傷で残り、村人たちからは「奇跡だ」と言われました。慶安宮の左側の石造りの外壁には、寺院建立時の信者の寄付の記録があり、当時の大和村の信者の寄付額も記録されています。
記録によると、寄付額は「20円」で、年は「大正庚申年」、すなわち、大正9年(1920年)に寄付されたことがわかります。
また、慶安宮の土地公は夫婦土地公ですが、これには以下の様な伝説が残されており、今でも語り継がれています。
最初、女性の土地公は存在していませんでした。しかし、村民である陳清仁爺さんが夢の中で男性の土地公に嫁を迎えてと依頼されました。当時の人達の間では女性の土地公はケチで、自己中心主義で情理が通じず「悪女」と思われていた年代でしたから、女性の土地公が存在すること自体が非常に珍しかったそうです。
瑞穂祠(神社)の跡地は戦後破壊されたのち、参道の一部は虎頭山歩道として整備され、ましたが、社殿のあった場所は放置され続けてきました。今は、広場になっており、残念ながら当時の面影は跡形もなく消え去っています。歩道の途中には付属施設として土俵があったといわれている場所もありますが、こちらも今では広場となっており、土俵の跡は一切残っていません。
瑞穗溫泉の「滴翠閣」,左が陸軍中將福田雅太郎,右が理蕃課長宇野英種
國家文化記憶庫より《顧我洄瀾:花蓮歷史影像集》葉柏強先生提供
國家文化記憶庫より《顧我洄瀾:花蓮歷史影像集》葉柏強先生提供
*瑞穂温泉:花蓮縣萬榮郷紅葉村一帯
*紅葉温泉:花蓮縣萬榮鄉紅葉村188號
*瑞穂牧場: 花蓮縣瑞穗鄉舞鶴村6鄰157號
営業時間: am8:00-pm18:00年中無休 入園無料
*瑞穂三元宮 花蓮縣瑞穗郷祥北路一段54號
*慶安宮:花蓮県瑞穂郷富興村海岸山脈西麓 県道193号77.5km地点
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