東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 白川神社(拔子社)、蝶々谷 富源森林遊楽区、富源保安宮、志願兵実施に感激の血書、村人を命がけで守った警察官 【花蓮縣瑞穂郷】
【白川神社(拔子社)】
白川神社は、昭和8年(1933年)2月12日に鎮座。開拓三神(大国魂命、大己貴命、少彥名命)、北白川宮能久親王をお祀りしていました。毎年9月25日に例祭が執り行われていました。
白川という地名は、日本時代に付けられたもので、瑞穗鄉富源村、富民村、富興村一帯は「拔仔庄」と呼ばれていました。日本時代、この地域の重要な水源であった馬蘭鉤溪(川)がいつでも透明で、美しい水の流れであったことから、日本人はこの地を「白川」と名付けたと言われています。
戦争中は、白川神社には他の神社同様、白川公学校の児童たちが、毎月8日に戦勝悲願のために、校長先生に連れられてお詣りしました。
1951年に猛烈な台風が当地を襲い、その際、赤い檜の鳥居が倒壊、神社本殿も大きな被害を受けましたが、神社一帯の土地は戦後、公用地ではなくなっており、勝手に家を建てるものもいました。また、神社の敷地は山の中腹にあったため、地元住民の防空訓練時の避難場所にもなっていました。1960年代には、本田の銅製の瓦が盗まれました(犯人は逮捕)。1970年代に、風水の観点から神社本殿の再建を目指しましたが、何らかの理由で、悪い噂が流れ、結局は、実行されず、また、その地にあったお墓も、場所が良くないと言う事で別の場所に移り、今は、その残骸が残されています。
神社本殿も姿を消し、僅かに石灯篭と参道だった場所に石階段、拝殿の踏み石が残されている状態です。
また、尾が破損してしまった狛犬が発見され、富源派出所前の花園、大富國小文物館を経て、現在は、富源駅傍にある抜仔荘常民文化館入口で日本時代を懐かしむようにたたずんでいます。
【蝶々谷 富源森林遊楽区】
台湾の蝶々は世界的にも有名です。その種類の多さと、生息率の高さは世界トップクラスです。毎年3月から8月はその数がもっとも多くなる時期です。特に花蓮の富源森林遊楽区は別名「蝴蝶谷(蝶々谷)」とも呼ばれるほどで、上記シーズン中ならば最低でも30種類以上の蝶々と出会えます。また、遊楽区内には蝶々の展示館もあり、珍しい蝶々の標本を見ることが出来ます。(展示館内は写真撮影が禁止になっていますのでご注意ください)
また同園区の楽しみ方としては、険しい渓谷と渓谷を流れる富源渓が巨大な岩にぶつかり舞い上げる水しぶき、そして、岩壁から流れ落ちる富源瀑布(滝)など迫力満点な光景も楽しめます。
2024年の花蓮地震前までは同園区内に、蝴蝶谷温泉度假村という宿泊施設を兼ねた日帰り温泉、食事を楽しめる施設がありましたが、地震後、花蓮を訪れる観光客が激減し、遂に、8月1日から年末までの期間、一時休業が決まりました。2025年以降については、本書執筆を行っている段階(2024年11月上旬)では正式な発表はありません。
ここの温泉は非常に変わった温泉で、「移動する温泉」と言われています。高温の温泉が湧き出ているにも関わらず、温泉独特のあの湯煙がどこからも出ていません。これは、水の流れによって源泉の位置を変える「流動温泉」の特長で、常に移動しながら川底から温泉を噴き出しているのです。施設の再開が果たせるように、花蓮縣政府も全力を尽くしている様なので、期待して再開を待ちたいと思っています。
富源保安宮は1888年、清朝光緒時代に建てられました。拔仔庄(現、富源、富民、富興等)に清兵總理の謝芳榮によって建てられました。霞海城隍爺をお祀りしたもので城隍廟とも呼ばれ、花蓮地区では最初に建てられた城隍廟でした。
富源保安宮の建っている場所は、漢族の集落と阿美族の集落の間にあります。元々は間口一間ほどの小さな茅葺きの小屋でしたが、日本統治時代に村民の寄付により3~4平方メートルほどの石造りの寺院に改築され、現在も保安宮内部でその名残を見ることができます。
また、1929年に村民から寄贈された龍と虎の彫刻も残されています。現在の保安宮は鉄筋コンクリート造で、1950年から1972年にかけて順次改修されました。
第二次世界大戦中、日本政府は台湾で皇民化運動を推進し、台湾の人々に日本の神道の信仰を受け入れるよう奨励しました。拔仔庄の住民は、保安宮の霞海城隍爺が被害を受けることを恐れ、黄金の霞海城隍爺を富興山のふもとに移し、大きな赤木(大茄冬樹)の下に一時的に安置されました。戦後、霞海城隍爺は保安宮に戻され、毎年旧暦5月13日の城隍爺の誕生日には台湾式の神様の行進を行うのですが、その際は、富興山の麓にあるかつての避難所を通る迂回路が設けられることになっています。
この城隍爺の誕生日のお祭りは富源保安宮にとっては一年に一度の重要なお祭りで、毎年、お祭りは盛大に執り行われます。
お祭りの前日、「暗訪」という他では見ることのない特別な伝統的習慣があります。これは、信徒達が太鼓や銅鑼を鳴らし続けるもので、夜通し、休むことなく行われます。
この「暗訪」は最初は信徒達の間だけで行われていましたが、近年、歴史研究者や台南十鼓擊樂團の支援の下、各地の廟からも参加する様になり、今では「鼓王爭霸戰」として、伝統的な民俗活動が文化に新たな命を吹き込みました。
【志願兵実施に感激の血書】
東台湾新報昭和16年(1941年)6月25日の報道によると、日本政府が台湾島民に対し、翌年の昭和17年度より志願兵実施を行うことを決めました。この決定に対し、白川の阿美族の青年、山下四郎氏が感激し、日の丸に血書を添えて花蓮港廰憲兵隊分隊に届けたとされています。血書の内容は
「志願兵制度が実施されることにあたり、私共はこの上もない名誉なことであります。本日より17年度を指折り数えて待っております。天皇陛下万歳、万歳、万歳。
昭和16年6月21日 花蓮港廰鳳林郡白川アミ族 山下四郎 台湾軍司令官閣下殿」
というものでした。
筆者が数多くの歴史の生き証人達にインタビューをしてきた中で、当時、日本人として生きていた台湾の方々から「日本兵として戦う事に誇りを持っていた」「早く正式な兵隊となって戦いたかった」というお言葉をよく聞きました。それ故に、この山下四郎さんの血書も、決して強制的に書かされたものではないと筆者は推測します。
【村人を命がけで守った警察官】
1908年12月11日、鳥取県東伯郡社村大字大谷(現在の湯梨浜町)に生まれたのが、船越喜代信氏。花蓮港廰蕃地Patonoh(現、秀林郷富世村)にて巡査を拝命し、その後、1935年6月13日に花蓮港廰鳳林郡へ移転。鳳林郡白川警察官史派出所勤務(現、富源)を経て鳳林郡鶴岡警察官史派出所に勤務(現、瑞穂)。
子どもにも恵まれ、幸せな日々を送っていた船越巡査だったが、1941年、瑞穂でマラリアが大流行。船越巡査は何とか感染を食い止めるために、日々、寝る間も惜しんで、マラリア患者の隔離作業を行い、さらに、阿美族の部落を巡回しながら、完成予防に努めるように呼びかけを行い続けました。しかし、遂に、船越巡査自身もマラリアに感染してしまい、
1941年11月7日に入院先の花蓮港市鉄道病院にて死去。船越巡査の働きに敬意をはらい、同年11月15日に花蓮港市にて警察葬が行われました。
船越巡査の足跡を辿る中で、偶然にも、船越巡査の事を覚えている方と出会いました。阿美族の高齢者の方で、その方のお父さんがマラリアに感染し亡くなった時、船越巡査が沢山の食材を持って家を訪ねて来てくださったそうです。そして、船越巡査はまだ幼かった兄弟姉妹達の頭を撫ぜながら「これから辛い事もあるだろうが、負けずに頑張るのだ。君たちが頑張っている姿を天国でお父さんはいつも見ているから」と言ったそうです。その言葉があったから、どんなに辛いことが有っても道を反れることなく、兄弟姉妹全員が母を支えながら頑張ることが出来た。兄や弟、姉の中には船越巡査の様な心優しい警察官になりたいと、警察官になった者がいます。(ご本人のご希望でお名前は伏せます)
【歴史の生き証人】
☆鍾昌發さん(2016年4月インタビュー)
元白川村、現在の富源にお住まいの鍾昌發さんは、大正15年生れ。耳が少し遠く、足も歩行器がなければ立てない状態でしたが、しっかりとした日本語で、日本統治時代の思い出を語ってくれました。
「当時の日本人を言葉で表すならば、『忠義・努力・正直』。
日本人の忠義の心は素晴らしかった。国に対してだけではなく、仕事の面においても同じだった。
例えば、警察官は村人の為に一生懸命に働いていた。日本語教育が徹底していたが、中には、日本語の話せない人もいた。子供は学校で日本語を学ぶが、その親たちは、日本語が満足に話せない。だから、警察には必ず、巡査補がいて、それは台湾人でした。巡査補は、日本人警察官の通訳も行っていました。各派出所には部長が1名、巡査補2名がいました。
私は、学校を卒業した後、台湾電力会社に就職しました。当時の台湾電力会社の幹部は日本人で、従業員もほとんどが日本人でした。
就職試験は2日間行われ、初日、事務所に行った際、事務所の机の下に、100円札が落ちていました。私はそれを見つけ、近くに居た日本人従業員の人に『落ちてました』と手渡しました。翌日、今度は100円札が3枚落ちていました。私は同じように、日本人従業員に手渡しました。すると、『君は正直な人間だ。採用決定』と言われました。
当時の日本人の正直さに比べ、台湾人の正直さは劣っていました。だから、色々なところで、会社のお金を盗んだりする台湾人がおり、日本人としても能力だけではなく、その人間性、特に、正直さという事に重きをおいていたのでしょう。
当時の給与は4700円でした。当時としては非常に良い給与をもらっていました。
戦後、国民党政権になり、いきなり、国語が日本語から中国語に変りました。最初はまったく中国語が話せませんでした。必死に中国語を勉強しながら、同時に、英語も勉強しました。
私は、台湾電力会社を退職し、台北に英語の勉強に行きました。
そして、1947年2月28日、台北駅の近くの丸い市場で、一発の銃声がし、私の目の前で人が撃ち殺されました。これが、228事件の最初の銃声であり、犠牲者だったのです。私は228事件の発端を目の前で目撃しました。
228事件の後、中国語もある程度話せるようになりましたが、もう少し勉強したいと思い、警察学校へ入学しました。そこで、中国語を徹底的に勉強し、警察官になりました。
私が子供の頃に見た日本の真面目な警察官。自分もそのような警察官になりたいと思ったのですが、実際に警察官になると、日本時代とはまったくかけ離れた現実を目の当たりにし、当時の台湾の警察官という職業に失望、警察官を辞め、台北から白川(現在の富源)へ戻って来ました。
村には中国語がきちんと話せる人が少ないなか、(大半が日本語しか話せない人達)、自分はきちんと中国語が話せるという事で、小学校の教師になって欲しいという要請を受けました。最初の2年間は見習い教師として教壇に立ち、その後、試験を受け、正式に教師として、定年まで勤めました。
警察官になるための試験、教師になるための試験、どれも当時は本当に難しい試験でしたが、私が必死に勉強出来たのは、日本時代に教わった『忠義、努力、正直』が基本にあったからです。
日本時代の白川公学校には、1年生担任が張先生(台湾人)、2年生担任が女性の松尾先生、3年・4年担任が横川先生、5年・6年担任が青山先生でした。
白川村にも日本人は住んでいて、その中で、遠藤さん、山口さん、金本か金山さんがお店を営んでいました。その他に、山崎さんという方が私の家の向かいに住んでいました。
近くには、軍人さんで高瀬さんという人が住んでいましたが、終戦の時、彼は腹を切って自害しました。
私は銃剣の使い手でもありました。一人突き、三人突き、五人突きというのがあり、五人突きが出来たのは数名しかおらず、その内の一人が私でした。
当時は何時でも戦地へ赴く準備が出来ており、名前も「金城」と改名したくて、役所に改名届を出しましたが、脚下され、再度、「金沢」で提出し、認められたのですが、その直後、終戦となってしまいました。
日本人の『忠義、努力、正直』があったからこそ、花蓮は発展したのだと思います。」
突然の私の訪問にも関わらず、快くインタビューにお答えくださった鍾昌發さん。92歳とは思えないしっかりとした日本語で激動の時代を語って下さいました。
最後に鍾昌發さんがおっしゃった言葉がとても印象的でした。
「私がもっと若ければ、日本へ行っていただろう。もう一度、日本へ行ってみたかった。」
*白川神社跡:花蓮縣瑞穗鄉學士路18號
*抜仔荘常民文化館:台湾鉄道富源駅 改札を出て右側
*富源森林游楽区:花蓮県瑞穗郷広東路161号
*富源保安宮:花蓮縣瑞穗鄉富民村239號 富源から徒歩5分
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