東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 瑞穂郷ってどんな街、鶴岡文旦、掃叭(サッパ)石柱、北回歸線標(北回帰線標誌) 【花蓮縣瑞穂郷】

 【瑞穂郷とはどんな街】

瑞穂地区の歴史は永く、先史時代から人類が存在していたとされています。その証として次章で紹介する掃叭石柱で、考古学者の調査によると、この遺跡は約3000年前の新石器時代に属し、卑南文化と麒麟文化であるとされています。

 19 世紀半ばから後半に漢民族がこの地域に住み始めました。また、元々は阿美族が住んでおり、奇美(チーメイ)、莫魯漲(モルチェン)、蘭阿散(ラナサン)、阿多蘭(アドラン)、烏鴉立(ウーウーリー)、青山(チンシャン)、梧繞(烏漏)(ウーラオ(ウールー))、加納納(ガナナ)などの部落がありました。

1812年(清朝嘉慶17年)にはすでに漢民族が吉安郷の開墾を始めたという記録があり、その後1825年(道光5年)と1851年(咸豊元年)にも漢人が今の壽豐郷志學村(後の賀田村)、花蓮市豐川(國裕里、國強里、國慶里交界地區)一帯の開墾を行いました。また、1853年(咸豊3年)には、璞石閣(今の玉里鎮)の開拓も始めました。しかし、1874年(同治13年)に牡丹社事件が起こるまで、瑞穂地区には漢人が開墾したという記録は残されていません。

牡丹社事件後、清国政府は台湾東部の主権を行使するため、首相兼海運大臣の沈宝真を台湾に派遣し、防衛を担当させるとともに「開山撫番山」という開拓政策を推進しました。台湾東部には北、中部、南の3つの道を開きました。1875 (光緒元年) 正月、台湾総司令官の呉広良は軍を率いて道路建設を行い、林杞埔社寮から大水窟、坑頭を経て璞石閣(今の玉里)まで道路を作りました。さらに北は水尾(今の瑞穂郷瑞美村)までの道路を建設しました。これが瑞穂郷における漢民族定住の始まりで、兵士や民間人が定住し、徐々に漢族の集落が形成されていきました。

清国統治の 20 年間、清朝政府の開山撫番政策により、清朝に対する原住民の抵抗事件が数多く発生しました。瑞穂郷でも1877年(光緒3年)の大港口事件(別名、奇密社事件)、1878年(光緒4年)の加禮宛事件、1888年(光緒14年)の大庄事件などがあります。これらはすべての原因は道路の開通、開墾、税金の問題によって引き起こされました。

日本時代、台湾総督府がこの地は稲穂がたわわに実っていることから、それまで「水尾」(秀姑巒渓(川)の尾を意味する)と呼ばれていた地名を「「豊葦原の瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」(日本の国を指す和風の美称で、「葦の穂が豊かに生い茂り、みずみずしい稲穂が実る国」という意味)を引用し、さらに、水尾と発音が似ている「瑞穂」と改名しました。

1937年(昭和12年)、花東は地方再編を受け、ここに「瑞穂庄」が設立され、瑞穂集落に花蓮港廰鳳林郡管轄の役場も設けられました。管轄区域には、大和(加禮灣、乾真巷、大農場、阿羅朗等部落を含む)、白川、瑞穂(水尾、舊水尾、打麻園山等部落を含む)、鶴岡(烏漏、屋拉力、青山等部落を含む)、奇美(現、猴子山)、舞鶴(掃叭頂、加納納、馬立雲等部落を含む)などの地域がありました。

また、瑞穂には当時、「玉苑」(瑞北村)、「瑞源」(瑞北村の南部)、「宮の里」(瑞祥村)という3つの日本人移民村がありました。

終戦後、日本は台湾から撤退し、同年1025日に国民党政府が台湾にやってきました。翌年の 1946 (民国 35 ) 1 11 日に花蓮県政府が設立され、地方行政区域は市、鎮、郷に変更されました。そのため、瑞穂庄は瑞穂郷となりました。その後何度かの再編が行われ、今の瑞穂郷となったのです。

主な産業は農業で、その中でも、文旦(鶴岡文旦)、パイナップル、蜜香紅茶は街を代表する農産物です。

 

【鶴岡文旦】

瑞穂の市街地を望む瑞穂郷東側の山に鶴岡村があります。

1960年代、ここは「鶴岡紅茶」の名前で広く知られ、茶業が盛んに行われていましたが、市場の変化により次第に生産量が減少していきました。そこで、地元の農民たちは、新たな生活の糧を探すため、村の気候風土に適していると思われた「文旦」の試験栽培を行いました。数年間にわたる品種改良の結果、果汁たっぷりの甘い「鶴岡文旦」が誕生したのです。全国市場の開拓にも成功し、鶴岡の名前が再び台湾全国で注目を集めるようになりました。鶴岡文旦は、丸く黄色い日本の土佐文旦とは異なり、細長く緑色をしています。

瑞穂の市街地から瑞岡大橋を渡り、鶴岡村の産業道路沿いを登っていくと、山の斜面一面に文旦の樹が見えてきます。これらは樹齢20年以上の老木が多く、毎年3月頃に白い可愛い花が咲き、農暦7月の白露(98日頃)前後から収穫が始まります。丁度時期的に台湾の中秋節頃の収穫となるため、中秋節の贈り物としても人気の高いものとなりました。

瑞穂鶴岡地区には約800ヘクタールの文旦果樹園があり、年間2400万トンを生産しています。花蓮を代表する農産物のひとつと言えます。

1990年、鶴岡文旦共同産銷経営班は文旦農家と協力し、面積約20ヘクタールの観光フルーツ園をつくりました。収穫期には観光客に果樹園が開放され、文旦狩りが楽しめます。

文旦の美味しい食べ方は、外側の皮が乾燥するまで待ってから食べると。甘みも増し、とてもジューシーな鶴岡文旦を味わう事が出来ます。


【鶴岡文旦誕生の秘話】

鶴岡村で昔から農業を行っていたのは阿美族屋拉力部落の人々でした。彼らはキリスト教を信仰していました。2011年に豐味果品という会社が同部落を訪れ、神父と協力して村全体の文旦を販売する手伝いを始めました。最初の一年目は麻袋1袋に文旦を詰め込み、袋単位で販売をしました。当然、等級付もせず、包装にも一切気を使いませんでした。グレープフルーツを販売する人々は、等級付けも包装にも注意を払いませんでした。豐味果品 は、農業委員会から補助金を受けて、倉庫で10 年間使用されていなかった果物洗浄機をメンテナンスに、使用出来るようにしました。そして、村の某民たちに、洗浄と等級分けに協力をしてくれるように頼みましたが、鶴岡の農民たちはその必要性を理解出来ず、「文旦を売るだけで、何故、洗浄や等級分けが必要なのか。面倒なだけだ」と耳を貸してもらえず、結局、60軒近い農家のうち、協力してくれたのは僅か15軒の農家だけでした。

 2012年、ある顧客が、「鶴岡文旦は麻豆文旦(台南の麻豆地区で収穫される文旦で、当時は、台湾で最も有名な文旦の産地でした)と差異はないほど美味しい」と絶賛し、それがきっかけで鶴岡の農民たちは、豐味果品が用意した洗浄機を使用するために列をなして並ぶようになりました。また、等級分け、ギフト用包装も行う様になりました。

豐味果品と協力して文旦を出荷する様になった農家は上等クラスの文旦を顧客に送り、顧客から喜ばれ、それがまた大いに彼らの励みとなっていきました。

2013年、ある農家が、豐味果品と協力するために、自腹で洗浄機と分等級機を購入するまでになりました。

2014年以降、農民自身がより品質の良い文旦を作るためにはどうすれば良いかを研究するようになり、それまでは、摘果作業は行っていなかったので、1本の樹に500個以上の文旦が実をつけていましたが、摘果を行い、半分の量にすることで、より糖度が高く品質の良い文旦が実ることを発見。さらに、翌年には有機栽培での文旦栽培も開始。都会に出ていた若者達も故郷の瑞穂に戻り始め、ベテラン農家の人々が若手農家の人々にその技術を伝授。確実に、次の世代へ文旦栽培は引き継がれています。

村では文旦で得た利益で、台風で壊れた教会を再建したり、新たな技術開発のために活用をしています。

 

 

【掃叭(サッパ)石柱】

瑞穂郷舞鶴地区に建つ二つの石柱。約3000年前の新石器時代のものとされています。

掃叭石柱は相対する二つの巨大な石柱で、ひとつは高さ5.75m、ひとつは3.99mあります。この石柱には古くから2つの阿美族に関する伝説が残されています。

一つは、阿美族は昔から、家を建てる時、土地を囲んで祖先に祝詞をあげる習慣があります。ある時、この祝詞の歌詞を間違って歌ってしまい、暴風が起こりました。そして、部落の人々全員が石に変えられてしまい、歌詞を間違った二人は石柱に変えられてしまいました。

また、別の話では頭目の妻が双子を産んだのですが、一人は肌の黒い子、もう一人は肌の白い子を産みました。部落の人々はこれは不吉な兆候だとして、二人の子供を門の木柱に縛り付けました。その後村は衰退し、二人の子供は石柱となりました。

「掃叭」とは阿美族の言葉で「木板」を意味します。

今から数百年前、阿美族が舞鶴台地にやってきた際、突如暴風雨に襲われ、慌てて付近にあった木板を拾い上げ、雨を避けたと言われており、これが「掃叭」の由来だそうです。

掃叭石柱は今から約三千年あまり前の新石器時代後期に属する「卑南文化」の遺跡である事が後に、考古学者の研究によってわかりました。台湾で唯一の史前巨石文明の遺跡なのです。このため、掃叭石柱を国家三級古蹟に指定しています。しかし、この巨大な二つの石柱がいったいどこから、誰が、どの様な方法で、何のためにここに運ばれたのかは未だに謎のままとなっています。この謎、このまま神秘のベールに包まれたままにして欲しいと思うのは筆者だけだろうか。

尚、この掃叭石柱が建っている場所を舞鶴台地と呼んでいますが、日本の舞鶴市とは関係は一切ありません。この台地が上空から見ると鶴が舞い降りた時の姿に似ていることから舞鶴という名が付けられました。

 

【北回帰線標誌】

舞鶴台地に建つもう一つの有名なものが、北回帰線標誌。皆さんもご存知通り、北緯23.5度。夏至の正午には影がなくなる。それが北回帰線の事です。

北回帰線は台湾島を貫いており、嘉義県水上郷と花蓮県瑞穗郷(山川)、花蓮県豊濱郷(海側)に北回帰線標誌があります。何と、花蓮には2か所の北回帰線標誌があるのです。

特に、花蓮県瑞穂郷の北回帰線標誌は日本統治時代の1933年に建設されました。当時は瑞穂駅の西側にあったのですが、1981年に東部幹線の拡張工事により、現在の舞鶴台地へ移動されました。実際の北回帰線は、標誌から南に約2キロいった場所になります。

現在の北回帰線標誌公園内にはひときわ目立つ白色日時計のオブジェが立っています。

四方には中国の伝統的な気象観察を代表する四種の動物(四象)、玄武(北)、朱雀(南側)、青龍(東側)、白虎(西側)が描かれています。ひとつの象は 7つの星を司ると言われ、春夏秋冬という四季の変化を表しています。

公園の両側には気候、気象、節、地球科学関連の説明がされたプレートが展示されています。

日本時代の北回帰線
賀田金三郎研究所所蔵(国田宏氏提供)

当時の花蓮観光ツアー
賀田金三郎研究所所蔵(国田宏氏提供)


現在の北回帰線(山側の北回帰線)


掃叭(サッパ)石柱

鶴岡文旦

鶴岡文旦

鶴岡文旦ギフト用ボックス
瑞穂農會より


*掃叭石柱 花蓮県瑞穂郷舞鶴村(9号線約274.8キロ地点で右側車線を右折)

*北回帰線標誌公園:花蓮県瑞穂郷舞鶴村

*鶴岡文旦観光フルーツ園:花蓮県瑞穂郷鶴岡村280(青果社銷班)

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