住田コーヒー農園を退職した国田に再び、台湾総督府より声がかかりました。当時、支那事変に入っていた日本。軍と総督府より、シンガポールから導入したデリス農薬の製造を要請されたのです。住田コーヒー農園時代より、耕作地にデリスを栽培していた国田は、デリスに対し、それ相応の知識は持っていました。
国田は、昭和14年(1939年)5月28日に、同郷、鳥取県出身で、同じ花蓮港廰庶務課に勤務していた西村繁三と共に、軍と台湾総督府よりの要請に応えるために、当時の花蓮港市花蓮港舊新港街6-5(現在の花蓮市大同街4巷4號)に、資本金190,000円の東台湾デリス株式会社を設立し、デリスその他の植物栽培と加工、販売を開始しました。
代表取締役には、国田正二と西村繁三が就任、取締役には、村田市蔵、岡村一輝、饒永昌(元賀田組従業員、元鳳林街街長)、鄭栄林、清水半平(元吉野村村長、元吉野村郵便局局長)が就任、監査役には、馬有岳(元省議会議員、元省農会理事長)、中野正行、徐秀春が就任しました。
昭和17年(1942年)には、それまでばらばらに活動していた産業組合を一つに取りまとめ、台湾全国の産業の連携を図った台湾産業組合連合会を設立する事になり、理事長には、大日本製糖(現、大日本明治製糖)を中心として日東化学工業(1998年に三菱レイヨンに吸収合併)、日本コロムビア、日東金属鉱山、日本ナショナル金銭登録機(現・日本NCR)、ホテルニュージャパン(横井英樹に売却の後、火災で廃業)、日東製紙(山口県萩市に工場があり、竹パルプを原料としていた)、日東物産商事(日東化学直系の肥料商社・現在は伊藤忠商事傘下)、神港製粉、東海陸運輸、北陸製塩工業、台湾糖蜜、日本糖商、建三、三立製菓、南方漁業開発、武蔵中央電気鉄道、日本アドレソグラフ・マルティグラフを経営していた当時の財閥、藤山コンシェルンの社長である藤山愛一郎(元外務大臣、元日本商工会議所会頭、初代日本航空会長)が就任、国田正二は専務理事に就任したのです。
国田は、デリス農薬の製造販売を行いながら、産業組合連合の活動も積極的に行っていました。その最中、海軍からの要請によりロープの原料である「チョマ(苧麻)」(宮古上布の原料となる糸。イラクサ科の多年生植物の繊維)の栽培を主とする東台湾繊維工業合資会社を、昭和15年3月に、当時の花蓮港廰花蓮港市舊新港街6に設立したのです。
さらに、当時の日本国政府の食糧増産の国策に応えるように、デンプンの原料であるキャッサバの栽培、卸、輸出を行う、東台湾殖産興業株式会社を資本金180,000円で、昭和15年7月23日に当時の花蓮港廰花蓮港市稲住93に設立。代表取締役社長には、国田正二、専務取締役に林玉瑚、常務取締役に谷金次郎、取締役に林安生、福島利夫、黄元明、李歩清が就任しました。
戦後、台湾政府、陳儀長官の要請により国田は、産業開発の指導者として台湾に残留することになり、家族は先に日本へと帰還することになりました。国田は一年をかけて五か年計画を立案し、自分がお世話になった台湾への最後のご奉公をしたのです。
昭和21年12月に陳儀長官よりの日本出張命令を持って日本へ引揚げとなりました。
引揚げの際、船の関係から基隆港に足止めとなった国田。収容所の飯はまずく、食えたものではなかったそうです。そんな時、国田が帰国することを知った台湾人の友人達が鳥の丸焼きや果物を持ってきてくれたのです。
日本へ引揚げた国田は、その後も、すぐに台湾へ戻る予定でしたが、昭和22年2月28日、台湾で228事件が勃発し、事態は一変、台湾へ戻ることは出来なかったのです。
一方、陸軍士官学校へと進学した次男の宏は、陸軍士官学校から陸軍航空士官学校へと移り、満州へ行くことになりました。この知らせを受けた母のすへは台湾から宏に会うために日本へと向かいました。宏は最後の別れになるかも知れないと、遺品として爪、毛髪と写真を母親に渡し、満州へと向かったのです。
満州出発の前夜、三朝温泉で親子は泊まり、カニをたらふく食べさせてもらいました。
宏は満州では偵察機に乗っていました。その後、宏は特攻隊へ行くことが決まっていました。戦争が後1カ月続いていたら、特攻隊員として出撃していたそうです。
終戦間近、陸軍士官学校は解散し、当時の宏の上官が「貴様たちには未来がある。未来の日本国の発展のために、必ず生きて祖国へ帰れ。そして日本国のお役に立て。そのためにも、貴様ら全員を必ず日本へ連れて帰る。」と言われ、ソ連軍侵攻の直前に満州を脱出、昭和20年8月下旬に鳥取に戻ることが出来たのです。
宏のあまりにも早い帰還に、家の者が驚いたほどでした。一方、長男の一夫は、終戦後一年間は帰って来ることが出来なかったそうです。また、陸軍士官学校の同級生の中には、解散後は各隊長の判断に委ねられていたため、ソ連に抑留された隊もありました。
一足先に帰国した家族と満州から生還した宏達は、父親の故郷である鳥取県東伯郡湯梨浜町橋津で塩を作ったり、農作物を作って生活をしていました。ある日、鳥取市内に塩を売るために、リヤカーに塩を乗せて引いていた宏は、同じように、リヤカーを引いて海岸線を歩いてくる両親とばったり出会ったのです。
その際父である国田正二は、再会を喜ぶ前に、「宏にこのようなことをさせて情けない。申し訳ない。」とその場に泣き崩れたのでした。
この時ほど、敗戦を強く感じた事はなかったはずです。そしてまた、花蓮での生活と敗戦国となった日本での生活の差に打ちひしがれたことでしょう。
台湾から引き上げる際、国田は砂糖を送ると共に、一部の砂糖と羊羹を持ち帰っていました。当時は砂糖は相当な高値で販売することが出来き、麻袋一袋で一年間の生活費にもなるほどでした。国田は、その砂糖を売って、宏の進学費用にしたそうです。
また、次女の八重子の倉吉女学校編入時にも、正二は校長へ羊羹と砂糖を持って行ったそうです。
二度目の台湾渡航の際に国田の父、豊吉より「国田家の跡取り」として故郷に残していくことになった一夫は、自分だけが親から引き離され、生まれながらにして、国田家の家業を継がなければならない運命を背負わされたにも関わらず、最終的には両親を引き取り、夫婦で最後まで親の面倒を看ました。口では親を怨むような事を言っていた一夫ではあったが、そこは正二とすへの息子。心根は優しく、人の面倒見も大変良く、また、郷土愛も非常に強く、町の文化財保護委員長を務め、さらに、自らも「ふるさとの文化を守る会」の代表をしながら、「ふるさと橋津」という素晴らしい郷土史を発刊しています。
正二もすへも最後は最愛の息子であった一夫の元で暮らせた事を大変喜んでいた。
日本へ戻った国田は、故郷の鳥取県東伯郡湯梨浜町橋津にて、製塩業、飴製造業の組合長として迎え入れられました。
丁度その頃、東台湾デリス株式会社時代に、同社の監査役として就任していた馬有岳氏(1903年3月5日-1966年6月19日)が、昭和21年(1946年)花蓮県農業会理事長に就任。
馬氏が来日した際、飛行場まですへと八重子が出迎えに行きました。そして、当時、大学進学のために東京暮らしをしていた宏の元を訪れ、今の国田の様子を聞いた馬氏は、「すぐに国田を呼べ」と命じました。馬氏は呼び出した国田に対し、「国田さん、是非、台湾の農産物を日本国内で販売して欲しい」という強く要望したのでした。
国田は、馬氏の要望に応え、東京・日比谷の三信ビルに台湾農業会東京弁事処を開設し、直ぐに農業会の仕事を始めました。
戦後直後、台湾バナナはGHQの管轄下にあり、GHQ用に輸入されており、規格外の検品落ちした台湾バナナが闇市で高値で取引されていました。昭和25年(1950年)7月、台湾バナナの正式輸入が再開され、国田は、正式輸入再開後初めて、台湾バナナの輸入を行い、青果業界では一躍時の人となったのです。
馬有岳氏と国田の関係は、東台湾デリス株式会社の同僚というだけでなく、住田コーヒー農園を国田が運営している時、従業員等々についての悩みをいつも相談していたのが、馬有岳。この馬有岳と国田との出会いも、偶然的な出会いでした。
住田コーヒー農場時代、国田は、農場からオートバイに乗って瑞穂の街へ買い物に行った時のこと。乗っていたオートバイが故障。街の人達に修理工場を訪ね歩いていました。しかし、当時はまだ珍しい乗り物だったオートバイ。田舎町の瑞穂で修理工場を見つけることは容易ではありませんでした。そんな時、困っている国田を見かけた馬氏が声をかけて来たのです。オートバイが故障して困っている旨を伝えると、馬氏が修理工場を見つけ出してくれたのです。このことがきっかけで、国田と馬氏は頻繁に顔を合わせる様になり、「お前」「俺」の仲へと発展していったのです。
1966年6月19日、馬有岳氏は死去。国田は、戦後初めて馬氏の墓参りに台湾を訪問。馬氏の墓標に日本酒一本をふりそそぎ、人目も気にせず、墓前で大泣きしました。
日本、台湾、カナダ、そしてまた台湾へと渡り、戦後は、日本へ戻って様々な事業展開を行った国田正二。
カナダ時代に排日運動のあおりを受けて差別を受けた経験から、二度目の台湾での生活では、一切の差別を行わず、自らも現地の人達と一緒になって泥まみれになりながら汗を流した国田正二。
従業員が生活に困窮していると聞けば、自分の財布をそのままそっと手渡したり、従業員が毒蛇に噛まれた時は、自らがその毒を吸い出してやったり、おおよそ当時の日本人では考えられない様な姿がそこにはあった。
その一方で、宴会や接待で花蓮や台北で芸者衆を集め、派手に宴会をやった国田。自分は一滴も酒が飲めないのに、大福を食べながら、場を盛り上げた。「国田の親父が宴会をやる時は、街から(呼べる)芸者が全員いなくなる。」とまで言われたほどの豪快さを持ち合わせていた。
花蓮での宴会の席では、赤ん坊だった宏を連れて行き、飲めない酒を飲んだために酔いつぶれ、そのまま宏を置いて自分だけ帰ってしまうという失態もあった。後から芸者さんが宏を届けてくれたそうだが、流石にその時は、すへから強烈なお灸をすえられた。
また、花蓮で家を建てる際には、故郷の鳥取県橋津で大工をしていた横山さんや三朝の大工さんなど4、5人を鳥取から呼び寄せるというこだわりも持っていた。
この様な何事にも情熱的で豪快な国田を陰ながら支えたのがすへであった。正二が台北へ出張に行くと、何日も帰って来ない日が続いた。乳飲み子を抱え、花蓮で待つすへ。気苦労も大きかったと思うが、一切の愚痴を子供に聞かせることもなく、常に笑顔で明るく、気丈だったすへ。
国田は台湾時代の人間関係も大切にしており、日本帰国後も様々な台湾人の方と交流を続けていた。その交流は、息子の宏氏、娘の八重子氏、孫の新居育子氏、村山政策氏へと受け継がれている。
2010年3月21日には、花蓮県瑞穂郷の舞鶴台地にある東昇茶行敷地内に、国田正二像が建立され、彼の偉業を称えた。胸像の除幕式には、宏氏達も招待され参加した。
晩年の国田は孫たちにも愛された。国田宏氏の愛娘で、正二の孫にあたる新居育子氏によると、「夜遅くに来たのか、朝コーヒーのにおいがすると、おじいちゃんが来ていると飛び起きました。カナダで覚えた讃美歌や、「Amazing Grace」「サイパン娘」、さらに「きらきら星」を英語で歌ってくれて自分でいろいろな振りを付けて、一緒に踊らされました。また、家族が集まるとドジョウ掬いを踊って皆の笑わせてくれました。子供を飽きさせない、一緒になって遊んでくれる楽しい祖父でした。
また、私たちのことを気にかけてくれていたのか、よく手紙を送ってきました。それは高校のころには数十通にもなっていました。
クリスマスカードは必ず毛筆で英語で書いてきて、寝たきりで鳥取に帰ってからも続いていました。祖父は明治の生まれでありながら博愛主義者であったと思います。」と語った。
そんな国田であったが、ある時、横浜の中華街に行った帰り、石川町の駅で階段から転倒し入院、脳硬化症になり寝たきりとなってしまった。
1979年(昭和54年)11月11日、正二は子供や孫たちに見守られながら、93年の生涯を鳥取で終えることになる。
明治、大正、昭和の激動の時代を生き抜いた国田正二。
常に新しいことにチャレンジする精神を持ち続け、なおかつ、愛国心、義理人情を忘れなかった人物。
私利私欲のためではなく、「お国のため」「花蓮の人々のため」「恩のある台湾へのお礼」のために、様々な困難を乗り越えて事業を展開してきた国田正二。そして何よりも、花蓮の農業改革に大きく貢献し、今の花蓮の農業の基盤を作り上げた人物が国田正二であった。
【子供達が語る国田正二】
☆次男の宏氏が語ってくださった国田正二像について箇条書きでまとめてみました。
(1)花蓮市内の花崗山の公会堂での催事が行われた時は、常に芝居の主役は父だった。(国定忠治とか)当時、花蓮では有名人だった。新年会では、どじょうすくいを踊ったりしていた。また、コーヒー園でも原住民が集まったときにはドジョウすくいを披露していた。
(2)クスノキの根の部分の大きな置物、が玄関前にあった。これは、父が自ら見つけてものを運ばせたものであった。父はこの置物が大変お気に入りであった。
(3)現在の金額で100万円以上する碁盤を持っていた。また、大きなテーブル、茶器など父が気に入って購入した高価なものはすべて、日本へ引き揚げる際に、李連春さんに預けて引き揚げてきた。碁盤は惜しかった、と後々言っていた。
(4)芸者を集めて、よく宴会をしていた旅館の女将が、台湾人の下働きの女の子を差別的扱いをしていたので、その女将を何度も注意していた。その女将に対して怒っていた。お酒が飲めない父であったが、それでも周りをしらけさせることなく、常に場を盛り上げる人だった。たまに飲めない酒を飲むと、私を置き忘れるという失態もあったようだが。人を楽しませることが大好きで、酒の席では一切、仕事の話はしない。仕事と娯楽をきちんと分けていた人だった。
(5)動物が大好きな人で、特に、台北で購入した競争馬に対する愛情は深かった。私にも専用の馬を与えてくれた。父の馬に乗った姿は本当にかっこよかった。いつも農場をお気に入りの馬に乗り、隅から隅まで見回っていた。
(6)従業員だった台湾人(客家人)や原住民を日本人よりかわいがっていたのではないかと思う。だから、自分から原住民達の住んでいる場所へと行き、生活を見て、原住民を守る、助ける、仕事を一緒にする、それらにすべて愛情をもってやっていた。
私はそのような父の姿を見ていたので、コーヒー園に居た頃は、原住民の子供が遊び相手だったし、中学でも他の生徒より、台湾人の生徒とよく遊んだほうかもしれない。故に、他の湾生より望郷の念が人一倍強いと思う。
また、時代が時代だけにそのような光景(正二が台湾人や原住民と働いたりするところ)は好ましくないことと思った人も花蓮にはいた様だ。台湾人と働く父の姿が一番輝いていたと思うし、父の一生で一番良い時期だったと思う。
(7)父から怒られたり、怒鳴られたりしたことは一度もない。瑞穂、花蓮市内、とその場所ごとに家を守る母が、慣れない土地での子育てで大変だったと思う。父が花蓮で活躍出来たのも、母の支えがあったからだと思う。
☆次女の八重子氏が語る父、国田正二
「父の誕生日」
毎年、お正月も半ばを過ぎると、誰となく「オジイさんの誕生日だね」と言い出し、2月2日には家族が集まる東京での暮らしでした。
オジイさんを知る孫、知らない曾孫も近況報告、おしゃべりの会がありました。
今は老人ホームの一室で父のコーヒーを美味しく淹れて写真と話す一人になりました。それでも、「オジイさんの誕生日だね」と言ってくる孫もあり、命日よりも誕生日を思い出させるのは父らしいことです。
末っ子の私は父との入浴で、イギリスの国歌、賛美歌を聴き、南洋の歌などを歌ってくれました。また、カナダから帰国する際のお土産は、樽いっぱいの鮭の塩漬けを持って帰ったなど、海外暮らしの想像をかき立てる話ばかりでした。
孫たちには、面白い英語などを聞かせる、幼子とも話の出来る、面白いおじいさんでした。
私が40年前、花蓮に帰った時、近所だった方が「あなたのお父さんは本当に良い人だったよ」「あなたのお父さんは金儲けは下手だったね」「馬有岳さんのお墓にお酒一本を注ぎ、号泣していたよ」と話してくれ、狭い花蓮に広がった父の話を嬉しく聞きました。
引揚者のために何か役に立ちたいと借金まで作り、家財道具が差押さえられた兄嫁が話していました。
終生の友であった馬有岳さんも亡くなり、時代も変化していきましたが、父は常に先を考え、最後は、バクテリア細菌利用の肥料の話を熱っぽく語っていました。あの時代は、化学肥料が普及していた時でした。今また時代は戻り、有機肥料、無農薬と言われております。私は「お父さん、また目の付け所が早かったね」と亡き父と話をしております。
晩年の国田正二
次男の宏が陸軍士官学校入学時に撮影した親子の写真
賀田金三郎研究所所蔵(国田宏氏提供)
母すへと次女の八重子
賀田金三郎研究所所蔵(国田宏氏提供)
国田正二と孫の新居育子
賀田金三郎研究所所蔵(国田宏氏提供)
国田正二の恩人であり親友だった馬有岳
東昇茶行敷地内に建立されている国田正二胸像
父の正二の胸像と向き合う次男の宏
【参考文献】
*播磨憲治 日本統治時代の花蓮を変えた男 台湾農業改革の父 国田正二
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