東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 花蓮の歴史を語る上で忘れてはいけない人物 国田正二(中) 【花蓮縣瑞穂郷】

 昭和4年(1929年)に、国田は、台湾総督府花蓮港廰浅野安吉廰長(現在の知事)の庶務課産業技手となりました。翌年、第30代内閣総理大臣の斎藤実内閣の時代、国策としてコーヒーの国産化の方針が打ち出されたのです。そこで白羽の矢が立ったのが台湾でした。

ところで、台湾でのコーヒー栽培は何時頃から始まったのでしょうか。所説ありますが、代表的な説を幾つか挙げてみる事にしましょう。

(1)J.W.Daividson の説: 1903年 J.W.Daividson著の『The Island of Formosa, Past and Present』によると、 台湾で最も早く植えられたコーヒーの木は、大稻埕の徳記洋行という商社がアメリカの サンフランシスコで買って持って来たものであり、游氏兄弟が台北板橋付近に植えて栽培したと記されている。

(2)田代安定の説: 台湾総督府の技師田代安定が 1911 年に書き残した『熱帯植物殖育場報告』及び『臺灣經濟年報 昭和17年度版』によると、台湾のコーヒーは、徳記洋行という商社のイギリス人が 1884 年にマニラで買った苗木を、楊紹明が台北州海山郡三角湧(現、台北三峽一帯)の蕃地(原住民族居住地)に栽植したところ10本ほどが活着したと記されている。

(3)澤田兼吉の説: 1933年、澤田兼吉著の『台湾に於ける珈琲栽培歴史』『台湾に於ける珈琲に関する資料文献集』によると、台湾のコーヒー栽培起源の諸史料を整理検討した結果、1885 年に茶葉商人の陳深埤が大稻埕の徳記洋行から約一石(約 150kg)の コーヒーの種と若干の資金をもらい、台北州海山郡三角湧(現、台北三峽一帯)に栽植したと記されている。(田代安定の説を補足した説)

(4)オランダ人と台湾原住民の遭遇説:1624 年(寛永元年、明・天啓 4 年)、オランダ人が現在の台南市安平に上陸、「熱蘭遮城」(現在の安平古堡)と普羅民遮城(現在の赤崁樓)を建てて、台湾統治の行政の中心とした。オランダの東インド会社はここを拠点にして、西部の原住民と商業交易を行っていた。当時の原住民は嘉南平原の西拉雅族(シラヤ族)と現在の阿里山鄒族(ツォウ族)。さらにオランダ宣教師の宣教活動を通して、オランダ人と西拉雅族・鄒族との交流は頻繁になった。オランダ人と鄒族の交流が頻繁になる伴い、多くのロマンスが生まれたとされている。当時のオランダ商人は男性が中心で、オランダ人が建てた教会で鄒族の女性と結婚式を挙げることが多かった。このような異族間婚姻は鄒族とオランダ人の関係を密接なものにし、多くのオランダ人は台湾に定住した。そして、コーヒー豆を持って来て、嘉南平原一帯に栽植したと言われている。(『YuYuPas 阿里山鄒族文化部落』「瑪啡咖啡 阿里山咖啡的誕生傳奇より抜粋)

この様に、日本が台湾を統治する以前より、台湾ではコーヒー栽培がおこなわれていましたが、台北州海山郡三角湧(現、台北三峽一帯)でのコーヒー栽培は、原住民族の襲撃により開墾小屋が放火され、栽培者が死亡してしまいました。その後、この地の種子を台北州文山郡冷水坑(現在の台北木柵・新店・烏来一帯)あるいは七星郡汐止付近(現在の汐止一帯)にて栽植され、一時は相当の生産を見るに至ったようです。

李春生は、このコーヒー豆を石うすでドリップし試飲したところ、香りも味良く、これをロンドンに送ったところ、好評を博し一等品にまでなったと言われています。しかし、その後コーヒー栽培は衰退し、日本が台湾を統治した頃には、僅かなコーヒー樹しか残ってなったと記録されています。

この様に、コーヒー栽培は一時衰退しましたが、先にも述べた様に、国策として改めてコーヒー栽培を行う事となり、名乗りをあげたのが、大阪市北区に本社を構えていた住田物産株式会社(現在の株式会社エム・シー・フーズ)、木村珈琲店、東台湾珈琲株式会社等でした。

一方、国田はと言うと、吉野村での稲作指導が終わり、拠点を花蓮港廰鳳林支廰(現在の花蓮県鳳林鎮)に移し、樟脳作りの研究を始めていた。実際に山へ入り、樟脳の原料となる楠を伐採。如何に効率よく製脳を行うかについての研究に励んでいた。正二は樟脳作りの研究を行う一方で、台湾総督府よりの命により、サイパン・ハワイへコーヒー栽培に関する視察へも出かけています。そこで国田は、台湾と同じ南国でのコーヒー栽培、特に、大規模栽培農園の視察を行い、その効率の良さと整った設備に大変驚きました。また、この視察の際、ハワイで国田は、住田物産の社長の住田多次郎氏の息子と出会っています。二人は意気投合し、コーヒー栽培の未来について大いに語り合ったと言われています。この時国田はまさか自分が台湾でのコーヒー栽培に携わるとは夢に思っていなかったでしょうし、まして、自分が住田物産に就職するとは予想もしていなかったはずです。しかし、この二人の出会いが、後の国田の運命に大きく影響する事になるのです。余談ではあるが、国田は後に、子供達と風呂に入ると、当時、サイパンで流行していた「サイパン娘」を歌って聞かせたそうだ。

昭和4年(1929年)の末頃、樟脳作りの研究を行っていた国田に対し、花蓮港廰、住田物産より住田物産コーヒー農園の支配人として活躍して欲しいとの強い要望がありました。推測するに、ハワイで出会った住田多次郎の息子からの提言もあったのではないかと思われます。熟慮した結果、国田は、昭和5年(1930年)同社コーヒー農園の支配人(取締役支配人)を拝命することになりました。

まず最初に国田が行わなければならない事は、様々な条件をすべて満たす場所を探さなければならないということでした。自分自身がサイパン、ハワイで視察したコーヒー農園を参考に、台湾の珈琲産業は如何なる構造を有するべきか、そして、コーヒー園は如何なる経営形態で運営されるべきかを考える必要がある。それに、①資本需要度 ②土地需要度 ③労働需要度 ④自然的位置 ⑤交通便も念頭において適地を探す必要があったのです。

①資本需要度

コーヒー樹は主に種実で繁殖し、播種後40日から50日で発芽、1年から2年で定植、3年目頃より結実、7・8年頃に最盛期を迎える。収穫期間は20年から40年と言われている。この様に、コーヒー栽培は、短期作物ではなく長期作物となり、資本を据え置く必要があった。台湾には短期作物が多く、台湾人達は長期作物を好まなかった。さらに、コーヒー樹は隔年豊凶作という内在的循環性があり、生産と価格との不一致という危険性があったため、資本家企業には向かない産業でもあった。この様な点から判断して、日本本土の大中小農業経営者向けの産業であると位置づけていた。

コーヒーは果実が赤熟すると直ちに摘採し、広場に運搬して精洗、脱肉、乾燥、脱穀、選別、精製という工程を経なければならない。さらに、宿舎、倉庫、農機具小屋、畜舎、肥料小屋等を設置する必要があった。コーヒー園を経営するにあたっては、コーヒーを栽培かつ加工するためにそれに要する資本を固定する必要があり、先に述べた様に、加工工程のためにそれ相応の敷地も必要となる。そのため、小規模農家には適さず、その一方で、巨大な資本家は必要なく、結果、中規模経営がもっとも適していると判断された。


②土地需要度

コーヒー園を経営するのはそれ相当の面積の栽培適地を獲得する必要があった。台湾では平地は人口が密集しており、対抗作物も多く、長期栽培を要するコーヒー栽培は適していなかった。さらに、平地ではコーヒー栽培で最も恐れるさび病も多く、暴風の襲来に備える防風林の植樹も困難であった。元々コーヒー栽培は、世界的にみても山岳地帯の傾斜地が適地とされていた。既に開拓された山岳傾斜地であれば、高値で買収する必要があったため、未開拓の山岳傾斜地を探す必要があった。


③労働需要度

コーヒー栽培は、開墾、植付、除草、施肥、薬剤散布、剪定など一年を通して労働力を必要とする。特に、結実の際には迅速に収穫せねばならず、一時に大量の労働力を必要とする。収穫労働は婦女子の労働力が必要とされ、加工調整過程では熟練な技術者も必要となる。この事より300甲を経営するのは、200人程度の労働力が必要となり、原住民族の労働者と日本人若しくは台湾人の労働者の両方が必要となる。


④自然的位置

コーヒー栽培に適している温度、雨量、土質も見極める必要があった。平均気温22度で、特に冬場の最低気温が重要であった。霜害を防ぐためである。

コーヒー樹にとって脅威なのは風。特に台湾では台風が多い事から、防風林は必要不可欠なものであった。出来ればこの防風林も自然林を上手く利用できる場所があれば、無駄な経費を投入することもない。さらに、適度な土地の傾斜が求められる。これは乾燥、水はけを考えての事だ。しかし、傾斜地が少ない場合は、管理は非常に便利であるという利点もある。そのため、平坦地の場合には、乾燥予防策を講じ、排水設備を整えれば問題は解決することが出来た。


⑤交通便

収穫し、加工を終えたコーヒー豆を出荷する際に必要となるのが交通便。道路、鉄道が近い方がよい。また、職員たちが生活するための日用品等々の購入にも便利な場所が良い。

これらの条件を満たす場所でなければ、大規模コーヒー農園を開く事が出来ないのである。いくら気候面でコーヒー栽培に適している台湾であっても、これだけの条件を満たす場所を見つけ出すことは容易なことではなかった。

これらの条件を全て満たす場所を国田は懸命に探し、その結果、花蓮港廰(現在の花蓮県)の瑞穂・掃叭台地(現在の舞鶴台地)が栽培適地であることを突きとめたのです。早速国田は、李連春氏(戦後、糧食局局長に就任)と共に、測量を行いました。

国田が探し当てた土地は、比較的平地にあり、官有森林原野予約買渡地四百五甲餘、民有地買収二十五甲の併用地でした。

昭和5年11月に、同社は台湾総督府より官有林野予約売渡許可を得て、翌年1月から事業を開始することになりました。しかし、この予約売渡許可書を得る際にも国田は大変な苦労をしている。

実は国田が選んだ舞鶴台地は、東部農産試験地として、昭和4年6月には、パイナップル栽培適地として、昭和5年4月にはコーヒー栽培適地として指定された地域でした。昭和5年に住田物産株式会社は予約売渡願を提出したが、当時すでに、槇哲氏がパイナップル栽培を出願していたのです。この事実を知った国田は、台湾総督府へ日参し、コーヒー輸入防止上必要な農園である旨を熱く訴え続けたました。その結果、昭和5年11月18日に、405甲餘を成功期間6か年、年貸付料甲あたり2円10銭、売渡金甲あたり42円にて許可を得ることが出来たのです。住田物産株式会社農場はその後事業が着々と進行し、昭和15年3月29日に事業は成功し売渡許可となっています。

昭和6年(1931年)、国田正二を支配人に迎えた住田物産は、掃叭(サップ)台地(現在の舞鶴台地)に430甲(約430ヘクタール:東京ドーム約91個分)の住田コーヒー農園の事業を開始しました。

まずは、土地の開墾が必要となります。そのためには労働力の確保が必要でした。そこで、国田は、農園の周りを取り囲む様にあった阿美族の部落、舞鶴社、掃叭社、カララ社の人々に「共に、この地にコーヒー農園を作ろう」と声をかけて回りました。しかし、ここで問題となったのが、阿美族の人達はすでに自分たちの農地を持ち、そこで、稲、粟、落花生、芋などを栽培していたことから、農繁期になるとコーヒー農園の方が人手不足となります。また、当時の東台湾は、様々な公共工事が多く、原住民はその労働力として重宝されていたのです。そのため、阿美族等の原住民を主力としていては労働力確保が不安定になると考え、西部台湾からの移住者を主力として使う事にしたのです。その際、国田は、苦力頭(クーリーカシラ)制を採用したのです。苦力頭制とは、会社は苦力頭と契約を行う(主に、口頭契約)。苦力頭は、西部台湾(主に、当時の新竹州)より労働者を入植させる(主に客家人と呼ばれる人々)。苦力頭は労働力を一人一日供出すれば、手数料として大人八銭、子供三銭が会社より支払われる。移民労働者と苦力頭との契約期間は二年で、会社より住居一戸(5坪から10坪)、金八円、農具、雑作地(二歩から三歩)が支給されるようになっていました。これにより、住田コーヒー農園は、大部分が台湾人移民労働者(客家人)に依り、一部分を付近の阿美族等の原住民が補うという労働形態になったのです。

昭和17年には、住田コーヒー農園での移民労働者数は、男が143人、女が75人、子供が41人となっていた。全体の四分の三は客家人、四分の一は台湾人・原住民となっていました。彼らは農園付近に家屋を支給され、集団生活をしていました。これは、監督指導する上でも効率が良く便利であったようです。国田は暇を見つけては彼らの家を訪ね、共に語り、共に食事をし、共に笑い、共に泣いた。そんな国田を従業員達も慕い、いつしか彼らにとっては良き兄貴分となっていったのです。

農場経営を行う上で大切な事として、管理組織の確立でした。この点でも住田コーヒー農園は他社と比べて整然たる管理体制をとっていたのです。

まず、農場の一切の管理は支配人に委ねられていました。農場を4分場に分け、各分場に事務所、宿舎を設け、農場主任、監督、監督補佐、農夫を駐在さ、さらに、移民労働者を事務所付近に集団的に生活させ、管理にあたらせたのです。

さらに、支配人の下に庶務会計主任、書記、農務では、農務主任、農場主任、監督、監督補佐、農夫、労働者、工務では、工場主任、運転手、労働者と組織化していました。この組織化を図ったのも国田でした。

但し、樟脳研究時代より阿美族の人達との付き合い方を心得ていた国田でさえ、阿美族を雇用する上で何も問題がなかった訳ではありません。思うように働いてくれない、突然、何の連絡もなしに平気で仕事を休む、仕事中も監督の眼を盗んで仕事をさぼるという阿美族には、さすがに手を焼いたようです。しかし、決してそんな阿美族の人達を罵倒することもなく、気長に、働く事の意義、人は何故働くのかという事について語って聞かせる国田の姿がそこにはありました。

また、住田コーヒー農場は、花蓮港市街(現在の花蓮市)に近く、花蓮港市の発展と共に、台湾人労働者の需要は多くなり、農場に入植する労働者も定着性がなく、市街地へ流失する傾向にあり、常に、労働力の確保、管理には頭を痛めていました。そのような時、いつも相談に乗ってくれていたのが、後に、国田にとっては大切なパートナーとなる馬有岳氏でした。

土地を開墾する際に国田が最初の行ったことは、農地全体に「クロタラリア」を植える事だでした。その理由は、ネコブセンチュウ・ネグサレセンチュウなどを抑制し、茎が空洞で硬くなりにくく、分解が容易で小型の機械でもすき込みやすく、根粒菌が空中窒素を固定し地力を高めるなどの特徴がクロタラリアにはあったからです。省力的に土づくりを行える縁肥植物であるクロタラリアを使用したのです。
さらに国田は、当時としては珍しい、アメリカのフォード社のトラクターをハワイより導入し、荒地の原野開拓に取り組みました。また、コーヒー農園として必要な家屋、調整加工設備、倉庫、農具小屋、堆肥小屋、畜舎などの建設も行っていったのです。

苗木の育成(主にアラビカ種)、その間に容赦なく襲い掛かる、台風、日本では考えられない様な害虫被害、そして、死の病とされていたマラリアのまん延等々との戦いでもあり、想像をはるかに超える苦難の連続でしたが、遂に、三年後の昭和9年(1934年)に初収穫、日本へ向けての初出荷を迎える事ができたのです。

昭和17年の時点で、住田コーヒー農場の農場面積は425.6642甲 利用面積は417.6642甲、実に98.12%の敷地利用率。この数字は、他社と比べても大きな差があり、ダントツ1位でした。ちなみに、木村珈琲店嘉義農場の47.24%、同珈琲店高原農場の48.28%、東台湾珈琲農場の26.13%とは比べものにならないほどの敷地利用率だったのです。

住田コーヒー農場では、417.6642甲の利用敷地面積の内、76.74%の320.00甲がコーヒー栽培、71.00甲が作物栽培(デリス、茶、芋や落花生等の移民雑作)、5.00甲が建物敷地、106.1842甲が道路敷地、11.00が防風林として利用されていました。

コーヒー農場にとって重要な設備は以下の様になものでした。
事務所5棟(10坪)、社宅2戸構7棟(50坪)、農夫宿舎5戸構4棟(15坪)、労力小屋1戸構7棟、2戸構19棟、3戸構5棟、4戸構7棟(合計100坪)、火力乾燥場1棟、熱風乾燥場1棟、乾燥場10個(50坪)、脱肉機3台、脱穀機2台、電気発動機5馬力2台、石油発動機1台、倉庫2棟、農機具小屋5棟、堆肥小屋2棟、畜舎10棟

この規模は他社を圧倒しています。

特に、住田コーヒー農園は、容易に電力を利用することが出来、電力によって脱肉、脱穀が可能であり、加工費を削減することが出来ました。他社は山地であるため電力は利用できず、重油発電機により作業をしなければならず、能力的にも著しく劣っていたのです。また、後に、重油が入手困難となり、人力での作業となりました。
常に先を見据え、万全な体制で挑む国田。その彼の姿勢が生み出した好結果であったと思えます。

この日台親善のモデル農場であり、台湾におけるモデル農場でもあった住田コーヒー農園には、時の台湾総督や高官たちが視察に訪れるほどでありました。

しかし、何故、阿美族や客家人の人達はこの初の事業に協力したのか。その理由は、国田自らが農園に出て、泥まみれ、汗まみれになりながら土地の開墾に携わったからなのです。それまでの日本人は自らが汗することはなく、指示する事が多かったのですが、国田は、清廉潔白、気骨のある人物で、考え方もスケールが大きく、パイオニア精神の持ち主であったので、従業員の人達と共に汗を流し、共に、この地に富を呼び込みたいと考えたのです。

しかし、従業員と共に一緒に汗水を流す国田の行為は、住田物産本社より出向していた他の日本人からは疎まれていたようです。当時の日本人、特に、管理者ともなると、自分は一切現場には出ず、デスクの前で数字だけを眺め、少しでも数字が落ち込めば現地の従業員に対し、上から目線で命令するのが常でした。しかし、農園の総責任者である支配人の国田が、自ら現場に出て、従業員と共に、一緒に汗水を流されると、自分たちもやらざる負えない状況となることに反発を持っていたようです。

また、当時は日本人は管理職、台湾人、原住民は下働きという観念が強かったにも関わらず、支配人である国田自身が現地の人間と共に汗を流し、泥まみれになり、また、従業員に対しても決して偉そうな態度を取らず、良き兄貴分的存在だった彼に対する現地日本人の視線は決して好意的ではありませんでした。

周りの日本人から疎まれながらも、それでも自分の姿勢を崩すことなく、信念を貫き通した国田。彼の中には「この農場を一日も早く軌道に乗せる。そして、ここで働く全員が幸せになれるような環境を作り上げる。」という気持ちしかなかったのです。農場を安定させることが国策であるコーヒーの国産化に貢献することであり、それが結果的に、現地の人々の生活をも安定させることに結びつく。正に、愛国心と博愛主義の国田らしい生き方、選擇であったと思います。

国田は、コーヒー農場の基礎を作り上げ、それを見届けた昭和11年(1936年)、住田コーヒー農場を退職。退職理由については生涯語ることはなかった国田ですが、おおよその見当はつきます。日本より派遣されてきた社員との確執が最も大きな理由だと思います。結局、自分の信念を貫き通すことで、それに反発する現地日本人従業員の不満の矛先は、現地従業員へと向けられる。その事を最も嫌がっていたのは他でもない国田であったからです。そのために、農園の基礎を作り上げ、農園が安定したのを見届けた国田は自らが身を引いたのです。

国田は生前、「最も苦労をし、大変だったのはコーヒー農園だった」と子供や孫たちに語っていたそうです。  当時、コーヒー農園の片隅で栽培していた紅茶畑は今も鶴岡ウーロン茶、鶴岡紅茶として、花蓮のウーロン茶、紅茶の一大産地として残っています。


【歴史の生き証人】

☆国田宏さんの証言 2017年6月インタビュー

当時の農園の様子を国田正二氏のご子息である国田宏氏は次のように語っています。

「台地一面にクリスマスツリー状のコーヒーの木が成育し、真っ白ン花が咲き、甘い香ばしい香りが一面に漂っていました。一番眺めの良い高台から一望したコーヒー農園の風景は、写真や映画で見たブラジルの大陸的なコーヒー大農場を思わせ、当時、まだ幼かった私の脳裏にも深く焼き付いています。そして、父と共に馬に乗って農場を見回った思い出は、我が故郷台湾を思う時、今でも瞼に鮮明にその当時の風景が浮かんできます。また、収穫時は、コーヒーの実が真っ赤に実り、木の枝にたわみ、緑の葉と真っ赤な身のコントラストは、他の植物では見る事の出来ない見事な風景でした。また、阿美族の方々の月見祭(豊年祭)のエキゾチックな踊りは忘れる事が出来ません。」

また、小学校入学まで両親と一緒に住田コーヒー農園で育った宏さんは、

「当時の日本人は、原住民達とは距離を置き、自分の子供が原住民の子供と遊ぶことは厳禁とされていましたが、父は私を連れて原住民の子供や家族との付き合いをしていました。原住民達はパチンコを使って鳥を落とすことが得意で、私たち親子は原住民からそのテクニックを教わりました。小学校は父の願いもあり、花蓮港市内(現在の花蓮市内)にあった花蓮港国民小学校へ通わされました。当時、花蓮港国民小学校は日本人専門の小学校で、花蓮港廳下では最も勉強熱心な学校でした。他の地域の国民小学校では、農業実習という時間があり、その分、勉学の時間が削られてしまう傾向にあったからです。この間は、父の知人である甲斐氏のところで私は下宿していましたが、まだ小学生だった私にとっては、親元を離れての生活は寂しいものでした。だから、夏休みなどの最後の日には『帰りたくない』とよく泣いたものです。しかし、父は、『教育は必ず身を助ける』という信念をもっており、心を鬼にして私を花蓮港市まで見送りました。一時期、甲斐氏が出身地の大分に戻ることになった時は、私は親元に戻り、玉里第二公学校へと転校していた時期があった。正直、このまま甲斐さんが戻ってこなければいいのにと子供ながらに思いました。また、農園には父専用の馬がいて、元競走馬の白馬で名前は麒麟といいました。私にも専用の馬が与えられ、馬に乗って走るのが大好きな子供でした。」と語ってくださいました。


呉裕枝さんの証言 (2017年6月インタビュー)

住田コーヒー農園で共に汗水をを流し、苦楽をともにした吳鼎貴氏。その娘さんである呉裕枝さんは、

「父は生前からいつも、『今日お前達が生活できているのは、国田正二さんのおかげ。私たちの生活が苦しかった時に、国田正二さんは財布ごと差し出して元気付けてくれたからだ。また、国田さんの奥さんは、原住民の従業員が出産すると聞くと、その家まで行き、出産のお手伝いをしてくださったり、出産後も母親の体力回復と赤ちゃんの生育のためと、色々と食事を運んでくださった。国田さんご夫妻がいなければ住田コーヒー農園は成功していなかっただろうし、そもそも、地元の阿美族達も、国田さんだからついて行けたと言えるだろう。』と言ってました。父が亡くなる前にも、『国田家の人々が花蓮を訪れたら、借金してでも、きちんとおもてなしをする様に』とまで言ってました。」と語ってくださいました。


住田コーヒー農園にて 右から2番目が国田正二
賀田金三郎研究所所蔵


愛馬に乗る国田正二
賀田金三郎研究所所蔵

住田コーヒー農園
国田宏氏提供




住田コーヒー農園開墾中の国田正二
賀田金三郎研究所所蔵(国田宏氏提供)

【参考文献】
*播磨憲治 日本統治時代の花蓮を変えた男 台湾農業改革の父 国田正二




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