東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 花蓮の歴史を語る上で忘れてはいけない人物 国田正二(上) 【花蓮縣瑞穂郷】

 今日からは瑞穂郷についてご案内させて頂きますが、その前に、花蓮の歴史を語る上で、賀田金三郎以外に忘れてはいねかい日本人がもう一人います。

その人の名は、国田正二さん。この方の名前をご存知の方はかなりの台湾通、花蓮通と言えるでしょう。彼の存在無くして、日本統治時代の花蓮の農業、戦後の日本と花蓮の農業交流語れないと言っても過言ではないでしょう。

国田正二は、明治22年(1889年)23日、鳥取県東伯郡羽合町橋津(現在湯梨浜町)で生まれました。倉吉農業高校を卒業後、家業の酒造業と果樹園に従事したのです。國田家は代々、造り酒屋で、江戸時代「菊一」というお酒を造っていました。

「国田」という苗字は、鳥取藩主から拝命された名前で、もとは國吉屋と呼ばれていました。当時、藩主から苗字を拝命できたという事から、地元の豪族であったと推測されます。今でも国田の本家には、鳥取藩に出向くときの籠や、当時の墨で書かれた沢山の帳簿が残されています。また、富吉の時代が最も繁栄していた様で、富吉は家業の酒造業以外にも、明治29年12月21日、「東伯郡橋津村大字橋津村145番地」に資本金は3200円で、社員35名の「橋津食塩合資会」を設置しました。役員に、取締役5名・監査役3名を置いて、取締役の互選で専務取締役1名を会社の代表者として選任しています。創業総会において、専務取締役に関本甚平、取締役に福永民三郎・今市九平・梅原久治郎・奥田庄吉・監査役に戸崎喜三郎・国田豊吉・横瀬増蔵を選定し、同年12月26日倉吉区裁判処橋津出張所に申請し登記を受けています。会社の営業は食塩の販売を目的とし、協議により、委託販売、金銭貸付の業務を営むことを定めています。

後に、国田正二が家族を連れて橋津に帰省すると、赤い毛氈を引いた船に乗り橋津川を上り、東郷池か倉吉の方に会食に行ったそうだ。

また、若い頃の国田は何事にも豪快さを発揮していた。ある時、お金がなく、でも、倉敷まで遊びに行きたいと思った国田は、父親の眼を盗み、荷車に酒樽を幾つも積んで倉敷で豪遊していた。酒が飲めなかった国田は、自分は大福もちを食べながら仲間に家から持って来た酒を振る舞い、大福もちで酔いながら、仲間と一緒になって豪遊した。もちろん、家に戻った国田を待っていたのは父、豊吉のカミナリであった。

富吉の時代、国田家は大変繁栄していたが、決して良いことばかりではなかった。明治26年に当時の鳥取県東伯郡羽合町を襲った台風により天神川が氾濫した。当時の災害記録によると、10月10日(旧暦9月1日)は晴天で風もなかったが、11日未明より雨が降り出し、以後やむことなく、13日まで3昼夜降り続きました。人々がみな不吉な予感を抱くうち、13日(旧暦9月4日)から大雨となり、これに加えて北風が強く吹きだし、14日にはついに暴風雨となり、危険で屋外に出ることさえできず、人々は暗い家の中で雨にぬれた衣服をまとい、まんじりともせず時を過したそうです。

同日午前11時頃には、天神川の水量はまたたくうちに堤防7歩通りまで増水し、新田、大塚両村地内天神川東側堤防を破壊、午後3時頃になって、天神橋も墜(お)ちてしまいました。夜9時半頃になり、田後村の南方堤防2か所延長70間ばかりが決壊。西よりに変わった風も加わって、濁流は田後村にどっと押入った。折から竹田川筋西郷村大字八屋村前の籔土手およそ240間余りが崩壊。栗尾川の氾濫による水に合流した河水は、八屋、伊木を経て日下村に流出し、天神川東岸一帯は湖と化していました。両方面の水が合して東郷湖方面に向い、羽合平野はたちまち一大河川の如くになりました。

橋津村中原与平は、「中原家史」に、この洪水の実況を次のように記しています。

「十月未曾有之洪水アリ(中略)此時既ニ雨水外套ヲ透シ衣服濡レ総身之寒気堪エ難ク 燈消又點ス可ラス帰途国田ヲ訪ヒ點火ス此時既ニ全家正ニ浸水セントス 夫ヨリ奨恵社ヲ視ルハ八軒家ヨリ流水 小猿井戸近傍徒歩ニ苦シム 国田横道ハ急流之小川ト変ジ居タリ 社内巡視了リ至ル米倉前既ニ浸水セリ 下僕ニ命ジ味噌倉地上ノ諸物件ヲ出セシム時正ニ午後十二時也此落橋続テ国田裏門倉流失ス」

この記録からもわかるように、国田家の酒蔵は半分以上が流失してしまったのです。

後に富吉は、「海の波は最低3回は来る、大きい波が最初の時もあるし、小さい波が最初に来るときもある、必ず3回はくる、だから良いことでも、悪いことでも、その規模はともかく3回来ると思っていた方がいい」と言い残しています。

如何なる困難にも負けず、果敢に立ち向かい、常に前向きで努力を惜しまなかった富吉。そんな父の背中を見て育った国田正二は、いつしか自分も国家のため、故郷のために役に立てる人間になりたいと思うようになった。

丁度その頃、時は大正元年から2年に、国田は川向の集落に住む「すへ」と出会い、恋に落ちた。当時としては珍しい大恋愛の末、しかも、何と、出来ちゃった婚だったのです。

そのため、結婚当初は「すへ」への風当たりも強かったようだが、二人の愛はそれに勝っており、さらに、すへは夫である正二に恥をかかせまいと懸命に努力をし、その結果、姑が「今後は、すべてをすへに任せます」と宣言するほどでした。

大正2年(1913年)には、長男の一夫が無事に誕生しました。しかし、国田は、家業を継ぐことはありませんでした。彼は、現状にだけ満足するという事を嫌い、国家、郷土のためにも、海外へ出て働きたいと思ったのです。そして、大正2年(1913年)、国田24歳の時、台湾台中廳の農会技師として台湾へ渡りました。国田は、「蓬萊米の父」とも言われる磯 永吉博士の右腕として、農業改革、特に、米の改良に打ち込みました。そして、1926年、それまでの台湾米と日本米とを交配して「蓬莱米」を完成させたのです。

磯永吉博士は、1886年に広島に生まれ、1911年日本東北帝国大学農科(現、北海道大学)を卒業し、1912年台湾總督府農事試驗場に着任、台湾稲作改良事業に打ち込んだ人物です。

当時、熱帯、亜熱帯気候地域の台湾で日本型の稲作を定着させることは困難を極めていました。当初はすべてが失敗に終わったそうです。しかし、改良を重ね、完成したのが、「蓬莱米」でした。蓬莱米は、後に、皇室へ献上されるお米となったのです。その国家的プロジェクトの中心人物であった磯永吉博士の右腕が国田正二だったのです。

国田は、7年間、台湾の農業発展に情熱を尽くしました。その後、義弟の門田勘太郎(カナダの造船・木材界のドンと呼ばれた実業家)の勧めで、アメリカへ渡り、製材工場で勤労の汗を流し、富を築いていきました。

大正12年(1923年)91115832秒に発生した関東大震災の際には、日本人会幹部として「祖国の不幸は、何としでも救済しよう」と提唱、300ドルを大使館に送ったのです。国田の愛国心、同胞愛を感じることのできる行動だと思います。

ここで少し、国田が滞在していた当時のアメリカについて簡単に説明をしておきましょう。正二は、アメリカ滞在中に日本人排除運動に遭遇し、正二達日本人労働者は大変な差別にあったのです。アメリカにおけるアジア系移民の流入は1848年のゴールドラッシュからはじまりました。多くの中国系肉体労働者がカリフォルニア州を中心に鉱山労働や鉄道建設に従事し、アイルランド系移民をはじめとする白人貧困労働者との対立・抗争は1870年代に早くも記録が残されています。

一方で1870年制定のアメリカ連邦移民・帰化法は「自由なる白人およびアフリカ人ならびにその子孫たる外国人」が帰化可能であるとしていました。ここで言う「自由なる白人 (free white)」が指すものは当初は明確ではなかったものの、判例の積み重ねなどでそれは「コーカサス人種 (Caucasian)」であるとされていました。

中国系に関しては、1875年のen:Page Act of 1875で既に制限が行われていましたが、1882年のいわゆる中国人排斥法で明示的に移民が禁止されることになりました。(当初10年間の時限措置だったが後に延長がなされた)。

日本人の場合、ハワイへの移民は明治時代初頭から見られ、やがてアメリカ大陸本土への移民も盛んとなってきました。日本から直接渡航する場合もあったが、多くの者は入国しやすくまた日系人コミュニティーがすでに存在していたハワイ諸島やカナダ・メキシコをベースとして、ハワイ併合などにより機を見ては西海岸各都市に渡航していたようです。移民した日系人たちは勤勉で、粘り強く仕事をこなし、ある程度の成功を掴む者も現れました。

大部分は白人の下働きなど、低廉な賃金の労働に従事していましたが、従順に働くことから逆に周囲からの反感を買い、日本人漁業禁止令や児童の修学拒否など、数々の排日運動が起こったのです。

さらにアメリカ人から見た日本人は、「日系人だけで閉鎖的コミュニティーを形成し地域に溶け込まない」、「稼いだ金は日本の家族に送金してしまう」などと見られていたのも排日運動が起こった原因の一つとも言われています。

一方、移民たちにすれば、まとまって暮らすことには、言葉の問題や習慣の違いによる現実的理由のほか、迫りくる反日感情からわが身を守るための手段でもあったのです。また、現実にアメリカ市民権の取得には熱心ではない人が多く、合衆国への忠誠を誓わないなど、排斥される理由はあった様です。

それでも、日本人はアジア諸民族の中で唯一、連邦移民・帰化法による移民全面停止を蒙らなかった民族でした。これは日本が同地域で当時唯一、欧米諸国と対等の外交関係を構築し得る「文明化が進んだ」国であり、アメリカ連邦政府も日本の体面維持に協力的であったことによるものです。しかし連邦政府はその管掌である移民・帰化のコントロールは可能でも、州以下レベルで行われる諸規制に対しては限定的な影響力しか行使できなかったのです。

こうした連邦レベル以下での排斥行動が典型的に現れたのが1906年、サンフランシスコ市の日本人学童隔離問題でした。同年の大地震で多くの校舎が損傷を受け、学校が過密化していることを口実に、市当局は公立学校に通学する日本人学童(総数わずか100人程度)に、東洋人学校への転校を命じたのです。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領の異例とも言える干渉により翌1907年撤回されましたが、その交換条件としてハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至ったのです。

この背景としては、日露戦争に伴ってアメリカが外債の消化や平和交渉など日本を影から支援したにも関わらず、日本が門戸開放政策を行わなかったことへの不満も挙げられる。

日本政府もここへきてやっと危機感をもつ様になりました。為政者にとって在米日本人の問題は、すでに植民地経営が開始されていた台湾、朝鮮、日露戦争により進出の基盤を得た満州ほどの重要性はありませんでしたが、大国としての矜持から、他のアジア系民族と同列に連邦移民・帰化法規を適用されることは避けたいと思っていた様です。

こうして1908年、林董外務大臣とオブライエン駐日大使との間で一連の「日米紳士協定」が締結され、米国への移民は日本政府によって自主的制限がされることとなったのです。この協定により旅券発行が停止されたのは主として労働にのみ従事する渡航者であり、引き続き渡航が可能だったのは一般観光客、学生および米国既在留者の家族でした。この紳士協定による自主規制の結果として以後10年ほど日本人移民の純増数(新規渡米者-帰国者)はほぼ横ばいに転じました。

紳士協定の「米国既在留者の家族は渡航可能」という抜け道を活用する形でこの頃盛んとなったのが「写真結婚」による日本人女性の渡米です。米国既在留者は男性独身者の比率が高く、若い女性の「需要」は高かったのです。そこで彼らの出身地の親戚や縁故との間で写真や手紙だけを取り交わして縁談を成立させ、花嫁が旅券発給を受けて入国したのですが、「お見合結婚」の習慣のないアメリカ人にとってこの形態は奇異であり、カリフォルニア州を中心として非道徳的として攻撃されました。背景には、独身日系人男性が結婚をし、妻帯者となり、やがて子供も生まれることで(出生児は自動的にアメリカ市民権を得る)日系人コミュニティーがより一層発展、定着することへの危機感があったのだと考えられます。結局、写真結婚による渡米は日本政府により1920年禁止されることになりました。

一方「単純労働者から脱却し定着を図る日系人」への警戒感は、その土地利用への制限となって具現化していきました。1913年カリフォルニア州ではいわゆる外国人土地法が成立、移民・帰化法でいうところの「帰化不能外国人」の土地所有が禁止されました。法人組織を通じて土地を購入する、あるいはアメリカで誕生した自分の子供(前述の如くアメリカ市民権を得ている)に土地を所有させ、自らはその後見人となり、更に子供から土地を賃借する、など様々の脱法的土地利用方法が駆使されましたが、1921年の土地法改正により、これらの法的な抜け道はすべて否定されるに至ったのです。

なお、アメリカ全土でみると、移民排外主義は白人中のいわゆるWASPを中心とした層に支持者が多かったが、西海岸諸州においては、東部から中西部ではむしろ被差別の対象で、且つ日系人と職をめぐって競合していた南欧・東欧出身の下層労働者ら(特にイタリア系貧困労働者)が排日運動において積極的役割を果たしたことが特徴的でした。

さまざまな圧迫の中で、1920年にはアメリカ全土で約12万人、カリフォルニア州で7万人(州総人口の2%)の日系人が生活していました。

以上のように、アメリカにおける日本人(日系人)の移民活動は紳士協定に基づいた日本の自主規制と州レベルでの排斥活動の間で微妙なバランスを保ちつつ進行していましたが、1924年には、いわゆる排日移民法が米国連邦議会で審議され成立することで大転換を迎えたのです。

1921年、アメリカ連邦議会は移民割当法と通称される法案を成立させていました。同法では、1910年国勢調査における各国別生まれの居住者数を算出、以後の移民はその割合に比例した数でのみ認められるというものでした。しかし、1910年という基準年次は、すでに南欧・東欧系の大量移民が始まった後であるために彼らにとって有利だという不満が高まり、基準年次を南欧・東欧系移民が未だ少数だった1890年に後退させる改正案が急浮上したのです。

南欧・東欧系移民に不満を抱いた人々の中には、マディソン・グラント(「偉大な人種の消滅 "The Passing of the Great Race"」の著者)らに影響された、北方人種こそ人類文明のほぼすべてを築いた優れた人種だとするノルディキスト(北方主義者)が含まれていました。グラントは合衆国政府にもアドバイザーとして招かれ、合衆国を栄えさせるには、コーカソイドの中でも北方人種である北欧諸国人とドイツ人・イギリス人・アイルランド人については移民制限を弱めて移民を奨励する一方で、中欧・東欧のアルプス人種や地中海周辺の地中海人種については制限を強化し、黒人や黄色人種などの有色人種は一切移民させないことが肝要だと主張していました。グラントの主張はカルビン・クーリッジ大統領にも強い影響を与えたのです。また、1890年代に東欧系移民が増えた原因は、ユダヤ人がロシア帝国のポグロムを逃れたことにあり、以後の東欧系移民もユダヤ人が多いため、反ユダヤ感情も東欧系移民制限論の背景にはあった様です。

1924年の移民・帰化法改正はこのような背景でまず下院で提起され、そこには排日といった要素はもともと含まれていませんでした。仮に1890年基準年次をとった場合日本の移民割当数は年間146人となるはずでした。 ところが反東洋系色の強いカリフォルニア州選出下院議員の手によって「帰化不能外国人の移民全面禁止」を定める第13C項が追加される。「帰化不能外国人種」でありながらこの当時移民を行っていたのは大部分日本人だったため、この条項が日本人をターゲットにするものであるのは疑いようもない事実です。

この様な日本人にとっては大変住みにくい環境となっていったのが、当時のアメリカだったのです。

丁度、その頃に、同じ様に差別を受けていた黒人労働者から国田が教えてもらった歌が「Amazing Grace」で、日本帰国後も孫たちに歌って聞かせたそうです。

大正13年(1924年)、国田は日本へ帰国。翌年、倉敷農業高校の先輩であった、磯江静氏より三顧の礼をもって、再度、台湾行きを進められた国田は、台湾花蓮港廳農務課に勤務し、農業政策業務に従事しました。特に、明治43年(1910年)に開村した国営日本人移民村・吉野村の稲作指導にあたり、吉野米はさらに品質が向上、遂には、昭和3年(1928年)1110日、京都御所において行われた昭和天皇の即位の大礼(御大典)の際の献納米として献上されたのです。(つづく)


國田正次・すへ夫婦
賀田金三郎研究所所蔵

國田豊吉が造っていた菊一の紋章



【参考資料】

*鳥取県湯梨浜町のホームページ資料より

*新田村足羽東蔵洪水実録

*播磨憲治 日本統治時代の花蓮を変えた男 台湾農業改革の父 国田正二
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E8%8A%B1%E8%93%AE%E3%82%92%E5%A4%89%E3%81%88%E3%81%9F%E7%94%B7-%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E6%94%B9%E9%9D%A9%E3%81%AE%E7%88%B6-%E5%9B%BD%E7%94%B0%E6%AD%A3%E4%BA%8C-%E2%88%9Ebooks-%E3%83%A0%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%B0%E7%A4%BE/dp/4815001227/ref=sr_1_3?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=1MGBZYD2B8U17&dib=eyJ2IjoiMSJ9.Q78D8PVxAdEBx3uiCPsXNXDsdKilzSG6tMCmS7HnCIa1a7lvcaRESCH-zSHiQTZxxpv0jAyzecGZySrOZOqjbA.jmQYqYuC1dBiOTk9Ord36f_f7_D_Z4LhJuZ867QriUc&dib_tag=se&keywords=%E6%92%AD%E7%A3%A8%E6%86%B2%E6%B2%BB&qid=1730451615&sprefix=%E6%92%AD%E7%A3%A8%E6%86%B2%E6%B2%BB%2Caps%2C172&sr=8-3

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