東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 光復糖廠、上大和飛行場跡、馬太鞍湿地生態園区、大農大富平地森林園区 【花蓮縣光復郷】
【光復糖廠】
光復糖廠は台糖公司の元製糖工場だった場所です。歴史は古く、日本時代に「鹽水港製糖株式会社・大和工場」として1921年に設立しました。戦後は、台糖公司に接収され、光復糖廠(別名、花蓮糖廠)と改名し、引き続き製糖が行なわれていました。しかし、2002年、国際糖価格の長期低迷期に入り、打撃を受けた光復糖廠。そこへ追い打ちをかけるように、台湾のWTO加盟が影響し、ついに、80年余りの歴史に幕を閉じる事となりました。
製糖工場は閉鎖され、観光施設として生まれ変わったのが、今の光復糖廠です。
ここの名物は多種類のアイスクリーム。その種類は多く、日本ではなかなかお目にかかれないアイスクリームや日本では高額のアイスクリームが驚くほどの安価で食べることができます。園内には当時活躍していた蒸気機関車や、気動車が展示されています。工場附近には日本時代の宿舎が残っており、最近になり、復元改装され、民宿として活用はされています。
元々、花蓮の地にサトウキビの栽培、製糖というものを持ち込んだのは花蓮開拓の父である賀田金三郎氏です。賀田製糖場が後の鹽水港製糖壽工場、大和工場へと繋がり、今の台糖公司へとつながっているのです。
【上大和飛行場跡】
昭和18年、当時の上大和村に、臨時の日本空軍飛行場が建設された。この飛行場からも特攻隊が出撃しています。
当時、日本軍は村全体から「勤労奉仕」を徴集し、「宮岡国民學校」(現、光復郷光復國小)、富田国民學校(現、太巴塱國小)の小学生全員が飛行場建設に従事しました。
敵機が来た際には、ゼロ戦を格納庫まで押して、爆撃を逃れたり、また、竹を使って、偽物の高射砲を作り、敵機の目をくらませました。多い日は、この飛行場から6機の特攻機が飛んで行ったそうです。
2015年4月に、その飛行場跡に、光復郷大全社區発展協会の皆さんの手によって、機堡公園に、廃品を使って当時のゼロ戦の1/4の大きさの模型を製作、さらに、当時造られた、偽物の高射砲も製作し、展示されました。残念なことに、ここにも高齢化の波が押し寄せており、その後、管理、修復する人がおらず、いつの間にか消滅してしまいました。
決して忘れてはいけない戦争の記憶。日本では戦争を負の遺産として、学校教育でも、家庭でもほとんど触れずに避けている様に感じます。しかし、事実は事実としてきちんと見つめ、そして風化させる事のないように、若者達と当時の事を覚えている高齢者の方々とが一緒になって、次の世代へと形として残す取組は見習うべきものがあると感じます。
その時代を駆け抜けていった大勢の日本、台湾の若者。彼らの生きた証をきちんと残し、伝承する事が、今を生かされている者達の責務ではないでしょうか。
【馬太鞍湿地生態園区】
花蓮県光復郷馬錫山の麓に天然の湧き水が流れる総面積12ヘクタールにも及ぶ湿地帯があります。
1991年、花蓮県農会は、県の花である蓮の花の栽培を開始し、ここ10数年の間で、栽培地域は徐々に広がり、今では毎年5月から8月になると、一面蓮の花が咲き誇る場所となりました。
馬太鞍湿地生態園区にはたくさんの生物が棲息しており、百種類以上の水棲動物が棲息していると言われています。これは、渓流の速さと深さの変化が多様な生態環境を生みだしているからです。
ここは以前、馬太鞍集落の阿美族が暮らしていた場所です。阿美族はここで独特な漁法「Palakaw」を生み出しました。これは竹やサルスベリの幹、ヒカゲヘゴの幹などを用いて作った箱で三層になっています。これを池の中に入れておくと、サルスベリやヒカゲヘゴの幹が水面に現れ、幹を登ってきた小エビや田ウナギ、ウナギ、ナマズなどが三角形の魚網へと入るという仕掛けになっています。
併設されているレストランでは珍しい阿美族の料理を食す事ができます。新鮮な魚介類のほか、樹豆の豆やパンの樹の果実、野生ニガウリ、ナンバンキカラスウリ、トウの芯、ビンロウ樹の花と実、箭竹筍、水芹、葛仙米、西洋菜、など、日本ではなかなか食べる事の出来ない料理が揃っています。また、忘れてはいけないのが、炊きたての紅もち米に新鮮な呉郭魚の塩焼きがあります。
最後は展望台に登り、馬太鞍湿地生態園区の全景をお楽しみください。
【大農大富平地森林園区】
大農大富平地森林園区は、台湾初の平地に広がる森林園区となっています。その敷地面積は敷地面積1250ヘクタールにも及び、西に中央山脈、東に海岸山脈が連なる場所に位置しています。元々は台湾製糖のサトウキビ畑の休耕田で、12年間の植林を経て、今では20種類以上の木々が100万本以上生い茂り、素晴らしい森になりました。
毎年、元旦と春節の期間中、アフリカインホウセンカ、ベゴニア・センパフローレンス、サルビアなど、約20万本の草花が植えられます。また、約3ヘクタールの菜の花の花海も見ごたえがあります。
園内には15kmのサイクリングコースもあり、森林浴を楽しいながらサイクリングが出来ます。
【歴史の生き証人】
☆陳鐵さんの証言(当時85歳)2015年5月インタビュー
「日本軍の空港はもともと耕作地や荒れ地で、幅200メートル、長さ1.5メートルだった。現在の大全から大興までの全長5キロ、幅36メートルが滑走路で、当時全郷を動員して凸凹の土地を整地するために土石を運び、その後、花蓮渓(川)まで均一な大きさの砂利を拾いに行きました。牛車でそれを空港まで運びに、空港の滑走路全体に小石を撒きました。
空港を建設するには、それぞれ数トンの重さの巨大な「石の車輪(コンクリート製のローラー)」を5頭の牛が引き、砂利で覆われた滑走路を繰り返し押し固め、平らにしていきました。大全村の北側には花蓮製糖工場があり、原料となるサトウキビを運ぶ牛車が必要であるため、各家庭で牛を飼っていました。村人たちは無給で働かされたが、石の車輪を引く水牛には1日9円の給料が支払われ、1カ月で200円以上稼げたよ。」と語ってくださいました。
☆葉仁炎さんの証言(当時83歳)2015年5月インタビュー
「私は宮岡国民小学校5年生の時に日本国から勤務兵として徴兵されました。この勤務兵と言うのは、正式な軍人登録はされず、主に、勤労奉仕をすることが目的でした。私の当時の仕事は、戦闘機を隠すためのバンカー(塹壕)を掘る事でした。上大和飛行場には3つのバンカーがありました。
光復郷大興村の山側には、塹壕に加えて、戦闘機用塹壕がありましたが、何故、山側に作ったかと言えば、大興村の清水渓谷は山地で、北には鎮平山、南には嘉羅蘭山があり、爆撃のために低空飛行しようとするアメリカの戦闘機はここでは方向転換できず、さらに、山に衝突する危険性があったからです。敵機が来ると、まず、私たちは日本軍の戦闘機をこの山側まで数キロ押していく必要があり、これが一番キツイ仕事でした。
しかし、自分は日本軍の一員としてお国のお役に立てていると思うと、いつも誇らしい気持ちでいっぱいで、早く正式な兵隊として認められ、戦地で戦いたいと思い続けていました。」と語ってくださいました。
*光復糖廠:花蓮県光復郷大進村糖廠街19號
*機堡公園:光復郷大全村
*馬太鞍湿地生態園区:花蓮県光復郷大全村大全街42巷15号
*大農大富平地森林園区:花蓮県光復郷農場路31号
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