東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 壽(型)尋常(国民)小学校跡と奉安殿跡、鹽水港製糖壽工場と日本人官舎【花蓮縣壽豐郷】

 【壽(賀田)尋常(国民)小学校跡と奉安殿跡】

 日本統治時代、台湾の学校には必ず、奉安殿という建物がありました。建物が建てられない場合は、大型の金庫が奉安殿の代わりをしていました。奉安殿とは、天皇陛下のお写真と教育勅語を保管しておくための建物です。校舎が木造だった頃、奉安殿は、コンクリート造りであったことから、如何に当時は大切にされていたかがわかります。

現在、台湾に現存する奉安殿は、台南市の旧新化小学校奉安殿、苗栗の建中国民小学(旧三叉公学校)奉安殿の2箇所とされています。しかし、ここ花蓮にも当時の奉安殿が一部姿を変えて残されているのです。

旧壽尋常小学校の奉安殿。現在は、福徳祠として地元の人達に大切にお祀りをされています。

福徳祠の前の鉄門には今も日本国紋章である「五七の桐」の紋章がそのまま残されています。この紋章は、日本統治時代、奉安殿の鉄門には必ずついていたもの。

戦後、蒋介石は台湾に残されている日本色を一掃するために、神社仏閣の取り壊し、地名の変更などを強行に行ってきました。そのような時代の中で、この奉安殿が残されていたことは、奇跡に近い事で、これもまた、地元の方々のお心があったからだと思います。

戦後、壽公学校、壽小学校は壽豐国小と姿を変え、奉安殿も放置されたままとなり、一時は荒れ果てていた。しかし、地元の人達が統治時代に日本人が作ってくれた壽工場のおかげで自分達の生活が安定したという事に対する感謝の気持ちを現すために、また、素晴らしい日本教育のおかげで自分達は守られたという感謝の気持ちを現すために、奉安殿を修復、今度は地域を守ってくれる土地公廟(福徳正神)をお祀りし、建物を残したのでした。

さて、この奉安殿があった、花蓮郡壽尋常高等小學校(原名:賀田尋常高等小學校)の今はどうなっているのかというと、残念ながら、その姿を見る事はもう出来なくなっています。

この学校には日本人と日本名に改名した人が通学する事を許されていました。

同校は、大正3年(1914年)に開校しました。開校当時は、賀田尋常高等小学校と言われており、初代の校長は、藤村 正次郎氏(岩手県出身)でした。

終戦後、廃校となり、校舎は姿を消してしまいました。福徳祠の前の広場に出て、左手を見ると、わずかですが、当時の校舎の基礎部分のみが残っています。ここには、講堂が建っていました。講堂から渡り廊下を通って(現在、道路になっている部分に渡り廊下がありました)、すぐが職員室、その隣が教室になっていました。多い時で120名の子供達がここで学んでいたのです。しかし、現在、付近の土地整備が始まり、残されていた講堂の基礎部分も一部壊されてしまいました。

ここに数十年前まで、子供達が元気に走り回っていた学校があったのかと思うと、感慨深いものがあります。

 

【鹽水港製糖壽工場と日本人官舎跡】

 1899年(明治32年)、賀田組拓殖部によって始まった花蓮の開拓。

賀田組社長の賀田金三郎氏は、1904年(明治37年)に賀田農場(現在の東華大学)を作り、サトウキビの栽培を始めた。同時に、花蓮県壽豐郷呉全に「賀田製糖所」を立ち上げ、台湾で初めての製糖業がスタートしました。当時では最新の機械を導入し、大量生産を可能とした。その結果、台湾シュガーは世界へと広まったのであったのです。

その後、1910年(明治43年)に賀田農場は台東拓殖合資会社となり、1912年(大正元年)には台東拓殖製糖株式会社へと組織変更が行われました。そして、翌年、1913年(大正2年)に同社の壽工場が完成しました。翌年には、鹽水港製糖株式会社となり、花蓮の地で、製糖を行っていました。(後に、大和工場も完成(現在の光復糖廠))

しかし、第二次世界大戦の際、アメリカ軍からの空爆により壽工場は大きな被害を受けたのです。何故、アメリカ軍が製糖工場を空爆目標にしたかと言えば、製糖の工程で、アルコールが精製されます。このアルコールを使ってゼロ戦の燃料にするという実験を行っていました。その情報を掴んだアメリカ軍は、花蓮の二つの製糖工場に対し、集中爆撃を行ったのです。

戦後、被害の大きかった壽工場は戦後、取り壊しが決定されました。宿舎はそのまま残されましたが、漏電による火災で焼失してしまいました。現在は、宿舎の中で特に立派な建物が復元され、「花蓮農場」と呼ばれています。建物は、民宿として使われており、普段は、一般公開はされていません。実はこの建物、地元では、壽糖廠的廠長宿舍と言われていますが、2015年、筆者が湾生の方の里帰りのご案内をさせて頂いた、伊是名秀良さん(壽工場日本人官舎にお住まいでした)の証言では、この官舎は、「新福軍医」がお住まいになっていた官舎だったのです。壽糖廠的廠長宿舍はその隣にあったとの証言を得ています。

最近では、宿舎跡に新しい建物が建ち、今まで残されていた宿舎の基礎部分や一部建屋跡も姿を消しています。

その工事の過程で、それまでは東台湾では家の屋根にはセメント製の瓦しか使用されていないと認識して筆者でしたが、日本と同じ焼き物の瓦が発見されました。工事関係者によると、基礎工事を行うために掘り起こしたところ出てきたという事でしたが、廃棄物として処理するという事でした。

丁度、屋根の頂点部分に使用する瓦で、冠瓦(かんかわら)と呼ばれる瓦です。接合部分はセメントで固めてありました。やはり、台風の多い花蓮。風で瓦が飛ばされないようにするための策だったと想像できます。

壽工場の完成により周辺は一気に活気付いた。まず、当時の壽駅(現在の壽豊駅)を基点として、日本人宿舎(宿舎敷地内には、病院、会館、福利社(従業員専用のスーパー)、武器庫があった)、台湾人宿舎、製糖工場、事務所が整備された。壽駅からは私設軽便鉄道(トロッコ)が工場経由で日本人・台湾人宿舎の間を走っていました。(伊是名秀良さんの証言より)

壽工場では1923年(大正11年)の段階で、日本人職員32名、台湾人職員2名、製造部門日本人工員70名、台湾人66名、原住民13名が働いていました。実はこの従業員の数は、後に、完成した大和工場(現在の光復糖廠)よりも84名も多かったのです。(鹽水港製糖 花蓮港廳下に於ける糖業沿革概要より)

また、製糖量は、大正2年の創業時、サトウキビ収穫量が約2万トン、製糖量が約1900トンであったのが、1939年(昭和14年)には、サトウキビ収穫量が約11万トン、製糖量が約16000万トンにまで成長しました。(台湾総督府殖産局糖務課 台湾糖業統計より:尚、原本の単位は「斤」(約600g)であったため、現在の数値単位に換算)

先にも記しましたが、日本人宿舎内には武器庫がありました。これは今も残されています。壽尋常小学校跡から日本人宿舎跡へ向かって進むと、左手にかまぼこ型の少し変わった形の建物があります。これが武器庫で、当時は、銃や銃弾が保管されていました。原住民からの襲撃に備えてというのが始まりで、後に、第二次世界大戦の際、空襲に備えてという事で使用されていたようです。

 

【歴史の生き証人】

 ☆沖縄県出身の伊是名 秀良さん(昭和8年生)のお話し。

 「私は壽小学校に通っていました。今回(2015年)、70年ぶりに故郷の花蓮壽村へ帰ってきました。周りの様子はすっかり変わってしまいましたが、山は変わっていません。

私の家は、壽小学校から徒歩3分ほどの鹽水港製糖壽工場日本人官舎でした。小学校は官舎からまっすぐ一本道。正門の前は3段ほどの階段がありました。

毎朝、校長先生が奉安殿から教育勅語を持って来られ、講堂で全校生徒が唱和していました。

夏にはお祭りがあり、子供神輿がでます。小学校から出発して、官舎の前を通り、壽工場内を通って、最後は、壽神社まで一日がかりで神輿を担ぎました。沿道にはその時だけ灯篭がでます。

私の父は、塩水港製糖工場の電気部に勤務しておりました。妹と弟は花蓮で生まれました。私が10歳の時、父が病気で台湾で亡くなりました。その後母は、私達三人の子供たちを連れて沖縄の久米島に身を寄せていましたが、戦争が激しくなり、再び台湾に疎開しました。その母も終戦を迎え沖縄に引き揚げる直前に台湾で病気で亡くなり、親戚の方と共に、兄弟3人で沖縄に引き揚げました。

子供のころの楽しみは、近くを走る台湾鉄道の貨車から落ちるサトウキビを拾い、おやつにすること。また、夏には川で泳いだり、山の中の湖(鯉魚潭)で魚釣りやキャンプをして楽しみました。学校も官舎も工場も姿を消してしまいましたが、私の記憶の中には鮮明に残っています。」

 

沖縄県出身の城間 ルミ子さん(昭和11年生)のお話し(上述、伊是名秀良さんの妹さん)

 「今回、兄と娘たちと一緒に、生まれ故郷に里帰り出来た事、本当にうれしく思っています。兄と一緒に通った壽小学校、校舎はもうありませんが、私には母校です。

父親の会社の社宅は、一階平家で5世帯が1棟で56棟くらいありました。家の近所には、豆腐屋さんがあり、夕方になると母に言われて兄と一緒に買いに行きました。日本人用の映画館があり、父親の会社行事やお葬式もその映画館で行っていました。

丁度、ここが私の家があった場所です。(基礎部分が僅かに残っていたところを指さしながら)今も鮮明に私の記憶の中に残っています。

冬になると、山族(山に住む原住民)が青いバナナを背中に背負って売りにきていました。顔にはイレズミをしていて、中には赤ちゃんを、おんぶしている人もいたので、母は、私達が小さい頃着ていた着物やオシメなどのお古を譲っていました。

昔は冬になると社宅から見える山の頂上付近に雪が積もっていました。山の景色は今も昔も変わらない。あの山々が私達の子供時代をずっと見ていてくれたのですね。」と最後は涙を流しながら語ってくださいました。


壽尋常小学校
國家文化記憶庫より



僅かに残されている壽小学校講堂の基礎部分



壽小学校奉安殿跡(現、福徳宮)



鹽水港製糖壽工場
國家文化記憶庫より


鹽水港製糖工場壽工場
國家文化記憶庫より岸山發行鹽水港製糖株式會社壽工場



壽工場日本人官舎の武器庫

1945年アメリカ軍空撮 壽工場 
中研院GIS中心より




今はもう姿を消した日本人官舎、伊是名邸の基礎部分


 

*壽(賀田)尋常小学校跡・同校奉安殿:台湾鉄道 壽豐駅より徒歩20分

*壽工場日本人官舎跡:花蓮縣壽豐鄉大同路2號付近一帯

 台湾鉄道 壽豐駅より徒歩15

*壽工場跡:台湾鉄道 壽豐駅より徒歩15分(共和部落付近一帯)

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