東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 第三号国営日本人移民村 林田村 【花蓮縣鳳林鎮】

花蓮の中央部付近に位置する鳳林鎮。鳳林鎮は開発が開始された当初は「馬里勿(マリバシ)」と称されていました。これはアミ語の「高台」を意味する言葉。

「鳳林」の由来は鳳林が開発される以前は森林地帯が広がり、大木に木蘭が咲く風景が鳳凰は羽根を伸ばす姿に見えたことから「鳳林」と名付けられたと言われています。

日本統治時代は、花蓮港廳鳳林郡と呼ばれ、鳳林支廳がありました。鳳林支廳は、現在の鳳林鎮・光復郷・瑞穂郷・豐濱郷・萬榮郷と広範囲にわたって管轄していたのです。

1914年(大正3年)に、元々は鹽水港製糖株式会社が開拓許可を得ていた場所を台湾総督府が受け戻し、国営日本人移民村の林田村として開村しました。花蓮は、台湾で最初に日本人移民村が出来た場所であり、1904年の台湾初の日本人移民村、賀田村(民間の移民村)に続き、国営移民村の1910年の吉野村、1913年の豊田村に続く3番目の国営移民村が林田村でした。

本書では何度も申し上げておりますが、台湾で初めて日本人移民村が出来たのが花蓮縣です。その花蓮縣の中でも、当時の貴重な資料や建造物、さらには、歴史の生き証人がいらっしゃるのが鳳林鎮。筆者も鳳林鎮に2年間住み、様々な証言を拾い上げてきました。それ故に、本書でも、鳳林鎮に関するページが増えますが、日本統治時代の庶民の生活を垣間見るためにも、是非、鳳林鎮を知って頂ければ幸いです。

日本統治時代の林田村の主力産業は煙草の葉の栽培とサトウキビ栽培でした。これは、花蓮開拓の父である賀田金三郎氏が手掛けた栽培を受け継いだものでした。

日本人移民村の大きな特徴は、まず、中心となる幹線道路を作り、その幹線道路を中心に碁盤の目に道を作っていきます。その後、家を建設するというやり方です。故に、日本人が開拓した場所は今でも碁盤の目で街が構成されています。一方、台湾人の場合は、先に家を建て、そこへ強引に道を引くため、曲がりくねった道が多いのが特徴です。

開村当時、林田村には83戸の移民達が生活をしていました。その後、移民受け入れが終了する1917年までの間に、223戸の日本人家族が生活をしていました。

主な出身地で判明しているのは、福岡56、熊本30、香川20、佐賀19、山口18、広島15、徳島5、愛媛4、東京3、新潟3、北海道18、福井15、和歌山5となっています。

村は南岡(現、大栄一村)・中野(現、大栄二村)・北林(現在も、北林という地区名は残っています)の3つの部落に分れていました。

南岡部落は、鳳林の街から最も近い位置にあり、比較的裕福な人達が数多く住んでいた部落で、世帯数は52戸、242人が住んでいました。

中野部落は、本願寺、診療所、派出所、専売局、村役場、そして小学校などが集まった地域で、村の重要な施設は集まった地でした。55戸、235人が住んでいました。

北林部落は、林田村の北の端に位置し、部落の外れには日本人墓地もありました。70戸、290人が住んでおり、3部落の中では最も世帯数、住民の多い場所でした。

開村した1914年の夏、花蓮を2個の大型台風が襲いました。3つの国営移民村である林田村も大きな被害を受けました。林田村では、7月7日午前8時30分に北風が吹き始め、10時過ぎには風雨が強まりました。移民指導所の職員は各戸に警戒を呼びかけました。午後2時に暴風雨が本格化し、布教所、倉庫、宿舎、公共浴場などが倒壊、南岡部落では27戸、中野部落では18戸、北林部落では11戸の家が倒壊しました。また、田畑にも大きな被害が発生し、防獣柵の流失、サトウキビも30%が流されました。また、田んぼの稲は全滅、野菜も壊滅状態となったのです。さらに、林田神社の本殿も傾いてしまうという甚大な被害が出ました。

翌年の1915年にも台風の直撃があり、台風が去った後、赤痢が流行。男性63人、女性54人が感染、内13名が死亡しました。

1915年の総人口は631人。死者54人という記録が残されています。この死亡者の大半は北林部落で、両親を亡くした孤児が大勢いたという記録が残されています。これにより、移民申請の解除も相次ぎ、1983人が契約を解除し、台湾を去りました。

また、当時の資料によれば、1914年から1917年の間で、最も死亡率が高かったのが林田村で、4.96%という数字が残されています。ちなみに、同じ国営移民村である吉野村の死亡率は1.63%、豊田村は2.34%となっています。

この理由については、鳳林一帯の山林でツツガムシ病患者が続出、地元では「鳳林熱」とまで呼ばれるほどでした。1914年(大正3年)6月に31名の患者が出たのをきっかけに、毎月の様に新しい患者が出たのです。

この様な困難を乗り越え、林田村は、満州の開拓に対して良き模範例として台湾総督府移民事業の誇りとまで言われる存在になっていきました。そこには、30代にして林田村をリードした玉浦重一氏の努力がありました。開村当初は、常に原住民からの襲撃という聴きにさらされながらも、玉浦氏を中心として村人が一致団結して林田村の開拓を進めていきました。玉浦氏のリーダーシップの元、信用組合の有力者であった蒲田米吉氏、横尾権七氏、さらには、衛生係員の宮本氏などの活躍により、林田村は発展を続けました。

林田村では鹽水港製糖花蓮港工場へ供給するサトウキビの栽培、専売局に供給するタバコ葉の栽培、さらには、稲作も行われていました。畜産に関しては自給自足程度で、養豚、養鶏が行われ、牛に関しては耕作用として水牛が飼育されていました。当時は耕作用として水牛が用いられていましたが、内地農村では馬を使っていたことから、林田村では馬の飼育もはじめ、フィリピン産のポニーの飼育を始めました。その後、台湾競走馬協会から10頭の馬を無償交付され、これを機に、馬の飼育が盛んに行われるようになりました。
先に述べたように、林田村ではサトウキビ、タバコ葉、稲作と肥料を必要とする機会が多く、その使用額は莫大なものでした。そこで、今までは水牛のみだったところに、馬の糞も利用し、たい肥の生産にも力を入れました。例えば、田中茂雄氏はたい肥舎を立て、水牛2頭、馬1頭を飼育し、その結果、たい肥の生産量は年間26万斤(耕地1甲半分に相当)となり、それまでのたい肥購入費を約350円節約し、1甲あたり約2,000円の粗収入を挙げるまでになりました。

この件に関しては、1941年(昭和16年)420日に東京市で開催された全日本雄辯大会(今の弁論大会)で、林田移民村出身者の森西稔氏が「馬産と米穀増産の関係性について」という演題で発表しています。

 

【今の鳳林ってどんな街?】

鳳林は、20146月に、イタリアに本部のあるCittaslow International(国際スローシティー)より台湾で初めてのスローライフシティーとして認定を受けました。

豊かな緑、澄んだ空気と水、時間がゆっくりと流れる街。それが鳳林。現代人の疲れた心身を癒してくれるのが鳳林です。田舎だったら、何もないのではないかと思われがちですが、そんなことはありません。宿泊施設、コンビニ、レストランも揃っています。

宿泊施設は、都会のそれとは違い、周りが大自然に囲まれた中に建つお宿ばかりで、朝は、小鳥たちのさえずりで目を覚ませます。お部屋も設備はきちんとしており、シティーホテルと比べても劣らない快適さを味わえます。

レストランは、客家料理、台湾料理、家庭料理、洋食とレパートリーに富んでいます。どのレストランも、豊かな自然の恵みを受け、新鮮で無農薬で育った野菜や果物を使った料理を提供してくれます。また、ご当地グルメも数多くあり、小腹が空いた時、デザートが欲しい時など、お手軽に食して頂くことが出来ます。

朝市は毎日開かれており、新鮮な無農薬野菜が安価で販売されています。また、毎週土曜日には夜市も開催されます。夜市の規模は花蓮市内の東大門夜市(東台湾最大の夜市)とは比べものにならない小さな夜市ですが、その分、ローカル色豊かな、どこか懐かしい感じの夜市となっています。

住民の60%が客家人。20%が原住民。残りが台湾人という人口構成になっていますが、高齢化が進み、年々、その人口は減少しています。

 

【歴史の生き証人】

奥野武吉さん(20187月インタビュー)

林田村中野部落で1934年(昭和9年)に林田村中野部落で生まれ、4歳の時に南岡部落へ移転、小学校5年生の時に、終戦を迎えられた、奥野武吉さんのお話しです。

「南岡部落での生活は本当に快適でした。私が小学校に入学した年から尋常小学校が国民小学校と変わりました。私は林田国民小学校に通っていました。小学校1年生から6年生と高等科1年生から2年生まで、全校生徒は120名から130名ぐらいでした。元々、中野部落は鳳林渓(川)の近くに多数家があったのですが、台風の度に洪水になるため、小学校の近くに多くの人が移転してきました。

道路の両側には水路があり、当時は水はきちんと管理されており、いつも清水が流れていました。

洗濯や風呂の水にも利用しており、家の前には利用しやすいように一段低くなった場所が設けられていました。私はここに小さな堰を作り、ザルで小魚をすくったりして遊んでいました。時にはアヒルの卵が流れてきたりもしました。

また、共同で使う上水道もあり、簡易水道も完備されていました。戦後、日本に戻り、鳳林と同じぐらいの規模の街に、まだ、水道がないことに驚きました。

村の産業は米、タバコの葉、サトウキビが主でした。米とタバコの葉は二期作で、サトウキビは穂が出たら刈り取っていました。タバコが一番お金になり、収穫期には大人達が喜んでいました。米はモミのまま貯えていました。食べる分だけを、南岡部落の中野さんの水車で精米していました。

専売局はタバコを集荷する場所で、中に円形の小さなレールがあり、台車にタバコの葉を乗せて、等級検査や計量をしていました。

中野部落には台車線(軽便鉄道)があり、牛がノロノロと台車を牽いていました。私達子供は、その台車からサトウキビ2~3本を失敬して、おやつにしていました。

各農家には牛車があり、水牛に牽かせていました。これが自家用車代わりの様なもので、畑に行くときは農具、食料、人が乗り、帰りは、収穫物も乗せて帰ります。水牛は複数匹飼育しており、子供が小学校三年生ぐらいになると水牛の世話係となります。水牛の背中に乗って、エサ場まで連れていくのです。

私の家では、鳳林渓(川)に連れていくことが多く、当時は、北側に水が流れ、南側が草地になっていました。斜めにケモノみちの様なところがあり、いつもそこから下りていくのですが、下りる時は牛の背中が斜めになり怖かったのを覚えています。帰りは上りなので、楽でした。

当時の子供達は皆、裸足で遊んでいました。家に帰るとまず、足を洗ってから家に入っていました。

各家には鶏を2030羽は飼っていましたから、卵と鶏肉には困りませんでした。昼間は放し飼いで、夜だけ小屋に入れるのですが、呼ぶと、鶏たちはちゃんと自分の家に戻ってくるのです。

野菜、果物は買ったことはありません。各自が思い思いの野菜や果物を植えており、時には、物々交換もしていました。

戦争が激しくなってきた頃には、花蓮港の街(今の花蓮市)から林田村に大勢の人が疎開してきました。我が家にも、郷土が同じ香川県だという理由だけで、二家族が突然やってきました。」

 

☆吉田寛さん (20187月インタビュー)

今は第二の故郷になっていますが、長い間、第一の故郷であった花蓮港廳鳳林郡鳳林街林田村中野30番戸の家を忘れることはありませんでした。

敗戦により日本への引き揚げが命じられ、その際に守らなければならなかったのは、一人1,000円、着物3着、布団一式、砂糖一人二升で、宝石や貴金属は持ち出し禁止でした。所有財産、土地、家屋、牛、牛車等農機具等はすべてが中華民国に接取されました。残ったのは接取財産の証明書類でした。現金はすべて農協貯金し、通帳だけを持ち帰りました。

昭和21420日に花蓮港を出て鹿児島港に向かいました。

持ち帰る着物の襟はすべて縫ってある糸をほどいておくように指示されました。宝石や貴金属、現金を隠して持ち帰るのを防ぐためだったと思います。

鳳林の駅までは小作人と弟の子守をしていた少女が牛舎に荷物を乗せて送ってくれました。二人の姿は今でも私の眼の奥に残っております。

私の家族は祖母、父母、兄弟四人(男三人、女一人)でしたが、母の体内には五か月になる弟が居ました。この弟は一人としては数えられませんでした。林田村での生活を映した写真は母と私ですべて焼いて処分しました。今になって思えば、日本へ戻ってから待ち受けている苦しい生活を母は判っており、昔を懐かしみ、自分自身の心が折れてしまうのを恐れたのではないかと思います。

昭和20年に林田国民小学校五年生であった私が知っている当時の事情をお話ししましょう。

私の父が台湾へ来たのは父が小学校三年生の頃で、入植者が原生林を切り開いて田畑にしました。一家に与えられたのは三町歩と300400坪の屋敷でした。土地は一定期間は売買出来ないことになっていました。私の家は引き揚げ時には7.5町歩の土地がありましたが、4.5町歩の土地は個人間契約書を取り交わして手に入れたものでした。

私の家で作っていた作物は、米・サトウキビ、デリス(消毒薬の原料)と家庭用の野菜類でした。残りの田畑はすべて小作人に貸しておりました。

それがいつの頃からか政府の指導によりタバコの栽培をするようになりました。小作人たちはタバコの栽培を手伝ってくれました。タバコは国有地の原野を耕して大量の堆肥を用いて育てました。下から順に葉を摘み取り、乾燥小屋の中で乾燥して、父母が一枚一枚を選別して、いくつかの等級に分けた後、専売局の職員が買い上げました。当時、アイスキャンディーが一銭か二銭に時代に、1,500円くらいの収入がありました。

タバコ作りには、自家製の堆肥の他に父が「金肥」と呼んでいた化学肥料や消毒薬、農機具類が必要でした。

花蓮から台東までの鉄道の敷設は日本の守備隊に守られながら行われました。それでも時々、高砂族(原住民)から首を切られた者がいました。

瑞穂村にも移民がいて、タバコを作っていました。そこには母の妹がいましたので、母と遊びに行ったことがあります。近くの温泉に入ったのを覚えています。

玉里から新高山(今の玉山)へ行くことが出来る山道沿いにバネタという蕃社(原住民の部落)がありました。そこに私の叔母の夫が警察官として勤務していましたので、夏休みは遊びに行くことがありました。

高山蕃(山に住む原住民)の蕃社で、酋長がいました。学校があり、警察官が学校の先生を兼ねていて、読み書き、そろばん(算数)と音楽を教えていました。蕃社の青年の一人が先生となって教えていました。生徒たちがパイナップルを作っていました。

林田村の民家から少し離れた、一面がサトウキビ畑の中の道をまわって遊んでいた時、ひょっこり数人の顔に入れ墨をした蕃人(原住民)の男女に出会う事がありました。彼らは平地蕃(平地に住む原住民)で、高山蕃(山に住む原住民)との闘いに勝って、住みやすい平地に住んでいる阿美族の子孫でした。男はまだパンツをを着けていませんでした。女は腰の周りに黒い独特の布を巻き付けていました。

日本政府は高砂族(原住民)からは税金は取らないのだと父が言っておりました。山の傍を流れるロッカイビ川には、鯉、スッポン、どんこ、川エビなど多くの魚類が住んでおり、よくエビやどんこ獲りに行きました。

サトウキビを運ぶ線路近くに広がる広大なサトウキビ畑は大部分が製糖会社の所有地で、農家から買い上げるサトウキビの値段は低く抑えられているとよく父がぼやいておりました。

 

☆徐添宏さん(2017721日取材)

花蓮縣・鳳林にお住まいの徐添宏さん(当時86歳)のお話をご紹介します。

「私は、鳳林生まれの鳳林育ちです。鳳林公学校を卒業しました。三年生の時の担任の先生は田辺先生で、とても厳しかったですが、とても人気のある先生で、生徒からは慕われていました。高等科になってからの原田先生は、台湾人を差別する発言が多く、私達台湾人の事を「チャンさん」と呼んでいました。正直、嫌な感じでした。

クラスは松組と梅組があり、松組は台湾人、梅組は阿美族の生徒でした。阿美族の生徒は、勉強を始める(学校へ入る)年齢が遅い人が多く、ほとんどが同学年ですが、年上が多かったです。彼らは体格もよく、年上なので、背の低かった私はよくイジメられました。

時々、林田国民小学校(日本人が通う学校)と鳳林公学校の間でケンカがありましたが、いつも勝つのは公学校の方でした。この時ばかりは、年上の阿美族が頼もしく見えたものです。

日本人と台湾人が遊ぶことは少なかったですが、隣近所の場合は、分け隔てなく遊んでいました。

校庭には校内神社があり、参拝していました。前を通る時は必ず一礼をして通るというのが習慣でした。

私は日本人は常に自分たちよりも上の存在だと思っていました。自分はあくまでも台湾人。日本は懐かしい国という印象です。

配給を受ける際も日本語家庭、日本名に改名した家庭は少し有利だったように記憶しています。私の家庭も日本名に改名することになり、父が私に福山宏という名前を付けてくれました。しかし、手続き途中で終戦となり、結局は、日本名を名乗ることはありませんでした。当時、徐という姓の人は皆、「福山」という苗字でした。

 戦争がはじまり、鳳林にもアメリカ軍による空襲がありました。特に、機銃掃射は怖かった。私も何度も機銃掃射に遭遇し、「こんな怖い思いはしたくない」と強く思う様になり、「絶対に軍隊にはいかない」と思いました。機銃掃射は主に、鳳林の駅に汽車が入ってくるところを狙って行われました。汽車に乗っている兵隊さんを狙ったものですが、大勢の一般人も犠牲になりました。鳳林の街にも爆弾が投下され、機銃掃射や爆弾で何人もの人が亡くなりました。私の義理の兄などは、低空飛行してきたアメリカ軍の戦闘機のパイロットの顔を見たそうです。

戦後、国民党軍がやってきました。彼らの身なりはみすぼらしい恰好をしたものが多く、足元は草履か裸足。日本軍とは全く違いました。私達は陰で国民党軍の事を「ブタ」と呼んでいました。また、彼らは素行も非常に悪く、日本人が去った後、一時、治安は本当に悪かった。後に、国民党の正規軍がやって来て、少しは改善しました。

聴くところによると、最初台湾にやって来たのは、予備軍的な連中が多かったそうです。やはり、台湾がどの様な場所か判らないので、すぐに正規軍を送り込むのは怖かったのでしょう。この点も、日本人とは精神的に全く違います。

私の兄は早稲田に進学しました。しかし、終戦を迎え、卒業することなく、台湾へ戻ってきました。兄の影響もあるのか、私は日本の文学が大好きで、今でも、夏目漱石、志賀直哉、太宰治などの全集を読んでいます。」

 今回の取材で強く印象に残った言葉は

「私は台湾人。日本は懐かしい国」という点でした。

今まで取材してきた方々の多くは「私は今でも日本人だと思っている」という方が多かっただけに、今回のお言葉は意外でした。しかし、考えてみると、それが普通なのかも知れません。台湾に生まれ、台湾人としてのアイデンティティーを忘れず、しかし、日本も好き。それが「懐かしい国」という言葉に込められている様に感じました。

 

☆林先華さん(20201月インタビュー)

花蓮県鳳林鎮在住 林先華さん(93歳)の証言

「私の祖先は台湾西部、桃園に住んでいました。当時、林という姓は二つに分かれていました。台湾の北側に住む林は商売人が多かったです。中南部に住む林はお金持ちが多かったですね。私の実家は商売をしていました。

私は鳳林で育ちました。勉強がとても好きで、鳳林からはただ一人、台湾人でありながら、日本人の通う国民小学校への通学が許されました。でも、やんちゃ坊主でしたから、国民小学校の日本人の同級生とよくケンカをして、結局、台湾人の通う、公学校へ逆戻りとなりました(笑)公学校を卒業した後、花蓮港中学校への入学が許されました。鳳林から毎日汽車で2時間かけて通学していましたが、当時、実家の商売が悪くなり、お金がなかったので、お弁当を作るお金がありませんでした。水で空腹をごまかしていましたが、それもだんだん苦しくなり、結局、3か月で花蓮港中学校を退学しました。

実家は肥料などを売っていました。商売は始めた頃はとても順調でした。アメリカが台湾からお茶を大量に仕入れており、そのお茶畑に肥料を卸していたのですが、アメリカ経済が悪化、お茶の購入がストップしてしまい、結果、肥料も売れなくなってしまったのです。

ある日、知り合いの日本人の方が「花蓮港中学校の方はどうだい」と聞いてくださったので、退学したこと、その経緯を説明したところ、「折角、勉強が出来るのに勿体ない。」と言い、私に、屏東縣の師範学校への進学を進めてくださり、その段取りをしてくださいました。私はその方のおかげで、屏東の師範学校へ進学することが出来ました。師範学校卒業後、私は教職の道に進み、25年間、校長として勤務していました。師範学校当時の同級生や教職時代の同僚はもうみんな先に旅立ってしまいました。

日本時代、花蓮は、花蓮港、鳳林、玉里と3つに分かれていましたが、鳳林が一番きれいだった。水も、空気も、自然も、本当にきれいだった。花蓮は当時から水はきれいだったが、特に、鳳林はきれいだった。それは今も変わらない。

日本時代、沢山の日本人の友達がいました。戦後、日本人は皆、日本へ帰ってしまった。とても寂しいです。」

92歳とは思えない、はっきりとした、美しい日本語でお話しくださいました。杖なしで歩かれ、車もまだ運転されています。油絵を描くことがご趣味の林さん。ご自宅にはたくさんの油絵が飾ってあります。

 

☆朱木相さん(20176月インタビュー)

花蓮縣鳳林鎮に住む朱木相さん(当時90歳)

「私は昭和3年、台湾西部の生まれです。昭和6年に家族で花蓮県鳳林に移民してきました。昭和19年、私が青年学校に通っている時、夜の訓練がありました。その際、各自が好きな歌を披露するという時間があり、私は「僕は村の乞食」という歌を歌いました。歌い終わると、松岡秀隆教官(広島県出身)が「君は男なのから、乞食の歌で楽しむようなことをしてはいけない。男たるもの、常に前を向き、前進あるのみだ」と言われた。私はこの一言で目が覚めました。人生を大きく変えるお言葉でした。

私は日本陸軍の予備兵で、飛行機の整備を担当しておりました。ある時、本部当番だった私は、飛行機を隠している防空壕へ牛肉を届けました。入口には警備兵がおり、牛肉を持ってきた旨を伝えると、奥から大尉が出てこられました。その時、初めて大尉とお会いし、緊張と驚きで震えました。

林田神社への参拝は毎月8日に行われました。日本の勝利を祈願するものでした。国民学校高等科になった時、それまでは、拝殿での参拝でしたが、高等科からは、本殿前での参拝になり、その時は本当に嬉しかったのを覚えています。宮司さんは大変優しい人でした。

元旦には誰が最初に参拝に行くかを競っていました。私たちは大晦日になると、神社の近くに陣取り、一番を狙っていました。しかし、途中で眠くなるので、道に糸を敷いて、手に結び付けました。誰かが通るとその糸が引っ張られ、慌てて起きて、神社の前へ走っていきました。また、お正月になると玄関にしめ縄が飾られますが、そのしめ縄についているミカンを拝借することが子供の頃の楽しみでした。いたずらっ子でした。

鳳林空襲は、機銃掃射は頻繁にありました。私も何度もタコツボに逃げ込みました。特に、大和工場(光復の製糖工場)を攻撃した帰りの艦載機による機銃掃射が多かったです。一度、飛行場へ向かって歩いていると艦載機がやって来ました。思わずタコツボに逃げ込みましたが、タコツボの中に、カエルがおり、驚いて、タコツボから飛び出しました。私、機銃掃射よりもカエルの方が怖かったのです。

爆撃は一回だけでした。爆弾は一旦地上に落ちるとバウンドして、木造の家を4~5軒突き破り、再び大きく上昇し、再度、地上に落ちた時に爆発しました。丁度、バウンドした爆弾が防空壕の中へと突き刺さり、そこで爆発。防空壕の中にいた4人が死亡しました。

鳳林の官庁関係の人はみんな優しい人ばかりでした。間違った事をしても、罰するよりも、その行為のどこが悪いのかをしっかりと説明してくれました。学校でも、すぐに暴力を振るう先生はいませんでした。最初はやさしく注意してくれます。その注意を無視して、再び同じ過ちを犯した時は、太鼓の練習が始まります。この太鼓の練習とは、過ちを犯した者同士が向かい合い、互いの頬を打つというものです。

日本時代は本当によかった。日本人は皆、優しく、台湾人と協力し合いながら生きていました。常に笑いのある、明るい感じがしましたね。」

 

 ☆廖高仁さん(20208月インタビュー)

「日本国の台湾人として生きていました。」

今日はこの言葉に強い衝撃を受けました。当時、日本の統治下にあった台湾。家でも学校でも、すべて日本語。もちろん、教育も日本の教育。

廖高仁さんが生まれた時、すでに、台湾は日本の統治下にありました。要するに、場所が台湾というだけで、生活環境は、日本だったのです。しかしながら、「日本国の台湾人」という気持ちが常にあった。

今まで、数多くの日本人として生きた台湾人、原住民、客家人の方々にインタビューしてきましたが、このお答えは初めてでした。それは、当時の日本人、日本国政府の考えが原因だったと思われます。

例えば、学校教育を見ても、日本人は尋常小学校(後の国民小学校)、台湾人、原住民、客家人は、公学校と通う学校も違った。教科書も国民学校と公学校では違った。

戦争がはじまり、当初は、志願兵制度だったが、この志願兵の資格は、日本人のみでした。戦争半ば以降、台湾人、原住民、客家人に対しても志願兵制度が導入されました。しかし、身分は、兵隊ではなく、軍夫と日本人とは区別していました。

戦争後期に入ると、徴兵制度が導入され、赤紙が届くようになるのですが、これも、まずは、日本人からでした。

公学校に通っていた生徒たちは、「将来は日本の兵隊さんになるのが夢であり、憧れだった」そうです。実際、台湾人志願兵を募集した際、その競争率は非常に高く、落第した人は涙を流して悔しがったそうです。

ご本人も、将来は兵隊になることが夢だったそうです。お国のために命を捧げる覚悟はあったそうです。しかし、それでもやはり、「日本国の台湾人」という気持ちだけは常にあり、台湾人としての誇りを持って、日本兵として戦うつもりだったそうです。

廖高仁さんは、「50年間の統治下で、日本は教育という方法を使って、台湾人、原住民、客家人に対し、大和魂、日本精神を教え込んだことは、如何に、日本の教育が優れていたかという証でもある。中には、日本が台湾の人たちをマインドコントロールしたのだと思う方もおられるでしょうが、私は、そうではないと思っています。何故ならば、当時は今と違い、国を愛する心、武士道というものが世間一般として、正しいことであり、常識だったからです。その常識を教育の場で教えていただけの事なのです。」と語ってくださいました。

戦後、廖高仁さんは教育者の道を歩まれ、65歳の定年を迎えるまで、教員、主任、校長と、教育一筋で生きてこられました。日本統治時代に関する書物も多数執筆されておられます。

 

林田村内
國家文化記憶庫より

鳳林支廰
國家文化記憶庫より

1942年鳳林支廰前に並ぶ日本陸軍志願兵受付の列
國家文化記憶庫より


鳳林公学校
國家文化記憶庫より

鳳林公学校の神社
國家文化記憶庫より

今も残る旧鳳林公学校内神社
(現、鳳林國民小学校)

東臺灣新聞で台湾代表として林田村出身の森西氏が
東京市弁論大会参加するという報道
國家文化記憶庫より



 

南岡地区



当時の日本人家屋の配置図


中野地域

林田村に関する詳細な地図、図面は上述の奥野武吉さん、同じく、林田村中野部落出身で、奥野さんの小学校時代のクラスメイトの吉田寛さんよりご提供いただいたものです。正に、歴史の生き証人の方々が、貴重な資料をご提供くださいました。当初はパソコンで打ち直す事も考えましたが、お二人の心のこもった資料ですので、読者の皆さんにもそれを伝えたいと思い、原本のまま掲載させて頂く事にしました。

 

 【参考資料】

*台湾総督府「台湾総督府官營移民事業報告書」 1919

*花蓮港廳「移民三村」 1928



*旧林田村

☆南岡部落:花蓮縣鳳林鎮中和路・大榮一路から大榮五路一帯

☆中野部落:花蓮縣鳳林鎮中和路・復興路から鳳林渓(川)南側一帯

☆北林部落:花蓮縣鳳林鎮復興路の鳳林渓(川)北側から清水渓(川)まで

 

台湾鉄道 鳳林駅下車 南岡部落まで徒歩30分 中野部落まで徒歩45分 

台湾鉄道 南平駅下車 北林部落まで徒歩45

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