東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 台湾初の日本人移民村 賀田村、開拓記念碑 【花蓮縣壽豐郷】
児玉源太郎台湾総督、後藤新平民生長官は、祝辰巳局長に対し、東台湾の視察を実施させ、視察を終えた祝局長からの報告内容は、「東部開墾は難問多けれど、発展すべき可能性は大いにある」というものでした。と、同時に、その報告書の中に「この開墾を実現できる人物は、賀田金三郎が最適である」と記されていたのです。
この報告内容に、児玉源太郎総督も後藤新平民政長官も驚くことはありませんでした。その理由は前章でも述べた通りですが、二人とも、この難事業を実現できる人物は賀田金三郎以外にはいないと既に確信していたのです。
鹿子木小五郎の「台東廰館内視察復命書」によると、賀田金三郎が申請した台湾東部開発の総面積は、16,464甲(約16,000ha 東京ドーム3,500個分の広さ)に及んだそうです。
賀田組は、この広大な東台湾地区の用地を利用して、製糖業以外に、製脳業、畜産業、移民事業、運輸業等々、多角経営を行っていました。
明治35年(1902年)、総督府は製糖産業奨励のため、「台湾糖業奨勵規則」*1を発布。サトウキビ栽培者に対し、苗、肥料、開墾、灌漑、排水、製糖機械器具等々の費用を総督府が援助、さらに、サトウキビ畑として無償で国有地を貸出し、事業成功後には無償で土地の所有権を与えるというものでした。
賀田金三郎は、明治32年(1899年)に総督府より許可を得た開墾地域の内、「馬黎馬憩原野(現在の壽豐・鳳林の境)」の906甲(約880ha)に関し、「官有林野豫約賣渡規則」の土地支配権を「台湾糖業奨勵規則」の「無償貸付」に変更するための変更届を明治36年(1903年)に総督府に申請を行い、同年6月に変更が認められました。
賀田金三郎は、「台湾糖業奨勵規則」の規定に従い、「馬黎馬憩原野」の開墾を3年で成功させなければならなかったのです。
賀田組として立案した開墾計画は以下のようなものでした。
*開墾方面
開墾に際し、人員不足を補うため、アメリカ製の新型農具を購入し効率をアップさせる。7頭曳、3頭曳の新型農具に加え、14頭の牛と33人の労働者を投入し、3年で開墾を完成させる。
*水利施設
当該開墾地域は雨が少なく、サトウキビの成長期である4月から9月は水が必要となる。そのために、灌漑用水の整備が必要である。木瓜渓(木瓜川)から用水路を引き込むと同時に、井戸も掘削する。そのために必要な人員は48名。
*サトウキビ栽培
初年度(明治35年)2,184,000株 第二年(明治36年)5,241,600株 第三年(明治37年)3,572,400株 の計画で栽培を行うものとする。
*予算計画
総予算277,307円(現在の価値に換算すると約6億円)
120名の原住民を雇用し、初年度は、100町歩(約99ha)、翌年は500町歩(約496ha)を開墾。開墾した土地に、さとうきび300町歩(約298ha)、たばこ20町歩(約20ha)、じゃがいも280町歩(約278ha)の栽培を始めました。
さらに、賀田組は、それまで台湾で主流だった竹蔗(Saccharum sinense Roxb)からハワイのラハイナ地区で栽培されている品種と紅蔗を採用。また、牛を使った旧式の圧搾作業の効率をアップさせるために、オハヨー式圧搾機を台湾総督府より借り入れました。これにより、東台湾初の本格的製糖工場である賀田製糖所が誕生したのです。
賀田組は新式の製糖工場を壽村に作り、一次精製となる分蜜、粗糖の製造を開始。(後に、鹽水港製糖株式会社、台湾製糖公司へと事業は受け継がれていきます)サトウキビ畑の面積も拡張。さらには、呉全、荳蘭(現在の吉安郷宜昌村一帯)、鯉魚尾(現在の壽豐郷一帯)などに工場を増設し、赤糖*2の生産を行いました。
当時のサトウキビ畑の面積は73甲(約71ha)、毎年の収穫量は約180萬斤(約1,080 t)、約354,000斤(約212 t)の分蜜糖を製造していた。
当時、賀田組は、製糖業以外にも、製脳業、酪農業、軽便鉄道、そして、開墾と数多くの事業を行っており、製糖業のみに人手を割くことはできなかった。主に、農場では、原住民を雇用していたが、習慣の違いから、その管理は難しかったようだ。例えば、賀田組の主要農場の一つ、呉全城農場では、明治37年(1904年)の段階で、農場を6区画に分け、1区画ごとに、主任助手1名、日本人農夫5名、日本人女性3名、台湾人農夫5名、原住民60名を配置していたましが、人手はまったく足りない状況でした。賀田組にとっては、製糖、製脳の安定供給、開墾のスピードアップ等々、東台湾地区での事業を軌道に乗せるには、どうしても人手が必要だったのです。
そこで、明治39年(1906年)、日本からの移民を募集。これが、台湾での日本人移民の歴史の幕開けとなりました。
賀田組は積極的に日本人移民事業を進めていきました。移民を募集するにあたり、賀田組が提示した条件がありました。その条件とは、
(1)日本から台湾までの交通費(船賃)は賀田組が全額負担するものとする。
(2)3人家族に対し6坪の家屋を提供、さらに、30円(現在の貨幣価値に換算すると約7万円弱)を貸し与えるものとする。また、家族が1人増えるごとに、家屋は1坪増し、貸金は5円(現在の貨幣価値に換算するとで約1万円)増しとする。尚、貸金に対する返済は、最初の収穫があった後、5年以内の返済とする。
(3)最初に作付けするための種、苗は無償にて提供。農具・牛も貸し与えるものとする。
(4)最初の収穫が得られるまでの生活費1日9銭、食糧として白米を一日1.26升を賀田組より支給するものとする。
(5)医療費は無料、死亡時には見舞金として最高50円を支給するものとする。
(6)各戸に1反の農地を与えるものとする。こののうちに関しては、5年間、収穫物の50%を納めた者に対しては10分の1の権利を与え、地主権を得られるのもとする。また、土地賃料として、毎年5石の米を納めるものとする。
(7)主要な灌漑用水路の工事、補修は賀田組が行う。各農地への引き込み用水路は、各人で行うものとする。
この賀田組が提示した条件は、後に、日本が国策として行った移民政策のそれよりもはるかに好条件でした。
この募集の結果、明治39年(1906年)5月、愛媛県農民50戸、福島県30戸、広島・福山11戸、合計91戸、483人が移民。移民達は、呉全城53戸、164名、鯉魚尾276人、加禮宛43人と分けられました。この様にして、賀田村がここに誕生した。
花蓮の発展のために、日本から移民を募った賀田組。賀田金三郎も、そして、移民達も、明るい未来に向けて希望を持ってのスタートであったはずだ。しかし、その2か月後、明治39年(1906年)7月、賀田金三郎にとっては、まったくの想定外の大事件が発生したのである。「維里事件」でした。この「維里事件」の勃発によって、賀田村は大きな危機に直面する事になったのです。
台湾で初めての日本人移民村「賀田村」。賀田金三郎、日本人移民達にとって、今後の花蓮の発展のために、そして、自分達の新しい未来のためにスタートした新天地での新しい生活。賀田金三郎にとっても、それまでの人手不足がこの移民事業で解消され、花蓮の新しい産業である製糖業、製脳業の発展に胸躍らせていたに違いありません。
賀田金三郎の哲学でもある「お国のために死ぬまで働き続ける。台湾で得た利益は台湾に還元する」を不毛の地と言われた東台湾の地でも実践できると確信したことでしょう。しかし、その希望は2か月後に発生した「威里事件」によってみごとに打ち砕かれてしまったのです。「威里事件」については、本書「カウワン(卡烏灣)神社(景美神社)跡と威里事件」をご覧ください。
「威里事件」は、賀田金三郎にとって、大切な従業員を失ったばかりか、その後の移民事業に大きな影を落とす事となり、結果的に、花蓮の産業発展を願っていた彼の願いをも根幹から揺るがす大事件でした。
後に賀田金三郎は、「此の開墾に従事している僕の使用人が今まで60余人も生蕃(原住民)のために無残な最後を遂げ、討伐隊の兵士、警官及隘勇の戦死者を算し来らば、百人以上此の開拓地の犠牲になっている」また、「一番困る事は、此中ちの蕃人どもが随時勝手に蕃地に帰って行く。此の帰るといふやつが、彼らの蕃社総てに様子をしられるときで、やがて不意に襲来しては危害を我が同胞の生命財産に加える」と語っています。(「財界名士失敗談・上巻(朝比奈知泉編・毎夕新聞社)」)
賀田金三郎という人物はめったな事で愚痴をこぼす人物ではありませんでした。故に、彼にとって、この「威里事件」は本当に悔しく、情けなく、悲しい出来事であった事が読み取れます。また、賀田村の移民達にも大きな動揺が走ったことは間違いありません。
当時の移民達は、日々、熱帯地区の気候との戦いが続いていました。
原野が広がる開拓地。殺風景な場所での閉塞感から、活気を失う者が続発。衰弱した体はマラリアが感染しやすく、1軒の家で、一人か二人が後退で病に伏せる有様。妻は夫に先立たれ、親子枕を並べて亡くなるという家さえありました。賀田組としてもマラリアの予防、治療に、事務所の監督者と医療係が走り回ったがそれでも追い付かないスピードでマラリアは蔓延していったのです。その結果、故郷へ帰るものが続出。踏みとどまった者もいましたが、その理由は、負債があり身動きが出来ないという者がほとんどで、結局は、耕作地にも出ず、怠ける者ばかりでした。賀田組は、前貸付金の回収不能、売掛金の滞納、医療費負担の増加、折角、開拓した耕作地は荒れ放題になってしまったのです。さらに、この現象は、農民移民だけに止まらず、脳丁の間でも起こり、マラリアが続発、農民同様、死亡するもの、逃亡するものが増える一方でした。
花蓮発展のためにも、開墾は急がなければならない状態の中、この様な事態となり、それでなくとも、人手不足だった賀田組はさらに、人手の確保に苦しむ事となったのです。
結果的に、賀田村は、4年半で閉村することになってしまいました。
現在の歴史学者の方々の間での見解は、「賀田は資金不足になり、閉村することになり、この移民村事業は失敗に終わった」と言われています。しかし、当時の賀田の財務状況は、後の朝鮮進出からもわかるように、決して、苦しい状況ではありませんでした。まだまだ十分な資金力はあったのです。ただ、移民事業を促進させるためには、民間力だけでは限界があると言う事は誰に目にも一目瞭然でした。
故に、台湾での移民事業に関しては、いきなり、国としてではなく、民間に委ねたかったのです。
賀田金三郎自身もそのことは百も承知だったはずです。彼は、自らが実験台となり、私財を投じて移民村を作り、そこで得られた様々なデータを台湾総督府に報告。農作物の選択、原住民の問題、マラリアの問題など、実際に、移民村を作ってみなければわからないことが沢山ありました。これらを全て賀田金三郎は自らが経験したのです。
後に賀田金三郎は友人との会話の中で「台湾時代、一番苦しかったのは、移民事業だった。正直、当時は、台湾銀行の大株主として、また、他の様々な事業の株主として、十分すぎるほどの収入はあった。故に、好き好んで、東台湾開拓事業に乗り出したわけではない。しかし、あの事業をやらなければ、東台湾の開拓は進まなかった。」と語っています。
賀田村がなければ、間違いなく、東台湾での日本人移民村事業は成しえてなかっただろうし、出来たとしても、大幅に開村は遅れていただろう。
さて、現在の花蓮縣でこの賀田村の足跡を辿るのは非常に難しいものとなっています。
唯一、賀田金三郎の名前が刻まれているのが、開拓記念碑です。これは、昭和15年9月24日に建てられたものです。
さらに、賀田金三郎が威里事件及び東台湾開拓事業、賀田村開村事業で命を落とした賀田組拓殖部従業員のために、大正5年11月に石工の井上十造に作らせた「賀田組拓殖部従業員の墓」が残されています。
当時は、最寄りの駅は賀田駅と名付けられ、移民村は賀田村と名付けられた。その移民村を見下ろす海岸山脈の山は、賀田山と名付けられました。賀田村官史警察官派出所も出来、賀田尋常小学校(後に壽尋常小学校に改名)も開校となったのです。賀田の名は確実にその地に根を下ろしていました。しかし、昭和20年(1945年)8月15日、日本の敗戦により、日本人は全員が強制送還となった。日本人がいなくなった後、蒋介石は、日本色を消し去るために、地名を変えていった。賀田村も平和村と名前が変えられ、駅名も「志學」と名を変えました。賀田農場後には、今では、国立東華大学が建っています。唯一、賀田山という名前だけが今も残っています。
花蓮では、賀田の名前は消えてしまいましたが、花蓮の人々の心には、確実に、賀田金三郎の名は残っており、次の世代へと受け継がれています。
2014年2月18日、花蓮縣壽豐郷呉全公墓内に残されている「賀田組拓殖部従業員の墓」において、賀田金三郎研究所として、東京よりお越しになっていた曹洞宗のご住職様方にお願いをして、法要を執り行ないました。戦後、初めての法要となりました。
当日は、雨上がりのどんよりとした曇り空であった。一行が現地に到着し、法要の準備が整い、読経が始まった瞬間、空は一気に晴れ渡り、太陽の陽射しが一条の光となってお墓に差し込んだのです。あの時の光景は今でも忘れる事が出来きません。
【歴史の生き証人】
花蓮縣壽豐郷呉全にお住まいの李克己さん。(2017年4月インタビュー)
台湾で初めての日本人移民村・賀田村があった壽豐郷平和村呉全。賀田製糖所があった場所に建てられた開拓記念碑がある広場の近くで雑貨店を営む、李克己さん。李さんは中学1年まで日本語教育を受けた方。日本統治時代の賀田村の様子をお聞きした。
「当時は大勢の人が住んでおり、学校、市場はもとより、色町もあった。村人のほとんどの人が、鹽水港製糖株式会社壽工場(賀田製糖所が前身)で働いていた。
開拓記念碑が建立されている場所も、以前は、同社の事務所があった場所。(それ以前は、賀田製糖所があった。)
同社事務所の所長であった大和さんという日本人も同村に住んでいた。(大和氏は、終戦後、引揚船で日本へと向かったが、途中、引揚船が機雷に触れ沈没。全員が死亡したとの事)
終戦前はアメリカ軍の艦載機による攻撃が毎日の様にあり、授業どころではなく、防空壕を掘ったり、敵機から逃げ回ったりの日々が続いたらしく、学校も攻撃にあい、たまに行われる授業も、大きな松の木の下での青空教室だった。
小学校の時は、自宅から徒歩で約1時間かけて壽公学校まで通っていた。通学の途中、友達と遊びながら通っていたため、学校に着くと、すでに授業が始まっていた事も度々だった。また、昼食を終えると、友達と学校を抜け出し、近くの川や山で、暗くなるまで遊んだというヤンチャ坊主だった。」
現在お住まいの雑貨店は、戦後建て替えられたものだが、その材料は、台風の後、川に流されてきた電信柱や家の柱などを拾って来て作ったそうだ。
李さんが今でもはっきりと覚えているのが、小学校の頃に花蓮の隣の宜蘭県羅東で発生した婦女暴行殺人事件。買い物帰りの台湾人の女性が暴行されたあげく殺され、排水溝に投げ捨てられると言う事件が発生した。
目撃者の証言で、犯人は日本人警察官の幹部である事は明白であったが、最終的にこの事件はお宮入となり、その日本人警察官は退職する事もなく、事件後も警察幹部として職務を果たしていたそうだ。
当時は似たような事件が多発していたらしく、後に、台湾総督府が取締りを強化し、日本人警察官、軍人の犯罪に対してももみ消すことのない様に、厳しく取り締まりを行うようになったそうだ。
取材の途中で李さんが「昔は村人全員が一丸となって村の発展のためにお互いに励まし合い、助け合ってきた。しかし、今の若者は団結心がない。若い者は村を離れ、この村の老人がほとんど。先日も、この村の中で最も古い日本家屋の家の持ち主がその家と土地を売って、台南の方へと引越をしていった。このままではいつか呉全も消滅してしまう」と寂しそうな顔で語った事が忘れられない。
賀田官吏派出所開所記念写真(右端が賀田金三郎)
賀田金三郎研究所所蔵
*1:「台湾糖業奨勵規則」
まず、旧5,000円札でお馴染みになった「新渡戸稲造」。日本では、農学者・教育者・倫理哲学者・國際連盟事務次長・東京女子大学初代学長として有名である。実はこの新渡戸稲造氏が今回ご紹介している「台湾糖業奨勵規則」に大きく関係しているのだ。
1901年(明治34年)9月に、新渡戸稲造は、台湾総督府に対し、「糖業改良意見書」なるものを提出している。この提出書の中には、糖業奨励のために臨時台湾糖務局の設置が必要であると記されていた。これを受けて、第四代台湾総督の児玉源太郎は日本政府と交渉し、1902年(明治35年)に、臨時台湾糖務局官制の発布を行った。
これに先立ち、新渡戸稲造は、1901年(明治34年)2月に総督府技師、5月に民生部殖産課長、11月に官制改革により殖産局長心得となり、1902年(明治35年)6月17日に、臨時台湾糖務局の設置と共に、局長に就任したのである。1904年に新渡戸は内地に戻った。
1903年に総督府に「官有森林原野預約賣渡規則」に基づき、申請を提出した賀田金三郎であるが、彼の事業計画の中には、「糖業」も含まれていた。
*2:赤糖
赤糖(あかとう)とは、上白糖やグラニュー糖などの精製糖と比較して精製を抑えることにより、さとうきびの味、風味を残した砂糖のことを言う。かりんとうや黒パン等の製菓製パンなどに、昔から広く一般的に使われており、独特の甘味が特長である。又、黒糖とは違い、産地や原材料の種類等の組み合わせによって様々な特徴を示す事ができる利点を持つ砂糖である。
*旧賀田村:花蓮縣壽豐郷志學村・平和村一帯 台湾鉄道志學駅下車 徒歩
*開拓記念碑:花蓮縣壽豐郷平和村呉全
*賀田組拓殖部従業員の墓:花蓮県壽豐郷平和村呉全公墓内
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