東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 台湾初 東台湾開拓を成し遂げた賀田金三郎 【花蓮縣】

 

台湾の近代化、東台湾の開拓を語る際に忘れてはいけない人物がいます。その人の名は、賀田金三郎。本書でも何度か彼の名前が出てきました。彼がいなければ、台湾の近代化も、東台湾の開拓も、すべてが遅れていただろうし、日本統治時代に台湾があそこまで発展したどうかはわからないと言っても過言ではないと筆者は考えています。

では、読者の皆さんは賀田金三郎という人物をご存知でしょうか?大半の方が「知らない」とお答えになるはずです。実際、彼の故郷である山口県萩市の方でも、彼を知る人は少ないのが現状です。山口県萩市と言えば、幕末から明治維新にかけて、様々な有名人を輩出しています。それ故に、これらの有名人に隠れてしまい、賀田金三郎の名はほとんどの方が知らないのです。戦前には、萩市に賀田金三郎の寿像まであったのですが、戦争中に接取され、今は台座だけになってしまいました。そして、いつの間にか、その台座のことすら忘れ去られてしまいました。

台湾の歴史を語る上で、賀田金三郎という人物は、忘れてはならない重要な人物です。ここで、賀田金三郎に関して簡単にご紹介することにします。

 1857112日、山口県萩市の札差商賀田久兵衛の長男として生まれた金三郎。

1718歳ごろから金三郎は家業を手伝う様になった。しかし、金三郎24歳の時に、父親が、25歳の時に母親が相次いで他界した。両親が他界した後、家業は金三郎が継ぐ事になったが、当時の金三郎は酒と女に溺れ、わずか3年程で、賀田家の資産3万円(現在の貨幣価値に換算すると約6,500万円)を使い果たし、無一文になってしまった。

明治18年(1885年)4月、28歳になった金三郎は再起を誓い上京。藤田組の丁稚奉公として働き始めた。金三郎は必死になって働き続けた結果、頭角を現し、明治20年(1887年)10月には、藤田組関連会社の内外用達会社伊豫松山出張所主任となった。

明治24年(1891年)5月、内外用達会社は大倉組に吸収合併されたが、金三郎は、引き続き、大倉組松山支店の支店長として働いた。明治27年(1894年)には広島支店支店長に。当時の広島には日清戦争の日本軍の大本営があった。金三郎は、軍需品調達の仕事を受注した。この広島支店への転勤は、金三郎が自ら希望し、会社側とかけ合った結果実現したとも言われている。広島支店で実績を挙げた金三郎。大倉組は、彼の才能を高く評価、明治28年(1895年)4月、満州支店への転勤が決まった。しかし、三国干渉問題が浮上、台北支店支店長として台湾への転勤となった。

金三郎が大倉組台北支店支店長に赴任して翌年の明治29年(1896年)、台湾総督府はそれまでの軍政統治から民政統治へと移行した。

当時の台湾は通信業務に関しては始まったばかりであった。さらに、金融ネットワークもなく、日本銀行台北出張所はあったものの、送金業務もほとんど機能していなかった。交通機関も基隆から新竹まで、旧式鉄道しかなく、南北縦貫道路も完成していなかったため、金員、物品の輸送は不便極まりないものだった。

明治30年(1897年)3月、台湾総督府後藤新平民政局長よりの命令により、賀田金三郎が発起人を務め、大倉喜八郎、山下秀實、金子圭介らと共に、台北に「驛傳社」を創立し、台湾総督府通信部の金員、物品、郵便、小包郵便業務への労働力提供を行った。初代社長には大倉喜八郎が就任したが、実質的な経営は賀田金三郎に任されていた。(後に、大倉喜八郎は社長を退き、金三郎が社長に就任した)

驛傳社の業務は台湾全土へと広がっていき、国庫金、政府税金の運送、陸軍軽便鉄道への労働力提供という分野にまで広がっていった。一見、順風満帆にみえた驛傳社の業務であったが、当時の台湾の治安が驛傳社の運命を大きく変える事になった。当時の台湾の治安は非常に悪く、至る所で盗賊が出没していた。また、原住民からの襲撃も頻繁に起こっており、被害者が続発していた。驛傳社も例外ではなかった。

鳳山支店で2,000円強奪事件、北斗では現金が奪われ、従業員2名が殺害される事件、台中、新竹、花蓮でも現金輸送中に従業員が殺害される事件、宜蘭では、原住民の襲撃により従業員が殺害された。さらに、官金銀券の運搬船が白砂岬沖で沈没するという事故も発生した。このような、事件、事故による賠償金、弁償金が嵩み、遂に、大倉喜八郎は本事業の中止を決定した。しかし、金三郎は、「総督府との約束は守るべきである」と主張、大倉を説得し続けたが、大倉の決断は変わらなかった。金三郎は「総督府との約束を守れなかった」という事で自ら責任を取り、社長を退任。驛傳社を去ったのである。

児玉源太郎台湾総督の秘書であった横沢貫水は、「後藤新平長官は、賀田金三郎氏の貢献によって、2度の重大な局面を乗り越える事が出来た」と証している。

2度の重大な局面とは、まず、最初の局面は、当時の総督府機関報であった「台湾新報」と「台湾時報」との資金を巡る対立であった。機関報の対立は総統府としても非常に頭の痛い問題であり、対立が激化するまでに問題を解決する必要があったが、後藤長官は解決の糸口を見つけられずにいた。そんな時、賀田金三郎氏は、自ら資金を出し、両社を合併、「台湾日日新報」を設立させたのである。これにより、最悪の事態は免れたのであった。

もう一つの局面は、総督府が進めていた台湾北部の産業発展のために必要不可欠であったのは、匪賊、土匪の平民化であった。特に、匪賊のトップでもあった陳秋菊との交渉が難航していた事であった。交渉の結果、陳秋菊から提示された条件は、「指定期日までに、即金で20,000円支払うのであれば、平民化の条件をのむ」というものであった。

横沢秘書官はこの条件を聞き、同郷(山口県萩市)であった賀田金三郎氏に相談した。相談を受けた賀田氏は、夜間であったにも関わらず、「三十四銀行(日本中立銀行の前身)」田村養三郎台北支店長を訪れ、交渉、翌日には20,000円の資金を調達したのであった。これにより、道路建設が始まり、後の北部の産業発展へと繋がったのである。

 この様に、賀田金三郎氏は、単に、お金儲けだけで台湾で事業展開していたのではなく、「自分が関わる事により、結果的に国家のためになり、さらに、国民生活の発展につながる」と判断した場合には、それは日本国民として当然尽くすべき義務であると判断したのである。賀田金三郎という人物は、あまり細かい事にこだわらず、自分の直感を信じていた人だったようだ。故に、事業展開をする際も、細かい事業計画、資金計画等々に拘れず、「今、何が必要とされているのか。その為に、自分は何をすべきなのか。そして、それが成された時、国に貢献できたと言えるのだろうか」という事を常に考えながら行動していた人物であると私は考えます。

 驛傳社を去った金三郎は、当時、大倉組で働いていた実弟の賀田富次郎と共に、賀田組を創立したのである。明治32年(1899年)5月の事であった。

明治32年(1899年)5月、社長・賀田金三郎、副社長・賀田富次郎(金三郎の実弟)、本店・台北 従業員数・1516名 営業所・台南、台中、基隆、宜蘭。賀田組の誕生であった。金三郎は台湾に来た時から着眼していた、金融業、製糖業、そして、当時、大倉組がやっていなかった建築業をまず手掛ける事とした。金三郎が土木請負に手を出さなかったのは、土木は大倉組の事業であるからで、これは、大倉組、すなわち、大倉喜八郎への敬意を表したのもでもあったと言えよう。

賀田組が創業した明治32年(1899年)6月、大日本帝国政府の国策として台湾銀行が設置された。金三郎はこの台湾銀行に投資を行い、日本大蔵大臣渡邊國武が筆頭株主に続く、二番目の大株主として賀田金三郎が名を連ねた。また、地元の銀行として設立準備を進めていた新高銀行、南洋華僑銀行の設立にも協力した。さらに、明治32年(1899年)1126日、金三郎は、荒井泰治、山下秀實、金子圭介、近藤喜惠門、山瀬軍之佐、山田海三、澤井市造、長野源吉らと共に、現在の台北市重慶南路一段58号に「台湾貯蓄銀行」を創立。ここでも金三郎は、300株を有する大株主となったのである。

製糖業に関しては、台湾総督府・第4代総督児玉源太郎及び民政長官後藤新平からの要請により、1900年(明治33年)12月に近代的粗糖工場として三井財閥(三井物産の主導)によって、台湾で最初に設立された台湾製糖株式会社に対し100株分を出資、監査役となった。(台湾製糖株式会社事業沿革之概要p53(大正10年出版)その後、金三郎は、「鹽水港製糖会社」「東洋製糖会社」「北港製糖会社」へと出資し、役員、大株主となった。

土木建築業に関しては、以前、金三郎が勤めていた大倉組が当時は、土木建築業務を行っていなかったため、賀田組として土木建築業も始めた。

明治33年(1900年)、台湾総督府が縦貫鉄道建設、港湾修築工事、土地調査のために、3,500万円の国債を発行した。これにより台湾では、公共工事ラッシュが始まった。この台湾好景気に与かろうと、日本からも台湾進出を図るものが増えた。しかし、台湾総督府としては、信用度の高い賀田組を御用商人とし、営繕工事を任せる事にした。

賀田金三郎は、賀田組創立後、着々と実績をあげていき、台湾総督府からの信用を得ると共に、実弟の賀田富次郎と共に、台湾における賀田組の地位をあげていたのである。

順調に進んでいた賀田組の事業。

この後、金三郎は、不毛の地、開拓不可能といわれた東台湾地区の開拓へ挑んでいったのである。ここでも金三郎は、驛傳社の時と同じように、「国との約束を果たす」という思いで、様々な困難にぶつかりながらも、必死に頑張り続けていた。

明治31年(1898年)、当時の台湾総督であった児玉源太郎は、いっこうに話が進まない東台湾開墾を誰に託すべきか熟慮していた。

児玉総督は、後藤新平民生長官と図り、祝辰巳局長に対し、再度、東台湾の視察を実施させた。視察を終えた祝局長からの報告内容は、先の水野局長のものと似ており、「東部開墾は難問多けれど、発展すべき可能性は大いにある」というものであった。と、同時に、その報告書の中に「この開墾を実現できる人物は、賀田金三郎が最適である」と記されていた。

明治32年(1899年)、賀田金三郎は、「官有林野豫約賣渡規則」に従い、台湾総督府に対し、台湾東部地区開発計画書を提出、同年1116日に総督府より開拓許可が下りた。この時、賀田金三郎が申請した荒野面積は、東部地区未開墾荒野総面積の半分以上であった。総督府は規定により、開墾機関を最長15年と定めた。

鹿子木小五郎の「台東廰館内視察復命書」によると、賀田金三郎が申請した台湾東部開発の総面積は、16,464甲(約16,000ha)に及んだ。

賀田組は、この広大な東台湾地区の用地を利用して、製糖業以外に、製脳業、畜産業、移民事業、運輸業等々、多角経営を行っていた。

賀田金三郎は、明治32年(1899年)に総督府より許可を得た開墾地域の内、「馬黎馬憩原野(現在の壽豐・鳳林の境)」の906甲(約880ha)に関し、「官有林野豫約賣渡規則」の土地支配権を「台湾糖業奨勵規則」の「無償貸付」に変更するための変更届を明治36年(1903年)に総督府に申請を行い、同年6月に変更が認められた。

明治35年(1902年)、賀田組の台湾東部開墾が本格的に始まった。120名の原住民を雇用し、初年度は、100町歩(約99ha)、翌年は500町歩(約496ha)を開墾した。

開墾した土地に、さとうきび300町歩(約298ha)、たばこ20町歩(約20ha)、じゃがいも280町歩(約278ha)の栽培を始めたのである。さらに、賀田組は、それまで台湾で主流だった竹蔗(Saccharum sinense Roxb)からハワイのラハイナ地区で栽培されている品種と紅蔗を採用した。

賀田組は新式の製糖工場を壽村に作り、一次精製となる分蜜、粗糖の製造を開始した。(後に、鹽水港製糖株式会社、台湾製糖公司へと事業は受け継がれていきます)賀田組は、サトウキビ畑の面積も拡張した。さらには、呉全、荳蘭(現在の吉安郷宜昌村一帯)、鯉魚尾(現在の壽豐郷一帯)などに工場を増設し、赤糖の生産を行った。

当時、賀田組は、製糖業以外にも、製脳業、酪農業、軽便鉄道、そして、開墾と数多くの事業を行っており、製糖業のみに人手を割くことはできなかった。そこで、明治39年(1906年)、日本からの移民を募集したのである。これが、台湾での日本人移民の歴史の幕開けとなる。同年5月、愛媛県農民50戸、福島県30戸、広島・福山11戸、合計91戸、483人が移民してきた。移民達は、呉全城53戸、164名、鯉魚尾276人、加禮宛43人と分けられた。

この様にして、賀田村がここに誕生した。台湾で初めての日本人移民村であった。

賀田金三郎、日本人移民達にとって、今後の花蓮の発展のために、そして、自分達の新しい未来のためにスタートした新天地での新しい生活。

おそらく賀田金三郎にとっても、それまでの人手不足がこの移民事業で解消され、花蓮の新しい産業である製糖業、製脳業の発展に胸躍らせていたに違いないだろう。

賀田金三郎の哲学でもある「お国のために死ぬまで働き続ける。台湾で得た利益は台湾に還元する」をこれでやっと実践できると確信したことであろう。

しかし、その希望は2か月後に発生した「威里事件」によってみごとに打ち砕かれてしまった。「威里事件」は、賀田金三郎にとって、大切な従業員を失ったばかりか、その後の移民事業に大きな影を落とす事となり、結果的に、花蓮の産業発展を願っていた彼の願いをも根幹から揺るがす大事件であった。また、賀田村の移民達にも大きな動揺が走ったことは間違いないことである。

威里事件後も賀田金三郎は賀田村発展のために努力を続けるが、威里事件で恐れを感じた村人が多数、無断で日本へ帰国。また残った者もマラリアの流行で働けなくなっていた。結局、賀田村は4年半で閉村となってしまった。

それから数年後、日露戦争終了後、戦後恐慌が台湾にも吹き荒れ、賀田金三郎は、開拓事業は台東拓殖会社と、製糖事業は鹽水港製糖会社と合併吸収させ、台湾の事業から手を引いた。彼はその後、朝鮮半島へ渡り、様々な事業展開を行っている。

ちなみに、彼は、日本国内でも、今の、日活、東急電鉄、日本火皮革(現在のニッピ)、台湾製氷(現在のニチレイ)、中国電力の前身である山口電灯、広島電灯などにも投資を行っている。

賀田金三郎という人物がいなければ、台湾の近代化は大幅に遅れたであろうし、東台湾の開拓、台湾での日本人移民村開村も大幅に遅れたと思われる。彼が残した偉業の数々を知らない日本人が多いことを残念に思うのは筆者だけだろうか。

尚、宣伝の様で恐縮ではあるが、賀田金三郎に関して詳しいことをお知りになりたい方は、「知って欲しい 台湾を近代化に導いた人物 賀田金三郎」を是非、ご一読ください。

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賀田金三郎と妻のミチ
賀田金三郎研究所所蔵



山口県萩市に鎮座する賀田金三郎寿像
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