東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 台湾初の日本人移民村発祥の地 花蓮 【花蓮縣】

 1890年から1913年までの間、日本の人口は急増しました。当時、世界主要国家の中で、人口密度はオランダに続いて高く、農民の平均耕作地は極めて狭く、生活が困窮していたのです。そこで、日本政府は海外への移民が問題解決に繋がると考えました。

そこでアメリカ、ブラジル、ハワイへの移民計画を実施したのですが、相手国とのコミュニケーション不足で、移民した日本人達は奴隷同様の扱いを受け、実施的にこの移民計画は全て失敗に終わりました。明治政府としては大きな痛手となったのです。

1895年、日清戦争終了後、台湾は日本が統治する事になり、次の移民先として日本政府は台湾を考えるようになりました。政府としては、同じ失敗を繰り返すことは出来ないと考え、まずは、民間に移民村開村を委ねることにしました。同時に、台湾での移民先としてどこが最も適しているかを台湾総督府が調査し、その結果、東台湾地域に決まりました。

しかし、当時の東台湾は清朝時代から未開の地、不毛の地とされており、首狩り族の原住民や、当時、不治の病とされていたマラリアが横行しており、清朝時代は、東台湾一帯は立ち入りが厳しく制限されていた場所でもあったのです。また、台北からの交通網もなく、正に、陸の孤島状態で、当然、港も整備されておらず、誰も好き好んで東台湾開拓、移民村開村をやろうと思う人はいませんでした。

時の台湾総督であった児玉源太郎総督と民政長官であった後藤新平長官は、日本政府からの矢のような催促に頭を痛めていました。

その様な状況の中、1899年に台湾総督府より、花蓮港から台東までの2万ヘクタールの開墾許可を得た民間人がいた。その人物こそ、「賀田金三郎」でした。

山口県萩市出身の実業家であった賀田金三郎は、「人は生まれて来たからには、死ぬまでお国のお役に立つ義務がある」という信念をもっており、日本国の一大事であるならば、自分が東台湾開拓事業を行うという決意の下、命がけで東台湾開拓、日本人移民村の開村を行ったのです。(賀田金三郎に関しては、次章で紹介)

彼は、サトウキビの栽培・製脳事業と同時に、移民事業を花蓮で始めた。彼が移民村として開墾を始めたのが、花蓮の花蓮木瓜溪(木瓜川)から知亞干溪流域の間で現在の壽豐地域になる。四国や九州から数百人の移民を集め、「賀田村」を作り上げた。これが、台湾に初めて誕生した日本人移民村です

一方、1908年(明治41年)、台湾総督府移民事務委員会が本格的に台湾各地の調査を始めました。

台湾西部は東部に比べ面積は広いが、土地の入手は簡単ではなく、仮に取得出来たとしても土質は劣悪なものばかりでした。また、西部は、人口密度も高く、ここに万が一移民村を作った場合、日本本国とあまり変わらない状況を生み出す可能性があったのです。その点、東部ならば人口密度も低く、面積が狭い分、教育面、管理面でも便利であると判断した台湾総督府は、台湾東部に9つの移民村を作ることを決定しました。

花蓮には、吉野村(明治43年)、豊田村(大正2年)、林田村(大正3年)(以上は官営移民村)、三笠村(昭和10年)、上大和村(昭和12年)(以上は自由移民村)、

台東には、敷島村(昭和12年)(官営移民村)、鹿野村(大正4年)、旭村(大正5年)、鹿寮村(大正6年)(以上は私営移民村)の計9つの移民村が終戦まで台湾東部に存在していたのです。

東部の移民村が主に、明治・大正時代に出来たのに対し、西部の移民村は昭和7年(1932年)からでした。

台湾移民時期は大きく4つに分けられ、第一期が1895年から1908年の私営移民時期(賀田村の時期)、第二期が1909年から1917年の花蓮港廰官営移民時期(官営移民村の時期)、第三期が1917年から1945年の台東廰私営移民時期、第四期が1932年から1945年の後期官営移民時期となります。

日本国政府は移民を募集するにあたり、様々な優遇条件を与えました。この条件を信じた人達が新天地台湾に夢と希望を求めて旅立っていったのです。尚、この優遇条件の元となっているのが、賀田村移民募集の際に賀田金三郎が掲げた優遇条件であったことを知る人は少ない。

台湾東部、花蓮・台東に日本人移民村を作ることを決定した日本国政府でしたが、誰でも彼でも移民を許可していた訳ではありません。

まず、移民希望者は、政府により徹底した身元・身辺調査が行われました。かなり厳しい内容でした。この厳しい調査に合格した世帯のみが移民を許されたのです。何故ここまで厳しい調査を行ったかと言えば、台湾総督府が一番恐れていたのが、素行の怪しい人物が移民として台湾に渡ってきた場合の、台湾本国の治安悪化を恐れたからです。この厳しい調査のおかげで、日本統治時代の台湾は非常に治安が良く、「家の鍵など掛けた事はない」という証言が多く聞かれます。

さて、移民許可を得た世帯に対して、日本国政府(台湾総督府)が与えた手厚い優遇処置の内容は以下の通りです。

 (1)各世帯に対し、耕地、宅地、一棟16坪の家の建築に対する補助金(当時のお金で400円)

 (2)大型農具・耕牛・肥料購入に対し、購入金額の半分を補助金として支給。さらに、残りの半分は、4年間利息免除、借入金返済後は、所有権を獲得できるという内容で貸付を行った。また、この条件で日本人ならではの物品購入にも適用された。風呂桶の購入である。

 (3)初年度の農作物の種子、苗を支給

 (4)移民前三年間、小学校学費の免除

 (5)開墾困難な場所であった場合は、特別補助開墾費を支給

 6)移民前三年間、伝染病予防薬品、入院費は免許、その他の薬は半額

 (7)花蓮到着後、移民村までの交通費・食物・必要物品の支給。但し、日本から台湾までの渡航費は各世帯が負担

選ばれた者だけが麗しき島台湾での新生活に夢と希望を持って、日本を出発したのです。

ここで皆さんに少しだけ考えていただきたいことがあります。我々と同じ日本人が、台湾・花蓮、台東という異国の地で、家庭を持ち、笑い、喜び、泣き、苦しんでいました。ここで命を失った人も数多くいます。風土病・伝染病という病に倒れた人達や、原住民の襲来で命を失った人もいます。特に、原住民の襲来に関しては、武器を持たない一般人が武器を手にした原住民に惨殺されるのです。当時の原住民には「首狩り」の習慣があったので、当然、殺された日本人の死体には首がありませんでした。(でも、だからと言って、原住民を恨んではいけない。彼らには彼らの言い分がある。)

苦しみながらも、必死に生きた人々。やっと先が見えてきたと思ったら、終戦。今度は全ての財産を没収され、当時のお金でたった1000円だけを手渡され、荷物は柳氷1個だけで日本へ強制送還された村人たち。自分達が生きてきた証も、お墓もすべて台湾に残し、日本へ戻らなければいけなかった人々。

他の国の移民達は、終戦後もそのままその地に残れました。だから、今でも、日系2世、3世というのが存在します。彼らは、自分達の先祖の生き様すべてを受け継いで、今を生きていられます。しかし、台湾の移民達は、すべてを失い、すべてを抹消されて日本に戻ったのです。

昨日まで、自分達の住んでいた場所は日本国の一部であり、自分達の土地、家は自分のものであると信じて疑わなかった人々。それが一夜にして、全てを奪われる。もしも、今、皆さんが住んでいる家、当たり前の様に歩いている道。これらが一瞬にして第三国に奪われ、まともな補償もなく、金銭も、荷物も持たされず、追い出されたらどう思われますか。

台湾で生まれ、台湾で育った人々(湾生と言います)にとってみれば、内地の親戚には一度もあった事が無い人も数多くいました。親族が何処に住んでいるかも知らない人もいました。当然でしょう。台湾こそがその人にとっては故郷であり、生きてきた場所なのですから。

日本に戻ってからも苦労は続きました。台湾で築いてきた財産を蒋介石率いる国民党にすべてを奪われ、無一文に近い状態で日本へ送り返された人々を歓迎する親族、友人は居ませんでした。故に、台湾から戻った人々は自分が台湾移民であったことを隠し、台湾時代の思い出に封印し、永らく語ることはありませんでした。台湾移民の皆さんが台湾時代の思い出を語り始めたのは東日本大震災以降です。

この歴史を何故、日本では教えないのだろうか。何故、メディアも取り上げないのだろうか。悲しさと悔しさがこみ上げてきます。しかしそんな事ばかり言っても仕方ありません。それが今の日本ですから。だからこそ、本書を読んでくださった方だけでもいいから、機会があれば、台湾・花蓮、台東でのもう一つの日本の歴史について、語り続けていって欲しい。日本人として、絶対に忘れてはいけない歴史。知らなくてはいけない歴史だと思います。私はこれからも書き続けます。そして、発信し続けます。それを一人でも多くの人達がキャッチし、次へと投げていっていただければ嬉しく思います。

日本人移民村(吉野村)
國家文化記憶庫より

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