東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 吉安横断道路慰霊碑・記念碑と深堀神社跡(現、西寧寺) 【花蓮縣吉安郷】
【吉安横断道路慰霊碑・記念碑】
花蓮の開拓で最も大きな問題であったのが、山に住む原住民(現在の太魯閣族、セデック族)の存在でした。彼らは首狩り族と言われ、自分達の領域に侵入してくるものは全て敵とみなし、首を狩った。また、彼らの習慣で、大人になるための儀式として、首を狩ってこなければ、一人前とは認めてもらえなかったのです。そのために、多くの日本人移民達もその犠牲となった。
1906年(明治39年)7月31日、最も恐れていた事件「威利事件」が発生しました。これにより、賀田金三郎は時の台湾総督であった佐久間左馬太に対し、「山に住む原住民の討伐なくして、東台湾の開拓は成し得ない」と直訴、その結果、台湾総督府もやっと重い腰を上げ、1914年(大正3年)5月31日に原住民の討伐を行った(太魯閣の戦役)。この戦争の舞台は太魯閣渓谷一帯です。(威利事件については後章にて)
その後、日本軍は未だに山に潜む太魯閣族、セデック族に対し、包囲網を引くべく、当時の花蓮港駅から南に12Km行った、初音駅(現在の吉安郷千城)から木瓜川に沿って銅門、烏帽から海抜2424mの天長山、さらには、海抜2818kmの奇莱山の主峰を越えて霧社までの全長90Km、総工費42,000円(現在の貨幣価値に換算すると、約1億円)の道路を作ったのです。これを、能高跨越道路と当時は呼んでいました。この能高跨越道路は、太魯閣族、セデック族が使っていた能高越嶺古道をベースに、修築した道路です。
花蓮側からの工事は1917年(大正6年)9月15日から始まり、翌年の6月30日に東段(約44km)が完成しました。この工事に動員されたのは、警備員8,500人、職工(職員)14,000人、人夫(作業員)36,000人もの人達が動員されたのです。しかし、その工事は予想以上に困難を極めるもので、まもとな機材もなく、ほとんどが人力に頼るものでした。
また、当時の安全基準は非常にいい加減なもので、工事中の怪我人、死亡者の大半が、岩壁の発破作業によるもの。当時は、死亡した人の亡骸を運ぶ事すら出来ず、油布で包んだり、粗末な板で作られた柩に入れてその場に埋葬するしか方法がありませんでした。
道路開通後に現在の慰霊碑が建立された。また、慰霊碑の後ろには、開通記念碑も建立され、日本国籍の幹部と作業員の名前、工事に要した人力、経費、距離などの簡単な紹介が記されています。現在は、花蓮県指定の古蹟に指定されている。
日本人も花蓮を訪れた際には、是非、先人達の御霊に手を合わせて欲しいと願います。
【深堀神社跡(現、西寧寺)】
台湾統治直後より台湾総督府では台湾横貫鉄道の建設や「蕃地」と呼ばれた原住民の住む場所の地形、民俗、森林鉱山などの資源調査を行うべきであるとの声があったが、原住民や匪賊達の武装抵抗を受け実施出来ていませんでした。
5つの調査隊のうち、3つの部隊は無事に帰還、1つは調査途中で引き返しましたが、第二調査隊15名が行方不明となったのです。
第二調査隊は、深堀安一郎大尉を隊長とし、1897年1月11日に台北を出発、15日には埔里社に到着。ここで、「蕃語通事(通訳)」として蕃産物の交換業を営んでおり、埔里社一帯の言語に精通している牛眠山庄の「熟蕃」潘老龍と副通事(副通訳)として霧社の「生蕃近藤」こと、近藤勝三郎巡査(日本統治時代においては非常に有名な「蕃通」(原住民通)の一人)の妻のイワン・ロパウ(セデック族最大の主力部落であるパーラン社の頭目の娘)が同行しました。本来は近藤が随行する予定がマラリアを発病したため、妻が行くことになったのです。
深堀調査隊は、19日にホーゴー社、21日にトロコ蕃に到着し、1週間ほど滞在。ここで、潘老龍とイワン・ロパウが同行を辞して、1月28日に埔里社に戻ることとなり、その際、潘老龍に託した書簡が深堀調査隊からの最後の連絡となったのです。2月2日に深堀調査隊は、トロコ蕃を出発し、その後、行方不明となりました。
深堀調査隊が殉職したと特定されたのは、1898年に近藤勝三郎巡査と妻のイワン・ロパウが埔里社からトコロ蕃まで約7か月間ほどかけて深堀隊の足取りを追い、その際に、上着やズボン、足袋など軍装を発見、さらに、深堀隊の通訳であった高野源之助の名刺を発見した。近藤巡査は、1901年3月に埔里社支署長の大熊廣筠の案内役として霧社蕃に入り、共に捜査を行い、深堀隊の足取りを明らかにしています。
日本政府は深堀安一郎大尉の戦死に対し、1901年(明治34年)5月28日に勲七等を贈ることを決定しました。
1931年から翌年にかけて、近藤勝三郎巡査も、深堀神社の建立に尽力しました。1932年には、神社建立のために台北に原住民の産物を販売する店を出店し、資金集めを行ったのです。
深堀神社が建立された際、神社としは珍しいことながら、日本より運ばれてきた不動明王像を神社内に奉納したのです。その後、度重なる台風、土砂災害、洪水により、神社が崩壊、現在の西寧寺の場所に小さな祠を建て、不動明王像を奉安しました。
【近藤勝三郎巡査 秘話】
近藤勝三郎巡査は第五代台湾総督の佐久間左馬太総督に理蕃政策について進言することもあり、1905年9月5日に台北の総督府官邸で佐久間総督に接見した際、原住民の観光推進(台北観光)と深堀調査隊の遺志を継ぎ中央山脈横断の希望を伝えたと記録に残されています。
1907年に、中央山脈横断許可が出た近藤勝三郎巡査は、深堀大尉の遺志を受け継ぐために、9月から10月にかけて中央山脈横断を台湾統治後初めて成功させています。
近藤巡査はその後も数々の調査や探検の道案内や教導として参加、1909年には、その功が認められ勲八等を授与しています。また、蕃通としての近藤は台湾総督府の役人に対する原住民についての知識を教示することもありました。そこで知り合ったのが、台湾総督府秘書官の大津麟平。彼は、1907年に佐久間総督に対し、原住民語通訳の不足を補うため、日本人と原住民女性の結婚を提案しています。大津秘書官は、後に警視を兼任、さらに1908年5月には警視総長に任命、蕃務総長も務めています。
前章でもご紹介しましたように、当時、秘密裏に「各原住民部落の派出所所長は、頭目の娘または親族と結婚せよ」という命令が出ていますが、これに大津警視総長が関わったか否かは定かではなく、また、当時、秘書官だった大津氏に近藤巡査がこの提案を行ったか否かは、今となっては知る由もありません。
ただ、日本台湾学会の学会企画シンポジウム報告で、タクン・ワリス(Takun Walis 邱建堂)氏が「ガヤと霧社事件」という講演を行った際、以下の様に述べています。
「蕃日結婚(原住民と日本人の結婚)によって、狼を部屋に引き入れたことで、われわれの頭目は義に背くようにしむけられ、伝統領域の扉が大きく開かれることになった。その後、近藤勝三郎はホーゴーGungu社の頭目の妹のオビン・ノーカンObin Nokanを娶り、勝三郎の弟の近藤儀三郎もマヘボ社の頭目モーナ・ルーダオの妹のディワス・ルーダオTiwas Rudo と結婚した。ホーゴー社とマヘボ社は、どちらもセデック族の主力部落で、その頭目は各部落に、首狩でその名を知られていた。このときから、共同で抵抗し、伝統領域を護るシステムが崩れていき、日本人は内山に深く入りこんで部落をひとつずつ征伐することができたのである。(中略)、部落は次々に「帰順」し、一方、近藤勝三郎と近藤儀三郎は任務を果たすと、霧社地区から姿を消してしまった。」
【参考文献】
*花蓮縣文化局 吉安橫斷道路開鑿記念碑..
[2014-06-08]
*客家委員會數位臺灣客家庄 吉安橫斷道路開鑿紀念碑.. [2014-06-08]
*楊承淑 編 日本統治期台湾における訳者及び「翻訳」活動: ―植民地統治と言語文化の錯綜関係―
*西寧寺ホームページ中華三清弘道学会 歴史源流
*吉安横断道路慰霊碑・記念碑:花蓮縣吉安郷吉安路6段 台9丙線沿い(西寧寺対面)
トイレ:なし
*西寧寺(深堀神社跡):花蓮縣吉安郷吉安路6段839號
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