東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 砂荖部落、垃索埃湧泉生態園区 【花蓮縣光復郷】

 【砂荖部落】

花蓮県光複郷に砂荖(阿美語:Sado部落という阿美族の部落があります。

砂荖部落の入り口に砂荖部落初代頭目の石碑があります。

この石碑の建っている敷地内に住まわれているのが、その初代頭目から数えて五代目にあたる呉珽熙さん(日本語名:キクさん)です。代々、子孫が住まわれています。

砂荖部落は、今から400年程前にダドイ、ツンガハ、アサガス、ラガハ、ロボンデワス、ロボンパナイの5人の阿美族が海岸山脈を越えてこの地にやってきました。当時の砂荖地域一帯は荒れ野原の状態でした。

海岸山脈からの土石流であたり一面は砂地化となっており、その様子を阿美族達は「サトゥ(Sado)」と呼んでいました。ちなみに、初めて阿美語が中国語として置き換えられたのが「砂土」で、語源はここからきていると言われています。

5人はこの地で生活をするために必要な水を確保するために、井戸を掘りました。結果、この地域に8つの井戸を掘りあてたのです。

現在も部落内には当時の井戸が5つ残されています。

その後、阿美族達はこの地に「砂荖部落」を開き、初代頭目として、サプソクワルが選ばれました。

また、部落内には寶干青年聚會所があり、ここは、日本時代に警察官が巡回に来た際の検問所として使用していた建物を復元したものです。

 

【垃索埃湧泉生態園区】

花蓮縣光復郷にある垃索埃湧泉生態園区。

ここを訪れる日本人はほとんどいない。説明を聞かなければここがいったい日本とどういった関係があるのかわからない。

ここには、3本の川があります。この川は、日本統治時代に日本人が作った川(灌漑用水)で、出来た時のままの状態で保存されています。通常、灌漑用水ならば、コンクリートで周りを固めたりしますが、この3本の川は、当時のまま保存すべきであるという地元の方々の強い要望で、一切、手を加えられていません。何故、当時のまま保存しているのか。これには、大きな訳があります。

この垃索埃村には、昔から「垃索埃千年神話 神鳥の六滴の涙」という話が伝わっています。

簡単にその神話を説明すると、

「その昔、垃索埃村附近一帯は肥沃な土壌に恵まれ、人々は自給自足の生活をしていた。

この地域に住む阿美族の人達は、コウライキジを神の鳥と信じていた。

ある日、首に矢の刺さったコウライキジを見つけた村人は、矢を抜き、傷の手当を行い、再び元気になるまで必死に看病を続けた。

看病の甲斐あって、コウライキジは元気を取り戻し、再び野へと帰っていった。

それから数年が経った時、この附近を干ばつが襲った。

土地は干上がり、地割れをお越し、作物も枯れ、人々は飢えに苦しんだ。大勢の老人や女子供が命を落としていった。

その時、一羽のコウライキジが村の上空から、飢えに苦しむ村人の姿を見つけた。その姿にコウライキジは大粒の涙を流した。するとその涙は、乾いた大地に浸み込み、なんと、そこから湧水があふれ出てきた。村人達は、その湧水を使って、乾いた大地を潤し、作物を植え、育て、収穫することが出来たと言う。

やっと戻って来た平穏な暮らし。しかし、その平穏な暮らしは長続きしなかった。今度は、大地震がこの村を襲い、土石流が発生。湧水で出来た池を飲み込んでいった。途方に暮れる村人。するとまた、一羽のコウライキジがやって来て、今度は6粒の涙を流した。今度も同じように湧水があふれ出てきたのである。

村人達はコウライキジの恩に応えるべく、必死に働く続けたのであった。」

 この話を聞いた日本人移民達は、コウライキジの恩に報いるためには、灌漑用水が必要であると考え、村人達のために、この3本の川を作ったそうです。

故に、地元の人達は今でもその日本人達への感謝の気持ちを忘れず、当時のままの姿で、川を保存しているのです。

とても不思議な事に、田植えの始まる12月から1月と、9月から10月を迎えると、その少し前から、池に水が湧き出てきます。

逆に、田植えが終わり、田んぼに水が必要なくなる頃に、池は干上がってしまいます。

水が湧いて出てくる場所も、日本人達が石を積み上げ、堀の様に工事したのですが、それも、当時のまま残されています。

地元の人達の声を最後にお伝えしましょう。

「この灌漑用水工事に携わった日本人の方、もしくは、そのご家族、ご子孫の方を探して、是非、見に来てほしい。また、日本人観光客の方々にも、是非、この場所を訪れ、先人達の功績を見て欲しい。でも、残念なことに、この川の事を知る日本人はほとんどいない。是非、多くの日本人に伝えて欲しい。」

 

 【歴史の生き証人】

☆サプソクワルの子孫で、日本名、佐久間 花子さん(当時84歳)20167月インタビュー

 佐久間花子さんも阿美族の方です。私が「お名前を教えてください」と尋ねると、「佐久間花子です」とお答えになりました。そして、最後まで佐久間花子で通されましたので、あえて、今の中文名はお聞きしませんでした。佐久間花子さんは小学校2年生まで日本語教育を受け、その後は、戦争が激しくなり、日々、兵隊さん向けの食糧作りや衣服作りをされていたそうです。

「戦争時代は大変でした。毎日、毎日、兵隊さんの使う馬の餌となる草刈り、軍服作り等々、勉強などする暇もありませんでした。一生懸命に作った軍服や暑い日も必死に刈り取った馬の餌用の草を積んだ船が、アメリカの攻撃で沈没してしまい、兵隊さんの手元には届きませんでした。残念でした。私の兄は20歳で日本兵として出兵し、インドネシアで戦死しました。

戦争中は、田んぼで獲れたお米はすべて、兵隊さん向けに持っていかれる事になっていました。しかし、食べるものがない部落の人たちは、夜中にこそっと田んぼで稲刈りをし、自分達の食べる分だけは確保しようと努力しました。しかし、それが警察に見つかると、厳しい罰が与えられました。

部落の人たちは皆で協力して、必死に生きていました。

戦争が激しくなってくると、製糖工場で働く日本人が大勢、私達の部落に避難してきました。私達は日本人を受け入れ、一緒に、苦しい時期を乗り越えました。

また、製糖工場で作られたお砂糖も日本人と一緒に避難してきました。部落の各家庭が製糖工場より20俵から50俵の砂糖を預かりました。

当時は本当に食べるものもなく、当然、子供のおやつなどありません。

そこで、製糖工場から預かっている砂糖俵にお湯をかけ砂糖を溶かし、俵の下から漏れ出た砂糖を拾い集め、砂糖菓子をよく作りました。

日本人達もそのことは見て見ぬふりをしてくれました。

私は小学校時代は家が貧しく、靴も買えませんでした。だから、学校へは毎日、裸足で通っていました。多くの阿美族の子は裸足でした。当時は道も舗装されておらず、片道30分以上もかかりました。

小学校を卒業した後は、家業を手伝うために学校には行っておりません。

だから、今でもしゃべるのは日本語と阿美語だけ。中文は少しだけしかわからないので、孫達と直接話をする事が出来ません。

キクは阿美語が話せるので、会話ができますが、他の孫達は、皆、都会に出ており、阿美語は話せません。

私は学校へは行っておりませんが、子供たちが立派に育ってくれ、今では全員が成功を収めてくれていること、それが私の自慢なのです。」

「戦争中の怖い思いではありますか?」という私の質問に、

「ある日、アヒルを20羽ほど連れて道を歩いていると、アメリカの飛行機がやってきました。私は慌てて草むらに隠れましたが、アメリカの飛行機はアヒルを人間と見間違えたのか、機関銃で打ってきました。そして、そのまま製糖工場の方へと向かい、沢山の爆弾を落としていきました。

私は怖くてしばらく草むらに隠れながら、その様子を見ていました。アメリカの飛行機が去ったあと、道に出ると、アヒルはみんな死んでいました。

また、学校では、橋口先生(女性教員)がアメリカの飛行機がくると、大声で「飛行機が来た!」と叫び、その声を合図に全員が、穴に(通称、タコツボ)隠れました。今思うと、あのような粗末な穴では、何の意味もなかったと思います。」

最後に花子さんがおっしゃった言葉がとても深い意味を持っていると思いましたので、ここにご紹介しておきます。

「台湾人は私達阿美族を馬鹿にしている。原住民というだけで自分達よりも下に見ている。しかし、私の子供たちの会社では、子供たちがたくさんの台湾人を雇っている。沢山の台湾人たちの生活を守ってあげている。

それでも彼らは、阿美族を馬鹿にする。日本時代、日本人はその様なことはなかった。だから私達も台湾人が来たときは少しだけ意地悪をするのですよ。(笑)」

まだまだ花子さんから色々なお話しを聞かせて頂きたかったのですが、残念ながら時間的に夕食の時間が近づいていたので、今回はこの辺でお暇する事にしました。

突然の訪問にも関わらず、家の中にまで入れてくださり(キクさんの話では、花子さんは、人とお話しをする時はいつも玄関前の広場で話をし、家の中まで人を招き入れる事はなく、キクさんの知る限り、私達が初めてとの事でした)、貴重なお話をお聞かせくださった佐久間花子さん、そして、花子さんを紹介してくだったキクさんこと呉珽熙さんに心から感謝です。キクさんや花子さんと巡り合えたのもご縁です。

きっと、私達のご先祖様同士が、今日、あの場所で、私達を巡り合わせてくれたのだろうと妻と話をしていましたが、まったく同じ事を、キクさんが私にくれたメッセージに書かれているのを見て驚きました。素晴らしいご縁に感謝。

 

☆太巴塱にお住いの台湾人 張碧霞さん(当時89歳)20179月インタビュー

張碧春さんが日本時代で最も鮮明に覚えている事の一つとして語ってくださったのは、「花蓮空襲の際、私のお母さんが玉里から当時住んでいた白川(現在の富源)へ戻る列車が、間一髪でアメリカ軍からの機銃掃射を免れました。しかし、その反面、花蓮方面から来ていた列車が鉄橋の上で機銃掃射に遭い、丁度、春節の時期で、故郷へ戻ってきていた人たちが大勢、亡くなったそうです。当時の台湾鉄道台東線は単線だったため、お母さんの乗った列車は、トンネル内で花蓮から来る列車を待っていたそうです。亡くなった方の中には、私のお友達や知り合いもいました。

終戦後、学校の授業は日本語から中国語になったのですが、生徒も中国語を覚えるのに大変でしたが、もっと大変だったのが、先生方でした。大抵は中国から来た人が教師をするのですが、花蓮の田舎町では教師の数が足りず、日本時代に教師をしていた台湾人の方がそのまま教師をつづけたのですが、日本語しか話せない教師もいて、中国語は生徒の方が上手でした。中国から来た教師の中国語は非常に聞き取りにくく、特に、山東省から来た教師の中国語は最後まで聞き取れませんでした。

戦後、国民党軍が台湾に来てからは、日本語、台湾語を使用することは厳禁となっていましたが、花蓮の田舎では日本語は使われ続けていました。特に、原住民の人達の間では日本語が公用語となっており、日本語でなければ、台湾人や客家人の人とも会話が出来ないので、日本語は使われ続けていました。

私の夫は、日本海軍で活躍し、台湾鉄道病院で日本人医師と共に医者として勤務していました。10年ほど前に他界しましたが、今から40数年前に体調を崩し、台北の病院に入院した際、友人が日本からお見舞いに来てくれました。その際、日本語で話をしていると、同室の台湾人(台北人)が、「あなた、原住民だったのか」と言いました。当時の台北の同年配の人達からすれば、日本語の話せる台湾人=原住民というイメージだったから。それだけ、都会では日本語の使用が厳しく禁じられていたという事で、戦後、徹底的に日本語を排除した結果、日本語を忘れてしまった人が増えていました。私も主人も日本人が大好き。日本が大好き。日本の教育に今でも感謝しているのよ」と笑顔で語られ、そして、日本の童謡や軍歌を歌って聞かせてくれました。


砂荖部落初代頭目 サプソクワル
賀田金三郎研究所所蔵(熙小姐提供)

サプソクワルの石碑

              砂荖文化発祥開拓遺址跡記念碑


                   砂荖部落入口


                 砂荖部落古井戸1


砂荖部落古井戸2

砂荖部落古井戸3

                 砂荖部落古井戸4


                 砂荖部落古井戸5


垃索埃湧泉生態園区 日本人が作った灌漑用水路

垃索埃湧泉生態園区 日本人が作ったため池

垃索埃湧泉生態園区 ため池の周りには当時の石垣が残っている









 

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