東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 第一号国営日本人移民村 吉野村 【花蓮縣吉安郷】
筆者が今までに読んだ台湾における日本人移民村に関する書物は、ほとんどが、「台湾で最初の日本人移民村は吉野村である」と記されています。しかし、吉野村はあくまでも、国営の日本人移民村として台湾初の移民村であったと言う事をまずはご理解頂きたいのです。
吉野村が開村されたのが、1910年(明治43年)。しかし、1906年(明治39年)11月に、山口県萩市出身の実業家、賀田金三郎氏によって民営の日本人移民村が開村されており、1909年(明治42年)に、賀田金三郎氏の功績を称え、「賀田村」と名付けられ、最寄りの台湾鉄道の駅名も「賀田駅(現在の志学駅)」付近の海岸山脈の山に「賀田山(現在も名前は残っている)」と名付けた。賀田村は開村後、わずか4年ほどで閉村となってしまった。
閉村理由については、「資金不足」というのが一般的な理由とされているが、実はこれも大きな誤解がある様に思われます。当時の賀田金三郎氏は、台湾銀行の大株主であり、監査役も務めていました。さらには、数々の企業にも出資しており、お金には一切困っていませんでした。事実、台湾事業の後、賀田金三郎氏は朝鮮へ渡り、同じ様に様々な事業を展開しています。このことからも、資金不足による閉村とは言えません。何故、閉村となったのかについて、詳細は「知って欲しい 台湾を近代化に導いた人物 賀田金三郎(播磨憲治著)」に詳しく記していますので、是非、ご一読ください。
以上のことからも、台湾初の日本人移民村は賀田村であると言うことを、ご理解頂ければ幸いです。
さて、吉野村についてですが、先にも述べましたように、開村は1910年(明治43年)の事です。元々、当時の日本帝国議会では、1897年(明治30年)に、江藤新作議員より台湾100万人移民計画が提出されていました。当時の日本国内は、急激な人口増加により、住宅難、食糧難が日に日に深刻化していました。日清戦争に勝利した日本は台湾を統治下に治め、その台湾に日本人移民村を作り、人口を分散させることが急務でした。また、国防上でも、台湾は南進していくための重要な基地拠点でもあったのです。
そこで、民間に東台湾の開拓を委ね、移民村も民間で運営させる事になり、賀田村が出来たのです。賀田村は閉村となりましたが、そこで得た様々な問題点や解決策を精査し、吉野村の開村となったのです。
1910年(明治43年)2月9日に花蓮港廳蓮郷荳蘭社に荳蘭移民指導所を作り、徳島県より9戸20人の農民を受入れ、熱帯農業を学ばせました。これが最初の吉野村移民(彼らは模範移民と呼ばれていました)となります。
同年6月28日には、52戸275人が徳島県とその他12県より移民として入植。模範移民と共に、七脚川原野に土地と建物を与えました。移民指導所は、13戸60人を雇用し、各種農作物試作者とし、一般移民たちの示範となったのです。
翌年には、70戸余も移民、その後も移民は続き、七脚川原野は、240戸が収容できる大規模農村になったのです。これが、吉野村の始まりとなります。
吉野村はその後、「宮前」「清水」「草分」の三つの部落に分けられました。
1919年(大正8年)には、327戸、1694人の日本人移民が生活をしていました。
近くを流れる木瓜渓(川)から水を引き込み、吉野圳と宮前圳の日本の幹線と支線、さらには、給水線を整備するために、1912年(大正元年)4月26日に工事が始まり、翌年の12月末に完成をさせました。(吉野圳)
低い位置から高い位置への水の供給が出来るようになり、吉野村全域に水は供給されるようになりました。さらに、野生動物からの害を守るための防護柵も出来きあがりました。これにより、吉野村は、サトウキビ栽培、稲作、たばこ葉栽培、蕎麦栽培、粟栽培、果樹栽培、各種野菜栽培と大農村地帯となっていったのです。
また、大正14年(1925年)、国田正二氏が、倉敷農業高校の先輩であった、磯江静氏より三顧の礼をもって台湾花蓮港廳農務課に迎えられ、農業政策業務に従事。吉野村の稲作指導にあたり、吉野米の品質向上に務めました。当初は不味くて喰えたものではなかったお米でしたが、改良に改良を重ね、遂には、昭和3年(1928年)11月10日、京都御所において行われた昭和天皇の即位の大礼(御大典)の際の献納米として献上された。吉野米は今でも花蓮を代表するブランド米の一種であり、その基礎を築いたのが国田正二であった。ちなみに、この国田正二氏は、蓬莱米の改良に成功した磯永吉博士の右腕的存在でもあり、花蓮の珈琲栽培の父とも呼ばれている人です。(詳細は別章にて)
徳島県:74世帯 広島県:54世帯 福岡県:44世帯 香川県:33世帯 佐賀県:30世帯
山口県:29世帯 熊本県:27世帯 愛媛県:7世帯 北海道:6世帯 新潟県:6世帯
群馬県:6世帯 秋田県:3世帯 宮城県:3世帯 鹿児島県:2世帯 千葉県:1世帯
山形県:1世帯 福島県:1世帯 長野県:1世帯
(台湾総督府官営移民事業報告書より)
現在の吉野村は、今は吉安郷と改名され、新興住宅地として開発が進んでいます。そのために、当時の面影を探すのは他の移民村と比べ困難な状態になっています。
【歴史の生き証人】
林月英さんの証言
「私の母は吉野村に住んでいましたが、日本人との関係は非常に良好で、私たち家族はよく家では和服を着ていました。当時、私の家にはよく日本の兵隊さんが遊びに来ており、お風呂に入ったり、サツマイモを一緒に食べたりしました。母は兵隊さん達の服の解れを直してあげたりしていました。兵隊さん達はよく母にクッキーのお土産を持って来てくれました。私の兄は勉学の為家を出ていたので、母は日本の兵隊さん達を我が子の様に思って可愛がっていました。母が遠出をする時は、近くの派出所の警察官の方が、乗り換えの方法などを詳しく書いてくれました。終戦後、日本の人達が日本へ帰る際、母は餅を作って、皆さんに配っていました。日本人が居なくなり、村は寂しくなりました。母はとても悲しんでいました。」
國家文化記憶庫より引用(顧我洄瀾:花蓮歷史影像集 葉柏強先生著)
1912年(明治45年)鎮座,当時、花蓮港廳では最初に建立された神社
吉野尋常小学校
國家文化記憶庫より引用
明治44年(1911)2月1日,花蓮港廳吉野村で開校。現在の吉野国民小学校。
吉野村役場
國家文化記憶庫より引用
当初は荳蘭移民指導所として開設され、後に吉安移民指導所と改名。移民達に移民に関する情報や耕作用種子の提供、技術指導、生活支援などを行っていました。
移民人数が予定人数に達したため、指導所は閉鎖され、大正9年(1920)に吉野区役場として再開。昭和十二年(1937)には吉野庄役場に改名。戦後まで続きました。
吉野郵便局
國家文化記憶庫より引用
現在の花蓮縣吉安郷吉安路2段107號
吉野神社鎮座紀念碑
花蓮縣吉安郷中山路三段475號
吉安鄉永興村永興三街45號
【参考資料】
廖高仁編著 悦讀日本官榮移民村
*吉野村:台湾鉄道 吉安下車 徒歩での散策は難しいかと思われます。
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