東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 太巴塱(タパロン)部落、太巴塱公学校、阿美族の女神、平井又八 【花蓮縣光復郷】

【太巴塱(タパロン)部落】

太巴塱(タパロン)(阿美語:AfalongTafalong)部落は光復郷東側に位置し、光復渓(川)と嘉農渓(川)を隔てて、西側が馬太鞍部落の東側が太巴塱部落になります。太巴塱は阿美族の言葉で「蟹」を意味します。川に蟹がたくさんいたため、この名前が付けられました。

日本時代は、前章でご紹介した馬太鞍は大和、太巴塱は富田と呼ばれていました。大和という地名は戦後消滅しましたが、富田という地名は今でも通りなどの名前として残されています。

太巴塱部落の阿美族は、今でも阿美族の伝統文化を色濃く残しています。中でも木彫刻は非常に有名です。伝統的な阿美族の家屋には柱や壁に、伝統的な木彫りの飾りが施されています。太巴塱を意味する蟹や、その他さまざまな神話伝説の場面、狩猟、魚取り、祭り、舞踊などの生活の場面をモチーフとしています。これら素朴な木彫刻は、太巴塱の文化的象徴となっており、部落内のあちこちで目にすることができます。ここ数年、太巴塱小学校では、木彫刻の教育が積極的に行われており、子供たちは長老から伝え聞いた伝説や祖先の暮らしを題材に新しい作品を製作しています。校内には伝統と新しさを融合させた作品が展示されています。

また、建国路二段には、道路の両脇に、木彫刻が多数並んでいます。全て内容が違い、阿美族の文化を知る上でも非常に面白い木彫刻家と思います。

 

【東部台湾で最初に出来た学校】

花蓮縣光復郷に「太巴塱國民小學」があります。

190075日創立の学校です。当初は、「台東國語傳習所太巴塱分班」として開校しました。その後、1904 年「太巴塱公學校」(この当時は四年制)となり、1917 年「太巴塱番人公學校」、1920 年「鳳林分班」、1921 年「台灣公立太巴塱番人公學校」、1922 年「太巴塱公學校」、1924 年「太巴塱公學校」(四年制から六年制に変る)、1926 年「富田公學校」となりました。1928 年に田中藏吉校長が着任し、1941 年「富田國民學校」となりました。

戦後、1945 年(民國34 年)には、「北富國民學校」と改名し、武士魁校長が戦後の初代校長に就任しました。その後、1948 年於東富村(加里洞)に加里洞分班を開校。1953 年於西富村(馬佛)西富分班を開校。1968 年(民國57 年)9 月,政府による九年國民義務教育が始まり、「北富國民小學」となったのです。

そして、1994 年(民國83 年)9 月、李來旺校長(原住民名:帝瓦伊.撒耘)が着任後、部落の人達と共に教育部に交渉を続けた結果、原住民部落の傳統的な地名である「Tafalong」を校名とする事になり、現在の「太巴塱國民小學」となりました。

校名こそ何度も変わりましたが、「子供を大切に」「子供は未来の宝」という教育方針は変わることなく今もしっかりと根付いています。


【阿美族の女神】

阿美族の間で女神と呼ばれているのが、迪雅瑪贊(阿美語では、Tiyamacan /Chiteyamasan/Teamatsan/Tejamatsan)です。

まずは、この迪雅瑪贊(本文ではTiyamacanと称します)についてお話します。

太巴部落長老達が書いた「太巴部落創始經典故事 O Kimad no Tafalong」という絵本によれば、原初の神には土の神(地神)、水の神(海神)、人間の祖先の三つの群体があり、このうち人間の祖先が物語の主軸となっています。

地神の祖先はMakengkengで妻 はPocikan。二人の間にはMalenlen(強震の神)とMatikatik(弱震の神)という二人の子供がいました。

海神の祖先は、Sawarangawで、妻は居ませんでしたが、KaliwasangMalalitok Felalakasという3人の子供がいました。 Kaliwasang は雨の神で、3人の子供達がおり、其々に雨の量を自由に操ることができました。Malalitok は風の神で、6人の子供がいました。この子たちは台風からそよ風まで風を自由に操ることができました。Felalakas は水中生物の神で、起源伝説の主人公の一人です。(Kariwasang が主人公の話もあります)

人間の先祖は、 Maseraで、Tapang Masera Rarong Maseraといいます。二人にはKeseng(雷鳴の意味)とMadapidap(稲妻の意味)を作り出しました。この二人には合計6人の子供がいて、台東縣の南にある伝説の場所、ArapanapanayanAlapanay Panapanayanとも呼ばれ、ここは、卑南族(ペイナン族)の発祥の地と同じ地名)で一緒に暮らしていました。

Keseng Madapidapが生んだ6人の子供は、

Dadakiyolo,長男 Tadi'afo,次男 Apotok,三男 Lalakan,四男(長女という説もあり) Doci,長女(次女という説もあり) Tiyamacan,次女(三女という説もあり)と言います。

Tiyamacanは母親が妊娠中に輝きを放ち、出産後は家族に愛されました。Tiyamacanが成長したある日、彼女は洗濯をするために川に水を汲みに行った際に、海神の子 Felalakasに見つかり、五日以内に結婚する様に迫りました。Tiyamacanは慌てて家に戻り、その事を親や親せきに報告しました。すると親たちはあらゆる方法を講じてTiyamacanの輝きを隠そうとしました。(小屋に閉じ込めたり、生き埋めにしたり、豚小屋の泥を塗るなど)。 5日後、Felalakasは結婚を申し込みに来ましたが、家族と衝突。これに怒ったFelalakasは父親に大洪水を起こし、その混乱に乗じてTiyamacanを強奪するよう頼んだのです。Tiyamacanが強奪されると、両親と3人の兄は中央山脈に沿って北へ追いかけました。途中、杖が差し込まれた地面から泉が湧き出て、花東縦谷(花蓮から台東の内陸部)の川になりました。 3人の兄たちはそれぞれ中央山脈の南、中、北に定住して家族を持ちました。そして、Dadakiyoloは排灣族(パイワン族)(一説には布農族)の祖先に、Tadi'afo は平埔族の祖先に、Apotokは 太魯閣族の祖先になったと言われています。

Keseng Madapidap夫婦はTiyamacanを今の秀林郷崇德一帯まで追いかけましたが、一帶ケセンさんとマダダプさんは夫妻を今日チョンデさんがいる地域まで追いかけたが、Tiyamacanは既に海上に連れて行かれていました。Tiyamacanは両親が到着した時には既に自分は海上におり、どうする事も出来ない事を悟り、Felalakasに着いていく事を決めました。そして、Tiyamacanは両親に「海で嵐を見たら、稲妻は私の輝く姿、雷鳴は私の叫び、波は私が選択をしている、そして朝焼けが私の月経です」と言い残し、虱目魚(サバヒー)となって海に消えていきました。両親はそれでも海辺を離れず、Keseng は古代植物「Kadotakit」(ナツメヤシ)に、Madapidapは海鳥「'arongay」(アジサシではないかと追われています)に姿を変え、何時までも娘の帰りを待っていました。

何故、本文でTiyamacanについてお話したかと言えば、彼女の存在無くしては、阿美族を語ることも、次章でご紹介する太巴の起源についてもお話しできないからです。


【あまり知られていない日本の偉人:平井又八、太巴塱に散る】

皆さんは、平井又八という名前をご存知でしょうか。

彼は明治34年(1901)、台北第二尋常高等小学校(現在の台北市立東門国民小学校)の初代校長として台湾に赴任しました。彼は、校長という職務を果たす一方、台湾統治下における日本語教育の在り方、日本語教育を通して、如何にして日本精神を教えていくかという検討会においても活躍をしました。

台湾で何故、日本語教育が徹底されたのか。そこには、日本精神を教えるという大きな課題があったからです。当初、日本精神への同化を儒教を中核に据えた漢文教育で実現しようと考えましたが、漢文における「忠孝」と日本語における「忠孝」とでは意味が異なるため、漢文による日本精神への同化は実現不可能と平井は結論付けました。そこで、日本語での教育によって、日本精神を教える事になったのですが、そこで問題が生じたのが、仮名使いの方法です。日本国内における当時の仮名は、歴史的仮名、表音的仮名、折衷的仮名等々、複数の仮名使いがありました。そこで、台湾では折衷的仮名使いを採用するという事で台湾総督府側では決定したものの、1912年、日本国政府は歴史的仮名使いを継続する事を決定しました。これにより、日本精神を教えるという事が非常に難しいものとなり、台湾人、原住民に日本精神が浸透するまで一定の時間がかかってしまったとも言われています。

平井にはもう一つの顔がありました。それは、台湾原住民の昔ながらの習慣を研究するというものでした。そして、台湾総督府よりの依頼を受け、旧慣調査を開始しました。

1911年(明治44年)823日、平井は、花蓮県の太巴塱社へとやってきました。

彼は、砂荖部落(太巴塱部落の東端にある部落)へと赴き、そこの頭目と会い、同部落の阿美族達の昔ながらの習慣について調査を行いました。一通りの調査が終了し、頭目は平井の来訪を歓迎し、夜に宴会を開いてくれたのです。平井もその歓迎に大喜びしたそうです。宴会が終わり、ほろ酔い気分で寄宿舎となっていた太巴社番人公學校へ戻った平井。1037分、平井が眠る公学校へ七脚川社の阿美族5名が突然、襲撃をかけ、平井の首を切り落とし、逃亡しました。切り取られた首は、5人の犯人が、太巴社から花蓮渓(川)の河口付近までその首を高く掲げ、歩いたと言われています。

何故、平井は惨殺されたのか。これには、いくつかの説があります。

一つは、七脚川事件の残党であった5人の犯人が、その復讐のために、平井を襲ったというもの。

もう一つは、元々、七脚川社の阿美族と太巴塱社の阿美族は仲が悪かった。七脚川社の阿美族にとって、日本人の調査員が、自分達ではなく、太巴塱社の阿美族に旧慣についての調査を行った事に腹を立て、「太巴塱社の阿美族と関わると、このような目に遭うぞ」という見せしめのために犯行に及んだとも言われています。

筆者は、後者が理由ではないかと考えます。その理由としては、七脚川事件の復讐といっても、まず、あまりにも距離が離れている事。また、復讐のために、わざわざ対立する太巴塱社までやってくるかという事です。下手をすれば、自分達が太巴塱社の阿美族に襲撃される危険性があります。

七脚川事件で日本との関係が悪化した七脚川社の阿美族。何とか、日本との関係改善を図り、自分達の土地を取り戻したいと思っていました。そんな時、阿美族を代表して、日本側が選んだのが、よりによって、対立関係にあった太巴塱社。その中でも、特に、対立関係にあった砂荖部落を選んだという事で、完全に自分達の面子をつぶされたかたちとなりました。

故に、調査員を惨殺することで、今後は、砂荖部落に近づく日本人が少なくなるだろうと考えたのではないか考えます。しかし、彼らの思惑は大きく外れ、戦争中、花蓮にも空襲が起こると、鹽水港製糖・大和工場に勤務していた日本人やその家族、また、その近辺の日本人は全員、砂荖部落へと疎開し、その結果、大和工場周辺が空爆に遭った際、誰一人死傷者を出すことがなかったのです。砂荖部落の阿美族の人たちが、日本人の命を守ってくれたのです。

平井又八。ここにまた、誰にも知られていない日本の偉人がいました。


平井又八

建国路二段に並ぶ木彫刻

阿美族文化を描いた木彫刻の一つ


太巴塱公學校
國家文化記憶庫より




現在の太巴塱國民小学校


太巴塱派出所
國家文化記憶庫より



【参考文献】

*部落耆老的集體創作繪本 太巴塱部落創始經典故事 O Kimad no Tafalong

*台湾総督府 蕃族調查報告書第二卷1914


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