東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 鳳林の英雄、箭瑛大橋、客家の街、鳳林駅、校長夢工廠、客家文物館 【花蓮縣鳳林鎮】

 【鳳林の英雄 鍾 瑞龍さん】

終戦の年、194529日、鳳林の南端、光復との境に位置する鳳林森榮里に、鍾瑞龍さんは誕生しました。 森榮里は馬鞍川沿いにある集落。

19731010日 1500に、大型の台風NORA(娜垃)(中心付近の気圧は975hPa 中心付近の最大瞬間風速70m 最大雨量918.2mm:台湾気象局資料より)が南部の高雄沿岸を通過して行きました。台風による雨は8日から降り始め、9日には花蓮地方にも大雨をもたらしたのです。 この大雨により馬鞍川の水量は堤防を越える勢いで上昇していきました。

鍾瑞龍さんは、危険を察知し、大雨の中、集落の人々に対し避難を呼びかけると共に、堤防の決壊が時間の問題という段階になっても、集落の人々の避難、救出活動を行っていたのです。 その時、突然、堤防が決壊、集落にものすごい勢いで洪水が押し寄せてきました。残念なことに、鍾瑞龍さんは押し寄せてきた洪水にのみ込まれ、帰らぬ人となったのです。

台風NORAによる台湾の死者・行方不明者は68人、怪我人は85人という大惨事でした。

その後、鳳林では、危険を顧みず、大勢の集落の人々の命を救い、自らは、28歳という若さでこの世を去った鍾瑞龍さんの勇気を称えると共に、後世に彼の事を伝承するために、現場であった森榮里に「義人鍾瑞龍君記念碑」を建立しました。

場所は、台9線(国道9号線)南行き、馬太鞍橋の手前約500m東側に記念碑は建立されています。現在の記念碑は2代目の記念碑。初代記念碑は老朽化が進み、今から2010年に現在の記念碑に建て替えられたのです。初代記念碑も、同広場に今でも保存されています。

 

【箭瑛大橋】

鳳林鎮大栄里と山興里の間を流れる花蓮渓(川)。そこに一本の橋が架かっています。

1977年の夏、ここで痛ましい事故が発生しました。

当時、花蓮渓には竹の橋があるだけでした。台風によりこの唯一の頼みの橋が洪水で流されてしまいました。川向うの山興国民小学の教務主任であった陳国義氏と張箭教師、鄧玉瑛教師、林寶炫教師は授業を行うため、台風によって増水し、荒れ狂う川の中を、互いに手に手を取りながら渡っていきました。しかし、不幸にも、途中、張箭教師と鄧玉瑛教師の二人が足を滑らせ、流されてしまい、亡くなりました。

このニュースは、当時、台湾全土に伝わり、大きな反響を集めました。多くの人々が辺境で働く教師たちの献身ぶりに尊敬の念を覚えたのです。

当時、行政院長であった蒋経国はこの事故を知り、すぐにコンクリートの大きな橋を建設するよう指示しました。こうして1978年に大栄里と山興里の間に丈夫な橋が完成したのです。

橋の名前は、亡くなった張箭教師と鄧玉瑛教師の二名の名前を取って「箭瑛大橋」という名前がつけられました。その後、この話は「箭瑛大橋」という映画にもなりました。

箭瑛大橋の東側の小高い丘の上に箭瑛公園があります。公園内には二人の教師の銅像があります。

2019年、当時の鳳林鎮鎮長の蕭文龍鎮長が花蓮縣政府に対し約4億元の予算を申請し、2021年7月に「新箭瑛大橋」が完成しました。旧箭瑛大橋は自転車・歩行者専用の橋として保存されることになり、開通式の式典で蕭文龍鎮長は「1本の橋は張箭先生、もう一本が鄧玉瑛先生。新しい橋の2本の支柱は二人の先生をイメージしてデザインされていおり、これからも鳳林の街を守り続けてくれることだろう。」と挨拶しました。

 

【客家人の街 鳳林】

鳳林の街は人口1万人強の街だが、その内の6割が客家人と呼ばれる人達です。

客家とは、Weblio辞典によると、「原則漢民族であり、そのルーツを辿ると古代中国(周から春秋戦国時代)の中原や中国東北部の王族の末裔であることが多い。歴史上、戦乱から逃れるため中原から南へと移動、定住を繰り返していった。移住先では原住民から見て“よそ者”であるため、客家と呼ばれた。

中国内の移動・定着の歴史は、およそ6段階に分類され、最初が秦の時代辺りから江西地帯への入植、第2段階が西晋の八王の乱から永嘉の乱にかけて黄河流域の中原や華北の北方住人が長江以南に避難。第3段階が唐末の黄巣の乱に江西、福建、広東の奥地に南下。第4段階として南宋末期の元軍の侵攻により広東に拡がり、第5段階では、清の時代の領土拡大に伴い、西は四川省、東は台湾に展開、そして最後の段階として、海南島まで南下した。ほとんどの家に古代からの族譜があり、祖先信仰が強く、風習も頑なに守ってきたため、周囲から隔絶されて発達した客家語には古代の文語がうずもれるように残っている部分があるといわれている。」と記されています。

元々台湾では、台湾西部の桃園、新竹、苗栗に客家人は多く住んでいましたが、日本統治時代になり、花蓮に日本人移民村が出来た事により、その日本人の畑仕事や商売を手伝うために、台湾西部から花蓮へ多くの客家人が移民してきました。戦後、日本人が日本へ強制送還になった後、国民党の指示により、空き家になった日本人の住んでいた家を客家の人達に振り分けました。


【鳳林駅】

鳳林の街は、丁度、街の中心、西端に台湾鉄道鳳林駅があります。この駅は19103月に停車場として開設され、1912125日に駅舎が完成しました。現在の駅舎内は客家色が強調され、駅の柱には、桐の花をモチーフにした綺麗な客家柄で包まれています。

また、駅前には、右側にスローライフシティー(慢城)のシンボルであるカタツムリのオブジェが、左側には、勤勉家である客家人を象徴する「晴耕雨読」のオブジェがあります。

駅前には、大きなブーゲンビリアの木と、一本の木で5色に変化する五色樹が植えられています。駅前広場から東側へ少し緩やかな坂道が真っすぐ延びています。周りの建物こそ新しくなっていますが、駅前から見えるこの緩やかな坂道は、日本時代のままの光景を残しています。

 

【校長夢工廠】

駅前の通りを真っすぐに進み(東側)、中正路を左折(北側)、民生街を右折(東側)して進むと、右手に「校長夢工廠」という建物があります。実は、鳳林という場所は、とても教育熱心なところで、台湾全国で一番大勢の校長先生を輩出している場所なのです。この校長夢工廠は、日本時代は「鳳林支廰の廰長官舎」だった場所です。戦後、しばらくの間は、官舎として使われていましたが、痛みが激しくなり放置されていました。

2003年に建物は復元され今の「校長夢工廠」として一般公開されるようになりました。館内には昔、学校で使用されていた様々な用具が展示されています。どこか懐かしい用具が数多く展示されています。

何故、「校長」という名が付けられているかですが、実は鳳林は、台湾の学校長を一番数多く輩出している場所なのです。客家人の多い鳳林ですが、客家人は「晴耕雨読」の人達と言われるように、非常に勤勉な方が多く、その結果、学者、弁護士、教師、校長、政治家などになる方が非常に多いことが特徴です。

 

【客家文物博物館】

校長夢工廠を出て、さらに東へ進むと公園があります。その公園内に、「客家文物博物館」があります。立派な2階建ての建物で、館内には客家人の生活用品や歴史について展示されています。以前は照明が薄暗く、展示物も薄汚れしていましたが、2018年秋にリニューアルオープン。とても充実した展示内容に生まれ変わりました。客家人の生活について興味のある方は必見の場所です。

 

【歴史の生き証人】

鳳林鎮北林地区に住む昭和11年生まれのおじいさんは「今の家は、元々自分達の両親が住み込みで畑仕事を手伝っていた日本人の家でした。その日本人は子供を早くに亡くし、庭にお墓を建てていました。とても親切な日本人で、私のことを実の子供の様に可愛がってくれました。

日本人が帰った後、国民党の兵隊がやって来て、まず庭にあったお墓を潰し、そして、私達にここに住むように言いました。潰されたお墓は、土台だけが残り、今もそのまま保存しています。私達が住み始めて1年後、国民党より突然通知がきて、この家を買い取る様に言われました。当時はお金もなく、仕方ないので日本人が残していった家具や屋根に使っていたトタン(当時は高額で売れたそうです)を売り、お金を作りました。日本人との思い出は全て国民党に持って行かれた気がしました。だから、せめて、お墓の土台だけは残したかったのです」と語って下さいました。

そのおじいさんの家は、ほとんど日本時代のまま残されており、玄関を入るとすぐに、畳敷きの和室が今でも残されています。雨戸も当時のままです。

 

義人鍾瑞龍君記念碑

初代の義人鍾瑞龍君記念碑

 

箭瑛大橋


箭瑛大橋の橋名板

箭瑛大橋(写真右側)





箭瑛公園の胸像と説明碑

鳳林停車場の駅舎
國家文化記憶庫より

鳳林停車場駅舎設置に関する官報
国立国会図書館より

戦後初期の鳳林駅前
國家文化記憶庫より


1970年代の鳳林駅
國家文化記憶庫より

1970年代の鳳林駅前通り
國家文化記憶庫より

1980年代の鳳林駅
國家文化記憶庫より

客家色豊かな現在の鳳林駅

駅前にあるスローライフシティーのシンボル カタツムリのオブジェ

「晴耕雨読」客家の文化を表現したオブジェ

日本時代の鳳林駅前の地図
賀田金三郎研究所所蔵


校長夢工廠


客家文物館







*校長夢工廠:鳳林鎮民生街16

開園時間:830-1200  1330-1700 入園料:無料 休館日:毎週月曜日

*客家文物館:鳳林鎮中華路164

開園時間:830-1200  1330-1700 入園料:無料 休館日:毎週月曜日 

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