東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 林田尋常小学校(現、大栄国民小学校)、校長官舎、鳳林で一番古い日本家屋、林田橋、林田特攻飛行場 【花蓮縣鳳林鎮】

 【林田尋常高等(国民)小学校 校長宿舎】

林田官史警察派出所を離れ、北に向かって進むと、東側に水色の壁をした古く、朽ち果てた日本家屋があります。丁度、台湾ビールの事務所の隣です。

ここは、1914年(大正3年)に開校した林田尋常高等小学校(後の、林田国民小学校)の校長の官舎跡です。今は校長先生の官舎しか残っていませんが、昔は、その横に同じような建物が一軒と、二軒長屋が一軒建っていたそうです。すべて教員用宿舎となっていました。

地元の人達は、現在、崩壊が続く校長先生の官舎を何とか保存したいと活動を続けてくださっていますが、管轄が教育部(日本の文科省)となり、教育部自体が消極的なため、なかなか実現出来ずにいます。

官舎の屋根に注目してください。壽豐郷の「消えた日本の歴史」でもご紹介しましたが、屋根瓦で、少し形が変わった(渦巻き状の)4つの瓦があります。この瓦は、当時は、「校長先生」「村長」「署長」などの社会的身分の高い人の家にのみ使用されました。一般人がこの瓦を使用することは出来ませんでした。

校長先生の官舎の北側に大きなヤシの木があります。このヤシの木は、初代校長だった静岡県出身の佐藤亀之助先生(1914年(大正3年)~1918年(大正7年)まで校長を務める)がご自身の赴任を記念して植樹されたヤシの木です。樹齢100年以上のヤシの木は大変珍しいと言われています。

1914年(大正3年)に開校した林田尋常高等小学校。開校当時の生徒数は、男子41名、女子35名でした。翌年1915年には男子51名、女子46名、1916年は男子100名、女子83名、1917年は男子74名、女子71名でした。

学校内には金庫型の奉安庫が置かれ、教育勅語と天皇陛下のお写真が収納されていました。この奉安庫は現在も林田尋常高等小学校の後を引き継いだ、大栄国民小学校大切に保存されています。

開校時には佐藤校長の他に越山梅吉先生(長野県出身)と用務員の佐藤しんさん(静岡出身)の計3名だけでしたが、翌年には生徒の増加により佐藤校長以下3名の教師と用務員という体制へと変わっていきました。佐藤校長が林田を離れた後、石川県出身の奥村純太郎先生が校長として赴任、1924年(大正13年)まで校長を務めていました。この奥村校長時代の1920年(大正9年)にある大きな変化がありました。同年8月時点での教師の数は校長を併せて6名いたのですが、同年12月には校長と教員1名の計2名のみとなっています。翌年には4名に戻っています。この数か月の間に何が発生したのか。私が思うには、同年831日~95日にかけて台湾西部を襲った台風が影響しているのではないかと思います。この時の台風は、台中で625.4mm、台北で472.7mm、台南で721.7mmという猛烈な雨が降っています。西側都心部でも大きな被害が出たと思われます。そのために、比較的同年の台風では被害が少なかった東部の教員が西部の学校の応援に駆り出されたのではないかと想像しています。奥村校長の後が残されている記録ではわずか1年という最も任期の短かった岩野定市郎先生(新潟県出身)でした。

1926年・1927年の2年間は東京出身の木原徳治郎先生、1928年から1935年までが長崎県出身の松尾末吉先生、1936年から1939年までが熊本県出身の宮崎重人先生、1939年からが佐賀県出身の鶴田嘉治郎先生が校長として赴任しています。

 基本的には、この宿舎は校長が利用するものとされていましたが、校長が別に家を持っている場合や、他の理由でこの宿舎を利用しない場合は、教頭が利用していました。終戦間際の頃には、教頭の日下久夫先生がご利用されていたこともあります。

 

【林田尋常高等(国民)小学校】

宿舎からさらに北へと進みますと、西側(左手)に立派な松の木が見えてきます。ここが、林田尋常高等(国民)小学校、現在の大榮国民小学校です。

まずここでご注目頂きたいには、校舎の建て方です。コの字型に校舎が建っています。実はこの建て方、日本時代の校舎をそのまま再現しています。素材こそ、木造からコンクリートになり、2階建てになっていますが、形は当時のままです。正門前のロータリーも当時のままとなっています。

植樹されている松の木は、林田尋常小学校第一期卒業生が卒業記念に植樹したもので、すべて、樹齢100年以上の松の木となっています。

また、この学校には、日本時代の銃器庫がそのまま残されています。校庭には、当時の日本人の子供達が遊んでいた滑り台も残されています。

日本時代は、授業の一環として、農業実習がありました。そのために、学校の南側には、実習用の水田と畑まであったのです。

校舎の裏には講堂、その裏には大きな鳳木があり、当時は、その木陰で朝礼が行われていました。同校には奉安殿(教育勅語と天皇陛下のお写真を保管するための建物)はなく、その代わりに、奉安庫という金庫の様なものがありました。現在も、同校で大切に保存されています。

同校は日本時代を大切にしてくださっている学校で、私の知る限り、台湾国内でもおそらく一番、日本時代の面影を残している学校ではないかと思います。さらに、嬉しいのが、現在の大榮国民小学校の校歌ですが、何と、メロディーは、林田尋常高等(国民)小学校時代のメロディーをそのまま利用しています。これは、日本統治時代が終わり、台湾となった年にこの小学校に校長として着任された台湾人の李謀海校長先生が、「この林田村は、日本人と客家人とが共に汗を流して作り上げた村。日本人の歴史であると共に、我々客家人の歴史でもある。故に、日本時代の事を否定するという事は、自分達のルーツをも否定することになる。私は、日本時代の面影を少しでも多く残すことにした」と語ったそうです。

 

【旧林田村・中野部落で一番古い日本家屋】

旧林田村・中野部落(現、大榮二村)で現存する最も古い日本家屋と思われるのが、大榮国民小学校の北隣にある一軒の日本家屋です。日本時代は、工藤さんという勤め人の方が住んでいた平屋建の家屋です。戦後、ここにお住まいだったのが、前章の「歴史の生き証人」でご紹介した故張秀琴さんです。

 

【地神】

張さんの家からさらに北へと進むと、右手奥に立派な庭園が見えてきます。(農園路)この立派な庭園は、現在の家のご主人が、今から三十数年前から趣味で始めたそうです。きっかけは、「鳳林に観光で来た人達に楽しんでもらえれば」と思って始めたそうです。庭園にポツンと立つ石碑があります。これが、当時の中野部落の地神です。

元々の地神は、コンクリートの台座の上に大きな石碑が乗っていたそうですが、戦後、日本人が去った後、台座は撤去され、大きな石碑も壊されましたが、現在残っている部分がどうしても壊すことが出来ず、また、運び出すにも、あまりにも重く、牛車で運び出そうとしましたが、それも無理だったそうで、今の場所に安置したそうです。現在は、個人所有地になっていますので、無断で中に入ることは出来ませんが、外から参観することができます。この場所は、日本時代は中野部落の公民館があり、その裏庭に地神が奉納されていました。

この農園路という道、東西に真っすぐ伸びた道ですが、日本時代はここを、サトウキビを運ぶ軽便鉄道(当時は台車線と呼ばれていました)が走っていました。

 

【林田橋】

終戦後、台湾各地の地名はほとんどが中文名に変わりました。同時に、駅名、橋の名前も中文名へと変わりました。林田村も例外ではありません。南岡部落は金岡部落に、中野部落は、大榮一村、二村に名前を変えました。しかし、唯一、日本時代と同じ部落名として残ったのが、北林部落です。

大榮二村(旧中野部落)と北林部落の間には、鳳林渓(川)が流れており、そこにかかる橋が「林田橋」です。当時の橋の名前が今現在もそのまま使われています。

些細なことかもしれませんが、この様に、日本時代の名称が今もそのまま使用されていることは、日本人としては嬉しいことであり、有り難いことでもあります。

一説によりますと、この橋の橋脚にある「林田橋」のプレートは、戦後、国民党軍が来る前に、地元住民が一旦、橋から外し、国民党軍が去ったあと、再び、元に戻してくれたという話が残されています。

 

【林田特攻飛行場】

太平洋戦争末期、戦況は悪化しており、遂に、日本軍は特攻隊を生み出しました。花蓮港廳下(現在の花蓮県)にも4つの特攻隊飛行場が設けられました。北から「北埔飛行場(現在の花蓮空港)」「南埔飛行場(現在の知卡 宜森林公園)」「林田飛行場」「上大和飛行場(現在の光復糖廠の近く)」の4か所です。

林田飛行場は林田村北林部落の西側、現在の鳳林鎮南平里、北林里の境を走る台九線(国道9号線)の東側にあり、村民、学生達ですべて人力によって作られた飛行場でした。

この飛行場には、ゼロ式戦闘機と三八式戦闘機が配備されており、弾薬や燃料は近くの美晴山の洞窟に隠してありました。

林田飛行場の大きな特徴は、普段、滑走路上には、藁葺きの家が並んでいます。実はこの家、偽物の家で、家の下に台車がついており、飛行機が離着陸する際や敵機襲来の際、人力で動かして移動します。この仕掛けがあったのは、林田飛行場だけで、その結果、林田村へのアメリカ軍からの空爆の際も、爆弾一つ落ちず、飛行場は無傷でした。

弾薬や燃料を隠している美晴山には陸軍1786部隊(小川隊)が常駐していました。山には海軍「泉部隊」が高射砲を担当していました。当時は、この高射砲の一番射手として王天送さんという方が担当されていました。

王天送さんの手記によりますと、林田飛行場では2回、悲しい事故がありました。

最初の事故は、日本陸軍航空隊第100部隊の爆撃機が夜間、林田飛行場へ着陸するために降下していた際に事故が発生(原因不明)。花鉢工場(花盆工場)に墜落し、乗員12名全員が亡くなりました。

もう一つの事故は、南埔飛行場から飛び立った訓練機。その日は、この訓練機の操縦士の恋人が台東から遊びに来ていました。彼女を乗せた汽車が発車すると、それを見送るために、操縦士は訓練機に乗り、南埔飛行場を離陸。林田飛行場付近で汽車に追いつきました。恋人は汽車の窓から身を乗り出し、見送りに来てくれた彼氏に必死に手を振りました。操縦士の彼も、それに応えるように低空飛行で汽車に近づき、手を振り返していました。と、次の瞬間、訓練機は、電線に引っかかり、そのまま線路西側へと墜落したのです。何とも悲しい結末となってしまいました。

今は林田飛行場の面影は残されていません。畑、水田、宅地となってしまいました。

唯一、北林平順路の「樹林尾伯公廟」のそばに、六個のセメントの塊が残されています。このセメントの塊を人力あるいは牛を使って牽いて、滑走路を整備したのです。もちろん、その工賃などは出ません。すべてが「お国へのご奉仕」という名目で、無給でした。

林田飛行場の滑走路は、幅80m、長さ1500mの飛行場でした。飛行場には木造の小屋が建っていて、そこが指揮所でした。

 

【日本人墓地跡】

林田飛行場跡の北の端が現在の「平漢路」。そのもう一本北側に「平善路」という道があります。東へ延びる一本道。この道を真っ直ぐに進むと復興路へ出ます。

復興路を左折(北)すると清水川にかかる橋があります。この橋の手前に、「平吉路」「平祥路」という二本の道に挟まれた畑があります。ここが、当時の林田村日本人移民の墓地があったところです。戦後、原住民によって墓石は全て破壊され畑になってしまいました。今は、わずかに一基のお墓の土台が残っているだけ。これも、畑に作物が植わると見えなくなってしまいます。

私が日本人墓地を探し回って居た時、「日本人墓地があった事は知っているが、正確な場所はわらない」という方がほとんどでしたが、たったお一人、子供時代に近くに住んでいた方とやっとのことで巡り合うことが出来、場所を特定することが出来ました。また、この方のご自宅は、日本人が住んでいた家屋で、戦後、日本人が強制送還された後に住み始めたそうで、ほとんど手を加えていないません。玄関先には、当時の日本人の住民が敷地内に建てたお墓の土台が残されています。ご遺骨はそこにお住まいだった日本人の方が、引き揚げる際に持ち帰ったそうです。

終戦後、日本人は全員、日本への強制送還となりました。その際、日本人が持ち帰ることが許されたのは、柳行李(昔の衣装ケース)一人一個。一瞬にしてすべての財産を失ったのです。無の状態から必死なって得て来た財産。それが、敗戦と言う事ですべて失ったのです。31年間の林田村での生活で最後に残ったのが柳行李1個。お墓にある遺骨を持ち帰ることが出来た人は非常に少なかった様です。 

元日本人墓地跡で畑をしている方にお話を聞きましたが、当初は、かなりの数の人骨が出てきたと聞いているとおっしゃっていました。

戦争によって翻弄された当時の人々。敗戦によって人生が大きく変わってしまった人々。悲しい歴史が移民村には数多く残されています。

 

【歴史の生き証人】

☆張秀琴さんのお話し

「私が奉公していた平井さん宅には、娘さんと息子さんがいました。私は、学校へも行っていなかったので、算術も日本語もわかりませんでした。娘さんが学校から帰って来ると、いつも私に算術と日本語を教えてくれました。

日本が戦争に負けて、平井さん一家が日本へ戻る際、平井さんの御主人より「秀琴さん、この家のこと、お願いしますね」と言われました。私は今でもそのお約束は守り通しています。どんなに家が古くなっても、修理しながら住み続けています。今の時代、もっと便利な住み方もあるのでしょうが、私は、可能な限り、当時のまま使い続けています。それが、お世話になった平井さんへの恩返しだと思っています。

戦後、何年かしたある日、玄関先で、「秀琴さん、秀琴さん」と大声がするので出てみると、見慣れない日本人の青年が立っていました。彼は私に「秀琴さん、私のこと覚えていますか?」と言うのです。よくよくお顔を見るとどこかで見た事のあるお顔。私が子守をさせてもらっていた平井さんの息子さんだったのです。あの時の驚きと喜びは一生忘れません。

私の様な者のことを忘れず覚えていてくださり、わざわざ遠方から訪ねてくださった。本当に、有り難く、嬉しく思います。」と笑顔でお話くださいました。あの時の秀琴さんの笑顔は今でも脳裏に焼き付いています。

 

☆奥野武吉さんのお話し

「校長先生の宿舎に子供の頃行ったことがあります。当時は、教頭先生だった日下久夫先生がお住まいでした。

小学校の一番の思い出は、やはり運動会です。校庭のトラックの周りには各家庭から持ち込んだ牛車が幌馬車の様に並べられ、観覧席として利用していました。お弁当を食べ、大人は酒を飲み、運動会の度に酔っぱらっている人がいて、名物ピエロの様でした。運動会は一日中行われ、村の恒例行事の一つでした。」


校長先生官舎跡(2019年撮影)

2023年6月現在 痛みが激しくなっています

林田尋常小学校


当時の林田国民小学校校庭の配置図
奥野武吉さん提供


旧林田尋常小学校(現、大栄国民小学校)
正門前のロータリーは昔のまま


鳳林で残る一番古い日本家屋
故張秀琴さん宅


地神






奇麗に手入れされた庭(地神のある家)


今も残る林田の名前

林田飛行場跡に残るコンクリート製のローラー

唯一残る日本人墓地の痕跡


当時、日本人が住んでいた家屋

雨戸は当時のままです

当時の日本人が庭に作ったお墓跡


 

*林田尋常高等(国民)小学校(現、大榮國民小學校):花蓮縣鳳林鎮大榮里復興路85

 

 

【参考資料】

廖高仁 開村百年紀念 悦讀林田移民村

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