東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 菸樓、林田神社跡、林田官吏派出所、林田村役場と本願寺跡、防疫所・則末病院跡、【花蓮縣鳳林鎮】

 【菸樓(煙草葉乾燥小屋)】

当時、林田村で栽培されていた煙草の葉は、黄色煙草葉と呼ばれる種類のものでした。この黄色煙草葉を最初に花蓮の地で栽培を始めたのが、1899年に花蓮開拓のためにやって来た賀田金三郎氏だったのです。彼は、花蓮に来る前に、当時、台湾総督府に勤務していた、新渡戸稲造氏と会い、花蓮の地にふさわしい農作物は何かを相談しています。その結果、黄色種の煙草葉と紅サトウキビが適していると判断、北は新城から南は玉里まで、賀田農場を作り上げていったのです。もちろん、吉野村、豊田村にも賀田が残した黄色種の煙草葉畑はありました。

さて、この黄色種の煙草葉は釜で熱を加え人工乾燥する必要があります。その乾燥させるための建屋が、菸樓と呼ばれる建物です。菸樓は、鉄管を床上に配置し、その内部に熱風を循環させて菸樓内を高温乾燥させます。この菸樓には、大阪式と広島式の二つの形状があります。いずれの形状も、二間 x 二間(約4m x 4m)の平面を基本とし背の高い小屋で、火力乾燥の効率を上げるために土壁で出来ており、気密性、断熱性に優れていました。

大阪式と広島式の違いは、屋根の形状にあります。大阪式は、切妻屋根の頂部に「越屋根」と呼ばれる換気用の小屋根がのっています。一方広島式は、屋根の下に土天井を設け、断熱性を重視した作りになっていました。

林田村では、大阪式が主流として建てられました。理由としては、台風が来ると、広島式の場合は、屋根ごと飛ばされるのに対し、大阪式の場合は、越屋根だけの被害で済むというところからです。

大阪式菸樓は、壁は竹小舞土壁の大壁で仕上げられ薪を焚く焚き口と地窓(吸気口)、温度管理用の小さな小窓が付きます。乾燥方法としてはかまどで薪を焚き、床に張り巡らされた鉄管の中に熱を送り、その輻射熱で室内の温度をコントロールするというものです。煙草葉を吊す荒縄を一間スパンで6段吊します。荒縄を掛ける吊り木の間隔は50cm前後。そうした乾燥の機能上、平屋建ながら、軒高4m以上の内部空間が必要だったのです。

大阪式菸樓は、林田村の各所で見ることが出来ますが、特に集中して残っているのが、旧南岡部落一帯(現、大栄一村)です。

前章でも記しましたが、煙草葉の栽培はお金になり、収穫期を迎えると、大人達は収穫した煙草葉を専売局へ持ち込み、お金を手に、中野部落にあった競馬場へと向かったそうです。表向きはお金を賭けない草競馬となっていましたが、実際にはお金を賭けていたそうです。

当時の菸樓は、戦後、台湾人が住むようになり改装されたり、取り壊しになったりしましたが、旧南岡部落内(現、大栄一村)では比較的保存状態の良い菸樓が今でも残されています。尚、現存する大阪式菸樓は、個人所有となっておりますので、無断で敷地内に入らないようにしてください。

 

【林田神社跡】

林田神社は1915年(大正4年)66日に中野部落の南側に鎮座しました。

日本時代には、この神社の前を子供達が通る際は、脱帽し、一礼をして学校へと向かったそうです。また、戦争が始まると、毎月8日は、土日関係なく、全校生徒が林田神社に日本国勝利祈願に行きました。

毎年66日に神社例行祭が行なわれていましたが、丁度、農繫期と重なり、また、炎天下の日が続くという事から、1928年(昭和3年)からは毎年106日に行われる様になりました。

神社には、開拓三神と言われる「大国魂命」「大己貴命」「小彦名命」と台湾統治初期の近衛師団長であった北白川宮親王が祀られていました。

当時の林田神社は5段層になっており、外苑の地面が第一段、内苑の地面が第二段、拝殿が第三段、本殿高台が第四段、本殿が第五段となっていました。一般の人達は今と同じで、拝殿の前までとなっており、そこには、鈴と賽銭箱がありました。

神社参道の南側には「弓道場」「土俵」「手水」があり、その後ろには「開拓記念碑」「鎮座記念碑」がありました。(現在の開拓100周年記念碑とは別の場所です)例祭日と新年には境内で様々な行事が行われ、そのメインは相撲大会でした。行司は、元小結の「千歳川」が担当したという記録が残されています。また、部落内の結婚式、出兵祝賀会、本殿の裏庭では夏祭りなども行われました。

日本が引き揚げた後、神社は荒れ放題となりました。日本と台湾の国交が断絶し、台湾政府は1974225日に統治時代の日本の神社仏閣の取り壊しが決定しました。林田神社も鳥居、石灯篭などが取り壊されてしまいました。ただ、本殿の周りの玉垣(囲い)は取り壊しを免れました。現在残されている玉垣は当時のままのものです。よく見て頂くと、神社建立の際に寄付をした方々(当時の日本人移民)のお名前が今でも読み取ることができます。ちなみに、前章でご紹介しました奥野武吉さんのお爺さんの「奥野梅吉」と刻まれたお名前も残されています。

また、本殿には獅子頭が雄雌一体づつ奉納されており、お祭りの日には獅子舞が披露されました。しかし、戦争が激しくなり、舞う人が育たなくなったそうです。今はその獅子頭がどこにあるのかは不明です。

取り壊された鳥居・石灯篭は、敷地内に埋められました。本殿の一部のみが、本殿跡の左手の広場で発見され、今もそのまま放置されています。その後、神社跡地については球場にする案や黄色煙草葉栽培発祥地記念館」の建設案等々がでましたが結局は全てが立ちきれとなりました。

2012年には荒れ地となっていた場所を地元の人達が整備し、2014年(林田村開村100周年)には、当時の参道を再現すべく、鳥居と石灯篭が地元の人達によって新たに建立されました。

本殿こそないものの、参道が蘇り、当時の面影を取り戻した林田神社。しかし、やはりここにも訪れてくれる日本人は少なく、地元の方々も、「一人でも多くの日本人の方に見てもらいたい」とおっしゃっています。

林田神社の狛犬の一体は、鳳林市街地のお店の前に無造作に置かれています。もう一体の行方は分からなくなったそうです。

林田神社跡の前の道路(現、復興路)を見て頂きますと、驚くほど、真っすぐな一本道です。この道路は、日本時代に作られた道路です。実に3km、真っすぐな直線道路です。

 

【林田神社 秘話】

 神社の入り口右手には社務所がありました。立川虎之助宮司さんとその奥様が社務所に住まわれていました。立川宮司さんご夫妻は、朝夕、参道の掃除をするのが日課でした。19454月某日の朝、いつもの様に参道を掃除していた立川宮司さん夫妻は、後方で何やら大きな音がするので振り返ると、東側にそびえる海岸山脈を越えて、アメリカのグラマン機が飛んできました。山脈を越えて一番最初に見える大きな建物、それが林田神社でした。アメリカ軍機は一斉に機銃掃射をし、立川宮司さん夫妻は亡くなってしまいました。林田村を襲った空襲の最初の犠牲者であったとも言われています。戦後、神社の前を通る何人もの村人達が、亡くなった宮司さんの奥さんの姿を目撃したそうです。

神社の南東の角にコンクリート製の四角物体がありますが、これは当時の貯水槽で、そこに、アメリカ軍機の機銃掃射の跡が今でも残っています。

 

【林田官吏警察派出所】

1914年(大正3年)、林田村開村と同時期に出来たのが林田官吏警察派出所でした。

2013年(平成25年)2月に、地元の客家委員会が出資し、修復してくださいました。現在は、「客家庄移民村警察廳」と呼ばれています。

建物内部は、正面向かって左側、少し中に入り込んだ建物が留置所になっており、その横が警察官の事務所(派出所)になっています。建物の右半分は、住居。差し詰め、派出所というよりも、今の日本の駐在所に似た形式になっており、花蓮にあった派出所はほとんどがこの形態になっていました。事務所と住居部分は、室内でつながっています。

以前は地元の協会が管理を委託されていて、常駐の案内人の方がおられましたが高齢化が進み、残念ながら現在は中を見学する事は出来ません。事前に鳳林鎮公所に連絡をすれば、鍵を開けてくれる可能性もあります。

 

【村役場と本願寺】

派出所の南側(派出所に向かって左側)に大きな建物が建っていますが、ここが昔の林田村役場のあった場所です。丁度、派出所の正門左手に大きな木がありますが、これは日本統治時代からある木で、クスノキにガシュマロの木が巻き付いています。

元役場の南隣に今は民家があっていますが、ここに本願寺がありました。当時の林田村の門徒の状況は、浄土真宗126 真言宗12 禅宗12 日蓮宗2 法華6 一向2 道教4 天理教3 となっていました。

お寺には、191411月に栄浄雲布教師が到任、191612月に辞職、後任に、藤本信西布教師が着任され、毎月16日に「説教」が行われていました。

前章でご紹介した奥西武吉さんのお爺さん、奥西梅吉さんは、林田村での文化的行事では常にリーダー格の方で、盆踊りは高松の「一合まいたモミの種」を林田村のものにし、村芝居などもリーダーとして、村人をけん引されていました。

奥西家は代々、真宗大谷派東本願寺でしたので、もしかすると、この本願寺も真宗大谷派東本願だったのかも知れないと推測されます。お堂の前は大変広く、北向きに建っていました。

このお寺にあった釣鐘が、現在は、旧豊田村(壽豐郷)の碧蓮寺に安置保存されています。

 

【防疫所・則末病院】

林田官史警察派出所の対面に今は2軒の家が建っています。

まず向かって右側の赤い屋根の家は、昔の防疫所、今で言う保健所になります。マラリアの薬はここで無料でもらう事が出来ました。

その隣、白壁の角の家ですが、ここは村で唯一の診療所、則末病院です。ここでの治療が無理と判断された患者は、花蓮港市内(今の花蓮市)の花蓮港病院(現在の行政院衛生署花蓮醫院(花蓮市中正路600號))まで搬送されたそうですが、距離が遠いため、助かる命も助からなったケースが多く有ったと言われています。

 

【移民指導所後の農協専売所】

林田官史警察派出所の北側(右隣)に空き地があります。ここは、開村当時は移民指導所がありました。移民指導所としての役割を終えた後は、農協の倉庫として使用されていました。2018年前後までは朽ち果てた建物が残されており、建物の壁に「反共」という文字が残されていました。これは、戦後、国民党軍がやって来た時に書いたそうです。

この空き地の右側に「黒岩商店」という酒屋兼雑貨屋兼駄菓子屋兼切手印紙代行販売を行う商店が当初はありました。その後、黒岩商店はなくなり、農協の専売所(特売所)になりました。

林田尋常(国民)小学校の南隣には、田坂商店というお店があり、農協専売所が出来るまでは、学用品、味噌、醤油、衣料等々の販売を行っていました。農協専売所が出来ることになり、田坂商店は鳳林市街地へ移転しました。

 

【専売局・草競馬場】

現在は、台湾ビールの事務所となっている場所に、日本時代は、専売局の職員宿舎と事務所がありました。前章でもご紹介したように、ここは煙草葉の集荷場で、中に円形の小さなレールがあり、台車にタバコの葉を乗せて、等級検査や計量をしていました。

専売局と則末病院の間の大忠路を東へ約300m-400m進んだ南側、現在は田んぼになっているところに、草競馬場がありました。戦争が激しくなってから競馬は中止され、戦後は、完全に姿を消してしまいましたが、当時は、村人の娯楽として、大人だけなく、子供達も競馬のある日はたくさん集まったそうです。

 

【林田官史警察派出所 秘話】

先ほども書きましたが、派出所内は事務所と住居があり、中でつながっています。

左側から留置所、派出所、住居の順で、派出所正面入り口の右端に窓があります。その横に細長い開き戸がありますが、ここが住居用の扉。

朝になると、この扉から一人の警察官が出てきます。「行って来る」と言って出かける警察官。それを見送る妻と子供。警察官はそのまま前の道まで出て、右に曲がり、今度は派出所の門を通り、派出所へと出勤して行きます。帰りはその逆。

この姿をみた地元の台湾人の人達は、「中でつながっているのに、何故に、わざわざ一旦、外へ出て出勤するのか?日本人は面白い」と陰で笑っていたそうです。

日本人の律義さ、ケジメをつけるという姿勢がこんなところにも現れていたようです。

 

【火葬場 秘話】

 競馬場よりさらに東へ進むと一本の用水路がありますが、この付近に日本時代は火葬場がありました。台湾では人が亡くなった後、土葬する習慣でした。日本では火葬の習慣が始まっており、林田村でも、当初は日本人も土葬でしたが、次第に火葬にとなっていきました。亡くなった人を火葬する習慣を見た台湾人の人達は大変驚き、「日本人は野蛮だ」と当初は思ったそうです。

1954年以前、中野地区にはまだ街灯がなく、夜、酒を買いに出かけると、火葬場跡付近でいくつもの「火の玉(現地では鬼玉と呼ぶ)」が飛んでいたと言われています。

 

【歴史の生き証人】

 ☆張秀琴さんの証言

旧林田村中野にお住まいの張秀琴さんは、1928年(昭和3年)生まれ。(2016年に死去)

「私は9歳から14歳までの間、林田尋常高等小学校の北隣の日本人の家に住み込みで働いていました。炊事、洗濯、風呂番、子守が主な仕事で、給与も最初は4円、最後は9円までになっており、当時としては非常に良い待遇でした。

当時の警察官は非常に威厳があり、子供からすれば、「見るだけでも怖い」という印象がありました。いつも黒い制服に赤い一本線が入った黒い帽子をきちんかぶり、入口には自転車が置いてありました。いつも背筋をピンと伸ばし、それがまた、子供達からすれば、「怖い」という印象をさらに強めていました。

しかし、お祭りの日などは、笑顔で子供達にも優しく声をかけてくれましたよ。私にも「今日は楽しかったか」と声をかけてくださり、「ウン」と返事すると、「返事はウンじゃくてハイだ」と笑顔で言われたのですが、やっぱり、「怖い」とおもいましね」と笑いながらお話しくださいました。


【歴史の生き証人】

 ☆ご本人のご希望で、お名前は伏せさせて頂きます。林田村中野部落で生まれ育った日本人女性の方のお話しです。

 「当時、私は学校が終わると毎日の様に、兄と一緒に神社本殿の裏の広場へ行きました。当時の子供達の間で流行っていたのが、チャンバラごっこでした。女の子はほとんど私一人だったので、いつもお姫様役をしておりました。男の子達は各々に自分専用の刀というものを持っていました。この木の材料は、パンの木の枝です。遊び終えるとその刀はいつも決まった自分の場所に刺して帰りました。

 ある日、いつものようにチャンバラごっこが終わり、自分専用の刀を自分専用の場所(地面)に刺して「また明日ね!」と帰って行きました。しかし、その翌日以降、子供達がその刀を再び手にする事はありませんでした。敗戦により全員が日本へ強制送還となったのです。私達子供は、日本へ戻る日の朝まで、そのことは知りませんでした。

戦後、林田国民小学校の同窓会に出席した際、兄との思い出の場所でもある林田神社へ行きました。そこで私は驚くような光景を目にしたのです。いつも兄が自分専用の刀を刺していた場所に、立派なパンの木が育っていました。そして、周りを見ると、兄の友達が刺した場所と同じ場所にパンの木が育っていたのです。兄やそのお友達が二度と手にする事の出来なかった刀は、そのまま大地に根を生やし、今の大木へと成長しました。

兄は、帰りの引揚船で熱病にかかり、日本の地を踏むことなく命を落としました。兄は亡くなってしまったけど、兄の魂はこうやって今も林田村で生き続けています。このパンの木を切らずに保存してくださった地元の方々には心から感謝しています。」

 子供達の刀が大木になったパンの木は、林田神社右手奥にあります。

 

林田村での紅サトウキビ畑
國家文化記憶庫より

鳳林農場
國家文化記憶庫より


林田移民村
國家文化記憶庫より


現在も残っている菸樓(大栄一村)
当時のままの状態です


観光客向けに改装された菸樓


林田神社
國家文化記憶庫より

林田神社本殿前にて
國家文化記憶庫より

2014年 林田神社参道復元工事中の様子

完成した林田神社参道

当時のまま残されている玉垣

林田神社本殿跡


日本時代に作られた3kmの直線道路(現、復興路)


アメリカの艦載機の機銃掃射の跡が残る林田神社貯水槽

チャンバラごっこに使っていたパンの木が今はこんなに立派に

当時の林田神社の配置図
当時の敷地は、現在の神社跡の南側(本殿に向かって左側)の敷地も神社の敷地でした。
奥野武吉さん提供


林田官吏派出所
國家文化記憶庫より

復元された現在の林田官吏派出所

防疫所



黒岩商店
賀田金三郎研究所所蔵


 

 *林田神社跡:花蓮縣鳳林鎮復興路41

*林田官史警察派出所(客家庄移民村警察廳):鳳林鎮復興路71

 

【参考文献】

 *日本葉たばこ技術開発協会 「葉たばこ技術・研究史」乾燥編、平成3710日発行

*安藤邦廣・黒坂貴裕・沖本太一著 働く建築 再発見 日本の木組の小屋2 たばこ乾燥小屋 後編

*廖高仁 開村百年紀念 悦讀林田移民村

*臺灣總督府社會課編印的「臺灣に於ける神社及宗教」 1943



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