東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 豊田神社(碧蓮寺)、地神、嘆きの壁、消え去った日本の歴史 【花蓮縣壽豐郷】
【豊田神社(現、碧蓮寺)】
苦難の連続を村人が心を一つにして乗り越え、開拓していった豊田村。
その村人の心の支えでもあったのが、豊田神社です。1915年(大正4年)6月5日に鎮座。北白川宮能久親王、大国魂命、大己貴命、少彦名命をお祀りしていました。
現在は、「碧蓮寺」となっていますが、至る所に、日本時代の豊田神社の名残を見ることが出来ます。
昔の参道入り口には今でも鳥居が残されています。ここが昔の一の鳥居。今は、鳥居の上に「碧蓮寺」という文字が掲げられています。この鳥居をくぐって、神社(ここではあえて、神社と記させて頂きます)の入り口まで真っ直ぐの一本道。この道の一番奥、左手に、当時の小松宮司さん家がありました。(今は畑になっています)
2024年10月7日に、この一の鳥居を通過中のトラックの荷台が鳥居の上部に当たり、鳥居の一部が破損する事故が起こりました。この本を執筆している段階ではまだ修復はされていない様ですが、花蓮縣文化局が修復を行うと発表しておりますので、大丈夫かと思います。
さて、境内に入ってまず目に付くのが石灯篭。昭和初期に建立された石灯篭が今でもそのまま残されています。実はこの石灯篭、国民党がやって来た時に倒されたそうです。それを、地元の方々が一つ一つ組建て直し、今の位置に再び蘇らせて下さいました。
石灯篭を過ぎると、右手に「開村三十周年」の記念碑があります。これは第18代台湾総督の長谷川清氏によって建立されたものです。地元の方々のお話しでは、長谷川総督は非常に心優しい方で、常に、農民の生活、特に東台湾の日本人移民達の事を気にかけてくださった総督だったそうです。
記念碑を見終えたら、今度は碧蓮寺本殿に向って歩きましょう。本殿を正面に見て、左手にトイレがありますが、その前に一本の大木があります。これは樹齢300年~400年のサルスベリの木です。台湾に現存するサルスベリでは最も古い木と言われています。
これは昭和2年に、当時の宮司さんと豊田村の村長とが建立したものなのですが、先にも述べました様に、豊田村は大変苦労をした移民村でした。その当時の苦労を忘れることなく、そして、後世に伝え残していくために、あえて痩せた狛犬を建立したそうです。如何に開村当時の生活が大変であったかを物語る貴重な狛犬です。世界中に戦前の日本の神社跡があり、狛犬も残されていますが、これほどまでに痩せた狛犬はここでしか見ることが出来ないと思います。
次に、神々をお祀りしている方を見て頂くと、向かって右側に地母娘娘、天上聖母がお祀りされています。この地母娘娘の拝殿の手前に、高さ50cm強の銅製の釣鐘が置いてあります。これは、1914年に開村した日本人移民村の林田村(現 鳳林)の本願寺で使用されていた釣鐘です。どの様な経緯でここ碧蓮寺に保存されているのかは諸説ありますが、最も有力な説としては、戦後、国民党軍がやって来る前に、地元住民の人達が釣鐘を隠し、その後、近隣地区で一番最初に出来た碧蓮寺に譲り受けてもらったと言われています。戦争末期、日本は鉄不足でお寺の釣鐘も数多くお国のためということで接取されました。それだけに、この本願寺の釣鐘は非常に歴史的に貴重な釣鐘であると思います。
そして、向かって左側には、不動明王様がお祀りされています。現在は二体の像がありますが、奥側の大きい方の不動明王様は、前章で記しましたが吉野村の深堀神社に奉納されていた不動明王様です。仏像自体は、黒檀を使った木像です。
【地神と客家】
さて、台湾好きの方ならご存知かもしれませんが、台湾には客家人という人達が住んでいます。中国・広東省からやってきた人達で、独特の文化、習慣を持っています。その客家人の好む柄が桐の花の柄。その桐の花をモチーフにデザインされたのが客家柄生地。鮮やかな色使いが特徴です。花蓮の日本人移民村跡を訪ねると、この客家柄生地をよく目にします。
戦後、日本人が日本へ強制送還される際、日本人は、自分達が開墾してきた田畑、あるいはまた、商売で雇用していた客家人に託しました。彼らは日本人との約束を守り、その地で根を下し、日本人達が作り上げていったものを引継いだのです。そのために、日本人移民村のあった場所には、今でも大勢の客家人が住んでいるのです。ちなみに、現在の旧豊田村では、人口の80%が客家人と言われています。
【嘆きの壁】
地神を見学した後、道路の反対側へ渡りましょう。すると、植物に覆われた、緑のトンネルがあります。このトンネルを抜けて直ぐを右折し、少し進むと右側に古びたコンクリートの壁があります。
1970年代、日本から台湾への観光旅行に参加した一人の70過ぎのご婦人がいました。それまでは参加者と共に、台湾旅行を楽しんでいたご婦人でしたが、花蓮到着後、急に元気がなくなったのです。心配した添乗員が話を聞くと、このご婦人は旧豊田村の生まれで、「一度でいいから自分の生まれた場所を見てみたい。しかし、探す方法が判らない」という事。添乗員は、自由行動の日に、そのご婦人と一緒に、旧豊田村へ行き、ご婦人の記憶を頼りに生家を探したのです。やっとの事で、生家が見つかり、その家の前まで行った時、ご婦人は壁を見つめ、そして、その場に泣き崩れた。
ここで話は日本統治時代に戻ります。1913年に開村した豊田村。179戸、866人が第一期入植者として豊田村にやってきた。豊田村は「大平部落」「森本部落」「山下部落」に分かれていました。
その大平部落に「田原」という若い夫婦が入植してきました。原住民からの襲撃、マラリアの流行など、様々な困難を乗り越え、この田原夫婦は懸命に働いた。そして、やっと念願の子宝を授かり、父親は手放しで喜んだそうです。子供の出産日が近づき、父親は生まれてくる子のために、家を増築、外壁もセメントを新しく塗り直しました。
かなりの難産ではあったが、一人の女の子が誕生。手放しで喜ぶ父親。しかし、その喜びは一瞬にして悲しみへと変わったのです。母親が難産の末、命を落としてしまったのです。最愛の妻を失った父親は、生まれたばかりの子供を抱き、まだ、半乾きだった外壁のセメントに、亡き妻を思いながら、「田原」と指で名前を刻みました。ここに自分達が生きていた証を残したかったのでしょう。
話は戻り、壁の前で泣き崩れ、壁を指差す婦人。付き添った添乗員も、また、家探しを手伝ってくれていた地元の人達も驚き、戸惑いながら、婦人が指差す壁に目を向けると、そこには、「田原」という文字が壁に刻まれていたのです。
そう、その文字を刻んだのは婦人の父親。そして、父親が泣きながら抱っこしていた赤ちゃんこそ、その婦人だったのです。その後、ここは「嘆きの壁」と呼ばれる様になりました。
この「嘆きの壁」だが、近年、痛みが激しく、文字もすっかりと薄れてしまい、セメントも劣化してきており、今にも崩れ落ちそうな状態になっています。
【消え去った日本の歴史 村長の家】
この道沿いに2018年頃まで、日本時代の村長の邸宅が残されていました。痛みはかなりひどい状態ではありましたが、修復さえすれば十分に復元可能な状況でしたが、ここは個人所有の土地家屋、すなわち、私有地となっているため政府も手を出すことが出来ず、保存への協力を呼びかけ続けていました。当時、この家の持ち主は桃園に住んでおり、売却を考えているとの事でした。以前は、現在の持ち主の両親が住んでおられ、両親が健在の時には、壊れた部分を補修しながら、大切に使っていたそうです。しかし、両親が亡くなり、娘2人はそれぞれ嫁いでいるため、家の管理をするものがいなくなり、老朽化が一気に進んでしまいました。結局は、所有者の意向で取り壊されてしまいました。非常に貴重な歴史が消え去ってしまったのです。
【村長の家 秘話】
何故ここが村長さんの家であったと判ったか。それは建物に残されたある部分から判断できます。それは、屋根の上に乗っている瓦。渦巻き状の変わった形をした瓦があります。
実はこの瓦を家に利用できたのは、当時の校長、村長、警察署署長等々、身分の高い人の家にのみ使用が許されていました。人々はこの瓦のある家の前を通るときには、必ず一礼をして通ったと言われています。
【歴史の生き証人】
現在、豐裡村(旧豊田村)にお住まいの張さん(当時83歳の女性の方)のお話し(ご本人のご希望により苗字のみの表記とします)
「今、旧豊田村に住んでいる人はほとんどが、戦後、この地に来た人です。日本統治時代からここで住んでいた人は皆さん他界されました。戦後、この地に、碧蓮寺が出来た際、吉野村や林田村、そして、豊田村の仏像や釣鐘がこのお寺に集まってきました。私は、豊田村に来る前、日本統治時代は、林田村に住んでいたのですが、このお寺に日本時代の大切な物が集まって来た日のことを今でも鮮明に覚えています。何だか、日本人が帰って来てくれた様な気がして嬉しかった。毎朝、このお寺に来るのですが、ここに来ると、日本人の魂に会えるような気がします。
日本時代は本当によかった。治安もよく、鍵などかけた事がなかったし、日本人から色々な事を教わりました。あの頃が本当に懐かしい。以前は豊田会の人達が定期的にこの村を訪問してくれましたが、皆さん、私と同じように高齢になり、ここ数十年、久しく会っていません。時代の流れなのでしょうね、悲しいですね。」
開村30周年記念碑前の巫女
國家文化記憶庫より
*豊田神社跡(碧蓮寺):花蓮縣壽豐鄉民權街1號 台湾鉄道 豊田駅より徒歩15分
*地神:花蓮縣壽豐郷豐坪活動中心の隣
*嘆きの壁:花蓮縣壽豐郷東坪街29号の隣
コメント
コメントを投稿