東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 豊田村移民指導所、豊田官吏派出所、豊田尋常小学校、日本人墓地、広島式菸樓 【花蓮縣壽豐郷】

 【豊田村移民指導所】

1911年に開設された豊田村移民指導所。ここは、新天地を求めてやってきた日本人移民達にとって、最初に訪れる場所でした。

当時の日本人移民は、誰でも希望すれば移民になれたかと言えばそうではなく、日本側において厳しい審査が行われ、その審査に合格した者でなければ移民として台湾へ来ることは出来なかった。これは、明治初頭に実施した第一回ブラジル移民(これはブラジル政府に騙され、失敗に終わる。)の際の教訓を生かし、台湾総督府より日本国政府に対し、素行不良の日本人を絶対に台湾に送り込まないようにとの条件が出たからです。台湾総督府としては、地元の人達とも上手く融合していき、平和で発展性のある村づくりを強く望んでいたからです。

ちなみに、この基礎を築き、さらに、移民達への各種条件の基礎を作り上げたのが先にご紹介した台湾で初めての日本人移民村を開村した賀田金三郎であり、それを手本にして国営日本人移民村の骨格を作り上げた後藤新平でした。

 移民指導所では、まず、移民達への区画分け、一年分の作物の種と苗、移民生活における注意点等々、移民達がこの豊田村で生きていく上で重要事項を全てここで指導していました。

しかし、1917年(大正6年)7月から8月にかけて、台湾東部に続けて2つの大型台風が上陸、豊田村も甚大な被害を受けました。田畑は土砂に埋まり、作物はすべて流され、公共施設、住宅は倒壊。しかし、救援の手は全て吉野村に集中し、豊田村は孤立無援の状態となったのです。台風が去った後、伝染病が流行。大勢の村人が犠牲となったのです。豊田村の全ての復興が終わったのは、台風が去ってから何と7か月後の1918年(大正7年)3月でした。台湾総督府はこの時点で、豊田村への移民を終了し、移民指導所の廃止を宣告しました。この時、豊田村には約800人の移民が生活をしていました。

指導所が廃止という事は、政府の後ろ盾が完全に無くなったという事を意味します。村人達は、日本を出発する前に、日本政府から聞かされていた夢と希望に満ち溢れた新天地・豊田村であったはずが、突然、梯子を外されたようなかたちになり、完全に日本政府に騙されたと嘆いたそうです。しかし、いつまでも恨みごと、嘆きごとを言っても何も変わらないのだから、こうなったからには、村人が力を合わせ、一丸となって生き抜いていくしかないと奮起し、移民指導所の後を集会所(公民館)として利用し、全員が互いに協力をしながら生活をしていったとの事です。

その豊田村移民指導所、廃墟同然の状態でしたが、2014年、復元工事が行われました。ただ、とても残念なのは、復元工事終了後、そこを一般公開しているわけでもなく、中を見学する事も出来ず、ただ単に、外観を見るだけになっている事。正直、花蓮には数多くの日本時代の建造物が今も残り、復元されたものも数多くあります。しかし、復元後の管理運営はほとんどが地元任せ。しかし、地元も管理運営費、人材の問題で結局は宝の持ち腐れ状態になっている事が多いのが現状です。

 

【豊田官吏派出所】

現在の豐裡国民小学校の前にある建物が豊田官吏派出所跡になります。ここは現在、壽豐郷文史館として開放されており、中には昔の写真が数多く展示されています。こちらも、以前は村の人々が交代制で管理人として駐在していましたが、高齢化の問題もあり、今では閉まっていることが多くなっています。

実はこの派出所跡の前庭ですが、今は奇麗に整備されていますが、この整備は歴史的観点からすると大失敗です。と、言いますのも、以前は、この前庭には無造作に石が敷かれているように見えました。しかしこの石、大変重要な意味を持った石だったのです。日本時代、派出所に村人が来ると、警察官は一段高くなっているバルコニーに立ち、無造作に並べられた石を指さしながら「あなたはどこに家の人だね」と質問します。すると村人はその石を見ながら自分の家を指し示します。実はこの敷かれた石、村の地図だったのです。

当時は、字の読めない人も多く、口で説明するにしても上手く自分の家、若しくは、事件事故があった場所を伝える事が出来ませんでした。そこでこの敷かれた石の地図が大いに役に立ったのです。石が敷かれていない部分が川(用水路)を意味しています。そして、この一つ一つの石は家を現していました。そう、この前庭の石は森本部落の地図だったのです。素晴らしいアイデアだと思いました。しかし、非常に残念事に、見た目重視なのか、歴史的価値を知らなかったのか、今はその姿を見ることが出来ません。復元もまず、不可能でしょう。

 

【豊田尋常小学校(現、豐裡国民小学校)】

豊田派出所の前の小学校は、1913(大正2)年に開校した「花蓮港庁豊田尋常高等小学校」で、日本人の子弟だけが通う学校でした。豊田村開村と同時に開校したのです。丁度、正門の真正面に今は蒋介石の銅像が建っていますが、その後ろの建物は、旧武道館は戦後、講堂として使われ続けました。古い校舎が次々と建て替えられる中、ただ一つ当時の名残をとどめた建物で、2009年には、県の歴史建築に指定されました。文化資産となった学校建築は、東台湾ではここだけです。2017年には、復元工事が行われ、当時の写真を参考にしながら、可能な限り昔の姿を取り戻すように工事は行われ、同年1125日に完成式典が執り行われました。戦後、講堂は地元の人々の集会所も兼ねており、結婚披露宴なども行われていました。

 

【日本人墓地】

豊田村を訪れる際、宗派の違いはあるでしょうが、出来ましたら日本からお線香をご持参頂ければ嬉しいです。この豊田村には当時の日本人墓地が今も大切に残されています。

中山路282號の西側の路地を入っていくと右手に墓地が見えてきます。
現在残されている墓石は数基しかありません。墓石になったのは豊田村がある程度安定してからで、当初はすべて木の墓標でした。今は木の墓標は跡形も残っていません。この場所には現存する墓石以外にも無数の木の墓標が建っていたそうです。すなわち、ここには、数多くの日本人移民の遺骨が今でも眠っているのです。

この地を訪れた方々が、お線香を手向け、お水を撒き、先人達に向けて合掌して頂ければ嬉しいなあと筆者は思っています。

 

 【広島式菸樓】

日本人墓地の前に建っている古びた家があります。実はこの家は、現在台湾でたった一軒だけになってしまった、広島式菸樓という建物です。
豊田村は、稲作のほかに、煙草の葉の栽培が行なわれていました。この煙草の葉を乾燥させるための建物を菸樓と言います。
花蓮の場合、広島式と大阪式が採用されましたが、広島式は屋根の部分に大きな開口部があり、そのから風を取り込んで乾燥させるのですが、台風が多い花蓮。台風の度に、屋根が飛んでしまう広島式はダメだという事で、火力による乾燥方式を取っていた大阪式が多用されました。
建物はかなり傷んでおり、いつ撤去されても不思議ではない状態ですので、早めの見学をお薦めします。

 

【歴史の生き証人】

 1929年(昭和4年)に豊田村で生まれた谷口(旧姓 三窪)登美子さん。18歳の時に終戦を迎え、日本へ戻られました。

登美子さんのお父様の市之助さんは警察官をされていましたが、霧社事件の後、警察を退官され、豊田村へ移住されたのです。登美子さんは豊田村で生まれ、その後、弟さんお二人と妹さんお二人も豊田村で誕生されました。

家族仲良く笑顔の絶えなかった三窪家。その三窪家に悲劇が襲いました。1931年にまだ一歳にも満たない弟さんの健児さんが死去。1940年には愛するお母様のスミノさんが死去。1942年にはもう一人の弟さんの市郎さんが9歳で死去されました。

お母様が病に倒れた時、診察した医者が「伝染病」と誤診。家の周りは縄で囲われ、家族の外出は禁止されたそうです。近所の人は、家の前を通るとき、手で口や鼻を覆い、足早に駆けて行ったり、子供達は「悪い病気にかかった家」と石を投げたりされたそうです。お母様が亡くなられ、すぐに火葬するように命じられ、お父様は、一人、火葬場でお母様を荼毘に伏しました。

登美子さんは、「母が伝染病で亡くなったと誤診され、母が亡くなった際、遺体はすぐに運び出され、火葬場で焼かれ、骨だけが戻って来た。結局、後で、伝染病ではない事が判ったが、その時にはもう母は骨になっており、母との最期のお別れが出来ないままだった」と涙を浮かべながらお話しくださいました。もしも、最初の医者が誤診さえしていなければ、お母さんの命は助かったのかもしれません。

お母様と弟さんお二人のご遺骨は、豊田日本人墓地に埋葬され、木の墓標が建てられました。

20155月、戦後70年ぶりに、登美子さんと息子さん、お孫さんが豊田村を訪問されました。事前にお孫さんから筆者にメールを頂き、様々な情報を元に、当時お住まいだった場所も特定でき、当日、ご案内をさせて頂きました。そして、70年ぶりに、お母様、弟さん達が眠る墓地を皆さんで参拝。

「まさか生きている間に、もう一度この様に、母や弟達のお墓参りが出来るとは思ってもいませんでした。本当に嬉しい」と涙されていました。

お父様に関して登美子さんは、「父は、警察官時代の事はほとんど話しませんでした。こちらから尋ねても一切答えませんでした。何故、頑なに警察官時代の話をしてくれなかったのか、それだけが謎でしたが、今回、霧社事件の事を教えて頂きわかった様な気がします。父は非常に真面目な人でしたから、霧社事件は余りにもショッキングな出来事で、正義とは何か、何のために警察官は存在するのかなど色々と悩み、苦しみ、その結果、警察官を辞めたのだと思います。当時、警察官は士族出身者しかなれない職業で、当初は父も誇りを持って働いていたと思います。それだけに、残念でなりません。」と語ってくださいました。

三窪市之助さんは、日本へ帰国後、鹿児島県に移り住み、196232日、鹿児島県西佐多町にて73年の生涯に幕を閉じられました。

登美子さん達が花蓮を去られる際、花蓮駅のホームまでお見送りしたのですが、全員が涙を流しながらお別れしました。ご帰国後、息子さんの方からは、大変貴重な当時のお写真や文献、資料を送ってくださり、この場をお借りして改めて、心より感謝申し上げます。


警察官時代の三窪市之助さん


霧社事件当時の三窪市之助さん

三窪市之助さんと妻のスミノさん

三窪家兄弟姉妹(後列右端が登紀子さん)

戦後初めて、母、弟達の墓参りをされた登紀子さん


豊田村移民指導所
國家文化記憶庫より

廃墟となっていた豊田移民指導所跡

復元された豊田移民指導所


豊田官吏派出所


現在の豊田官史派出所


日本人墓地


旧豊田尋常小学校武道館


豊田尋常小学校
国立台湾大學図書館より

豊田尋常小学校
國家文化記憶庫より


豊田尋常小学校女児の仮装
國家文化記憶庫より

豊田尋常小学校
國家文化記憶庫より

豊田村の大阪式菸樓
國家文化記憶庫より

台湾で現存する唯一の広島式菸樓


*豊田移民指導所:花蓮縣壽豐鄉豐裡村文化街 
*豊田官史警察派出所:花蓮縣壽豐郷 豐裡村中山路320號
*豊田尋常(国民)小学校::花蓮縣壽豐鄉豐裡村中山路299號(現、豐裡國民小學校)












コメント

このブログの人気の投稿

東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 布拉旦部落・三桟神社 【花蓮縣秀林郷】

台湾近代化のポラリス 新渡戸稲造2 台湾行きを決意

台湾近代化のポラリス 潮汕鉄道3 重要な独占権獲得