東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 第二号国営日本人移民村 豊田村 【花蓮縣壽豐郷】

1910年(明治43年)6月に台湾総督府殖産局に移民事務委員会が発足されました。

1911年(明治44年)2月、同委員会は、土地が肥沃で、水田が多い場所だった鯉魚尾南方地域(現在の壽豊郷)を「豊田」と名付け、移民村を作ることを決定したのです。また、同年、豊田移民指導所が設立され、本格的な移民受け入れ準備が始まりました。ところが、同年、そして翌年の1912年(大正元年)と2年連続で大型の台風が花蓮を直撃し、先に開村していた吉野村に大きな被害が発生。政府は、日本人移民村モデルケースとして何としでも成功させたい吉野村の復旧工事を最優先させるために、豊田村開村のために用意されていた、資材、資金、人員を吉野村復旧工事に注ぎこんだのです。

そして、1913年(大正2年)、豊田村が国営第二号の移民村として開村しました。179戸、866人の第一移民に続き、139戸も続いて豊田村へと入植してきました。移民達が入植した際、豊田村にあったのは、9月に開校した豊田小学校と、粗末な公衆トイレの様な建物の豊田駅舎ぐらいでした。

豊田村での生活は、日本で思い描いていた世界とは全く違い、伝染病の蔓延、台風被害、野生動物による被害、そして、原住民の襲撃と、予想もしていないことの連続でした。また、吉野村とは違い、日本各地から移民がやって来たため、出身地ごとで方言、習慣の違いがあり、日本人同士の意思の疎通が上手くいかず、また、日本では農作業は親戚一同やご近所との助けい合いで行っていたものが、知り合いもいない場所での農作業となり、作業はうまく進まず、その結果、経済的にも吉野村と比較してかなりの差があったと言われています。

ちなみに、豊田村では、人口の五分の一が福岡出身者で、その次が熊本でした。それ以外には、徳島、香川、広島、山口、佐賀の出身者であったことが判っています。

 1915年(大正4年)に、豊田神社、豊田布教所(本願寺派)が完成。1916年(大正5年)からは豊田指導所が灌漑用水工事を開始(豊田堰)、翌年1917年(大正6年)に完成。これにより、各田畑に水が行き届くようになり、開村して4年後に、やっと豊田村も経済の基盤である農業が安定し始める予定でした。しかし、ここでまた、大きな問題が発生したのです。豊田堰が完成した年の7月、8月に台風が花蓮を直撃、田畑は流失、作物は全滅、公共施設、住居が倒壊、救援隊は吉野村に集中し、豊田村には来ず、村人は孤立無援の状態になってしまったのです。豊田村の全ての復興が終わったのは、台風が去ってから何と7か月後の1918年(大正7年)3月でした。

台湾総督府はこの時点で、豊田村への移民を終了し、移民指導所の廃止を宣告しました。この時、豊田村には約800人の移民が生活をしていたのです。

豊田堰の水質は石灰成分が多く、水田(稲作)には適さないことがわかったのです。そこで、この石灰分を沈殿させるためのため池が必要となり、工事を開始。1923年(大正12年)にやっとため池が完成しました。

 豊田村は「中里部落」を中心に、東側に「大平部落」、豊田神社付近の「森本部落」、台湾鉄道を越え、西側の「山下部落」に分かれていました。派出所、移民指導所、小学校、診療所、布教所、墓地は中里部落にありました。

入植当時の苦労は吉野村と比較にならないほど困難続きだった豊田村。その事を示す痕跡が、豊田尋常(国民)小学校の校歌からも読み取れます。以下が当時の小学校の校歌です。

豊田尋常(国民)小学校校歌)

朝に星をいただきて、夕べに家路に月を踏む

鬼茅ほこる荒野原 天変地異をたたかいて 荒部を拓き美田とし 村を定めし先陣を

讃えん我等が小学生 しのばん我等が小学生

 

鎮守の宮に神さびて チヤカン渓の水盡きず(つきず)

この良き所我が里の 学びの庭に集いたち 君が御陵威をかしこみて 先人の功讃えつつ

進まん我等が小学生 しのばん我等が小学生

 

豊田村の主力産業は農業以外に、石綿採掘がありました。1932年(昭和7年、ある説では1937年、昭和12年)、中島という猟師が山で狩りをしていたところ、草むらから獲物が飛び出してきたので追いかけましたが、途中で石に躓き転倒してしまい、ケガをしました。中島は傷の痛みに耐えながら、躓いた石に目をやると白い斑点のある緑色の石でした。中島はその意思を拾い、近くにあった洞窟をみると、洞窟内には同じ石がゴロゴロ転がっていたのです。これが豊田で石綿が発見された最初の話として、今でも語り継がれています。

豊田地区での石綿採掘は1937年(昭和12年)に砂田灰太郎らからなる砂田石綿鉱山研究所が台湾総督府に正式に採掘許可を申請。その後、1941年(昭和16年)に砂田林太郎が「台湾石綿有限公司」を設立し、石綿と滑石(かっせき)*1の採掘を続けました。

当時の日本は石綿鉱山に高い経済的価値を見出していました。石綿は軍需品の原材料の一つであり、断熱、防火効果があるだけでなく、砲身にも必要な材料です。太平洋戦争開戦後、カナダは日本に対して石綿禁輸措置を開始し、これにより日本も自国の領土内で石綿を積極的に探索する必要性が高まったのです。

1944年(昭和19年)頃、石綿工場は総督府により国有化されました。豊田地区では、大禾實業股份有限公司、中國石礦股份有限公司などが、第二次世界大戦が終わるまで長らく石綿と滑石の採掘がされていました。

戦後は石綿健康被害(アスベスト健康被害)などが問題視され、もっぱら、滑石=豊田玉=台湾ヒスイが中心産業となりましたが、1973 年の石油危機により世界的な経済不況が発生し、豊田のヒスイトは徐々に売り上げが落ちて、さらに、上質のヒスイそのものが品薄となりました。これは無制限に採掘を続けた結果でした。また、採掘コストも年々高くなってきました。その様な状況下で決定的な打撃となったのが、「偽物のヒスイ」が市場に出回った事でした。偽物の登場により、豊田ヒスイの価格は暴落し、遂に、1981年、台湾ヒスイの採掘は、採算が合わなくなったため中止されました。

現在は、以前に採掘されたヒスイの原石を加工し、台湾ヒスイとして販売されていますが、街中で見かける「台湾ヒスイ」の中には偽物も多く、注意する必要があります。

旧豊田村があった現在の壽豐郷を支える産業としては、有機野菜の栽培、バナナ、パパイヤなどの果物栽培、そして、台湾ヒスイの加工販売及びヒスイDIY体験が出来る如豊琢玉工坊などが地元の産業を支えています。

また、20212月に開館した花蓮県考古博物館は、考古学を専門とする博物館で、国内外の考古学ファンからも注目を浴びる場所となっています。花蓮県考古博物館には、地元で行われた発掘調査で出土した様々な時代の遺物が展示されており、その中の一角に日本統治時代の遺物も並んでいます。

台湾鉄道豐田站(豊田駅)から中山路を東に進んでいくと豊田移民村として様々な施設などが保存されていますが、残念な事に、日本からこの地を訪れる人は非常に少ないのが現状です。

 

【歴史の生き証人】

☆劉雙科さん。壽豐郷郷豊山村在住 201610月インタビュー(2017年に他界)

「私は桃園県平鎮の出身です。しかし、桃園での生活は貧しく、苦しいものだった。私が5歳の時に母方の祖父を頼って、花蓮の鳳林へと引っ越しをしました。

家族で祖父の田畑を耕し、農作物を耕作していました。しかし、私が7歳の時、鳳林に来て2年目に頼りにしていた祖父が死去。しかし、祖父の死去後、親戚達が私たち家族に対し、田畑の明け渡しを要求。桃園にはすでに家はなく、新天地の鳳林でも、望みの綱だった田畑を失い、私たち家族は、絶望のどん底に落とされました。そんな時、ある日本人の婦人から農地三甲地分の耕作をお願いしたいという依頼があったのです。

このご婦人、私は日本のお母さんと呼んでいましたが、夫を亡くし、女手一つで二人の娘を養っていた。しかし、農作業は女性一人では無理があったため、私たちにお願いをしたのでした。

実は後で知ったのですが、祖父が亡くなって、農地も失い、住む場所さえも失った私たち一家の事を日本のお母さんが人伝に聞き、私たち一家を受け入れてくれたのです。この日から、私たち一家と日本のお母さん、姉さん達との共同生活が始まりました。日本のお母さんは、自分の娘も私も分け隔てなく育ててくれました。一緒に食事をしたり、お風呂に入ったり、周りの人達も「まるで本当の親子、本当の姉弟のようだ」とまでいわれていました。本当に幸せな日々でした。

ところが、私が13歳の時、この幸せな家庭が一瞬にして崩壊したのです。昭和20815日。日本敗戦。日本人への強制送還が決まったのだ。

日本のお母さんは、花蓮港へと向かわなければならなくなった前日、「私は花蓮で夫を失った。でも、劉さんとの出会いで、立ち直れることが出来た。やっと幸せになれると思ったのに、また私は家族を失うことになった。家も失い、全ての財産も失い、そして、何もない日本へと戻らなくてはならなくなった。私は日本人。でも、台湾の日本人。花蓮の日本人。日本へ帰っても、そこには何もない、異国の地と同じ」と泣き崩れた。私の両親も、私も、皆が泣いた。夜通し泣きまた。

日本のお母さんと姉さんたちは、わずか1000円のお金と、柳ごおり一つの荷物だけを持って、他の日本人達と共に花蓮港へと出発していきました。

私と父は、鳳林の街で、もち米を使った甜粿という御餅を作り、夜中に鳳林の街を出発し、花蓮港へと向かいました。電車に乗るお金がもったいないので、夜通し歩いて花蓮港へと向かいました。そして、花蓮港で、日本のお母さんと姉さん達に会い、持ってきた甜粿を国民党の兵隊達に見つからない様に手渡しました。もうその時は、全員が声を出して泣きました。

そして、日本のお母さんと姉さん達の乗った船が見えなくなるまで、私は泣きながら手を振りつづけました。

今でも、あの時の光景を思い出すと涙が出てきます。」と、劉さんは泣きながら私にお話をしてくださいました。

 そして、「戦争は絶対にやってはいけない。皆が不幸になる。誰も幸せにはなれない。そして、台湾は日本人を追い出したことが一番の間違いだった。戦後も、日本人と一緒に生きていくべきだった。今の台湾を作り上げてくれたのは日本の皆さん。その恩人を追い出すなど、恩知らずのする事だ。本当に情けない。」と語ってくれました。

 

☆楊さんの証言74歳 20197月インタビュー(ご本人のご希望により苗字のみ)

「日本統治時代、学校の先生(日本人)から教わったことですが、三井物産の「三井」という名は、その昔、まだ三井と名乗る前、井戸掘りをやっていたそうです。井戸掘りは、水が出て初めてお金がもらえたそうで、外れた時は、一銭のお金ももらえなかったそうです。

ある時、井戸掘りの依頼が入り、早速、井戸を掘り始めましたが、一か所目は外れ。二か所目も外れ。でも諦めないで三か所目を掘り始めた時、なんと、宝物を掘り当て、これで一気に金持ちになり、会社を大きくしたそうです。その際、会社名を、三つ目の井戸で金持ちになれたことから、「三井」と名付けたそうです。」今でもこの話はよく覚えていますと、お話しくださいました。

 

☆廖さんの証言78歳 20197月インタビュー(ご本人のご希望により苗字のみ)

1945815日、日本の終戦を知った時、私はまだ4歳でした。でも、その日の事を今も鮮明に覚えています。

私は高田義夫という日本人として生れました。両親も自分達は日本人であるという誇りをもっていました。当初、日本が戦争に負けたという事を信じる者はいませんでした。しかし、天皇陛下からの玉音放送を聞いて、本当に日本が負けたと知り、皆が涙していました。

しかし、その時は誰も、自分達が将来、中華民国人にさせられるとは思っても居ませんでした。

1948年、アメリカ軍が用意した船で、蒋介石率いる国民党軍、約200万人がやって来ました。そして、いきなり、「今日からお前たちは中華民国人である」と言われ、日本語の使用を禁止され、学校教育もいきなり、中国語になったのです。

私が小学校に入学した時はすでに、中国語教育でしたが、それまで日本語で育っていた私にとって、中国語のみの学校生活は、当初は「苦」のみでした。

私は日本人として生れたに関わらず、中華民国人に無理した国民党が許せない。学校では一貫して、「日本は悪い国」と教わった。しかし、自分達はそれが嘘であることは知っていた。今の台湾は、日本が作ったもの。国民党はそれを奪い取っただけ。だから私は、この国が嫌いで、今は、一年内、半分はカナダに住んでいます。」と語ってくださいました。

 

 

豊田村の日本人が住む家屋
國家文化記憶庫より


戦後も日本人家屋は台湾人がそのまま住んでいました
國家文化記憶庫より


豊田村タバコ畑
國家文化記憶庫より





当時の豊田村地図
國家文化記憶庫より


1941年(昭和16年)67日の台湾東部新聞地方版報道では、花蓮県豊田村の夏祭り・草競馬が5日に豊田国民学校広場で盛大に開催されたと報じられている(報道:競馬は馬券を販売しない競馬イベントです)地元以外では花蓮港市や鳳林からも3,000人以上が来場。本日の競技では、吉野の「栄号」が223秒で優勝しました。

 

 

1941(昭和 16)年 6 1 日の地方版『東方報』は、花蓮県豊田馬生産協会が花蓮港湾局のために馬産業の活性化に尽力し、吉野馬と協力して取り組んでいることを記事で紹介した。馬生産協会は、国策に基づく馬生産の促進と普及において重要な役割を果たしていました。豊田神社例大祭に合わせた65日には、豊田中学校グラウンドで盛大な競馬大会が開催されました。(注:いわゆる「草競馬」とは、馬券を売らない競馬大会のこと)

 

1962年(民国51年)11月、豊田駅の庭園が完成。かつて東部線がまだ狭軌鉄道だった頃です。当時は、さまざまな駅で庭園デザインコンペが開催されました。1999年(大正5年)に駅設備が完成したのち、1981年(民国70年)に現在の駅舎が完成しました。 2015年(民国104年)、寿豊~南平間の複線開通に伴い、豊田駅は駅の内側線が取り壊され、列車の通過機能を失い、三等駅から簡易駅に格下げされ、寿豊駅に管理が移管されました。

 

 

1941(昭和 16)年 6 1 日の地方版『東台湾報』の報道では、花蓮港湾局所管の農業開発の先駆者として、花蓮港湾局管内の移民村、吉野、豊田、林田の 3 村が全国の移民村の先駆者として取り上げられている。農業開発政策の拡大にも重要な役割を果たした。移民村の農業青年の研修事業として、68日に豊田国民学校で三村連合青年同盟大会が開催されました。この画像は、台湾東部研究協会が収集したコピーから転載したもの。 1941年(昭和16年)は、花蓮港街が花蓮港街から市に昇格した翌年であり、港湾の完成により花蓮が急速に工業都市へと変貌を遂げた時期でもあった。日中戦争は数年続いているが、1941年(昭和16年)128日に太平洋戦争が開戦するまで、花蓮は、日本、台湾を代表する街の発展と繁栄を遂げた。

 

1941年(昭和16年)611日の台湾新報地方版報道には、豊田山の砂田石綿事業所は我が国唯一の石綿供給源であると記載されている。東部石綿株式會社(仮称)は、 台拓と砂田とが合弁して設立した新会社で、100 万円を投資する予定。この報道は東部台湾新報より引用されたもの。


花蓮縣考古博物館

 

 *1 滑石(かっせき、英: talc、タルクまたはtalcum)は、珪酸塩鉱物の一種でフィロケイ酸塩鉱物に分類される鉱物。あるいはこの鉱物を主成分とする岩石の名称。世界的にはタルク(talc)のほか、ステアタイト(凍石)、ソープストーン(石鹸石)、フレンチチョーク、ラバとも呼ばれることもある。

用途としては、製紙用の填料、プラスチック用あるいはゴム用の充填剤、陶磁器原料、化粧品用の顔料、医薬品(錠剤)用潤沢剤、農薬用担体、塗料用の顔料や増量剤に用いられる。

◎食品添加剤としては、既存添加剤、製造用剤に分類される。欧州連合(EU)内の食品添加物分類番号であるE番号では「553b」が割り当てられている。

◎ベビーパウダーの主原料である。ベビーパウダーをタルカムパウダーと呼ぶ事があるのは、滑石の英語名talcumに由来する。

◎印材としても用いられ、印材用には中国の山東省平度県産のものなどが販売されている。

◎ろう石と同じく石筆として工事用のマーキングなどにも用いられる(石筆にはタルク成分を不純物として含むものもある)。日本では明治時代に学校教育が始まると石板(粘板岩の板)とともに石筆(ろう石や滑石を鉛筆状に削ったもの)が広く使われるようになり、特に東日本では「石筆」として滑石が駄菓子屋などでも販売された。

◎社会科や図画工作などで勾玉づくりの教材にも利用されている。

◎利尿作用、消炎作用があるとされ、中国では硬滑石の名で用いられる。一方、猪苓湯(ちょれいとう)、防風通聖散(ぼうふうつうしょうさん)などの漢方薬に配合されるのは、ハロイサイト(英語版)、カオリンなどからなる軟滑石である。第十六改正日本薬局方には「カッセキ」の項に「本品は鉱物学上の滑石とは異なる」と記載されている。

◎悪性胸水患者に対する胸膜癒着術に用いられる。日本における製品名は「ユニタルク」(製造販売:ノーベルファーマ)。



*旧豊田村:台湾鉄道 豊田駅下車東側付近一帯

*花蓮縣考古博物館:台湾鉄道 豊田駅下車西へ徒歩2分

開館時間 水曜日~日曜日 09:30-17:00(閉館30分前から入館受付終了)

休館日 毎週月曜日・火曜日、祝日

入館料:50元


【参考資料】

*行政院文化建設委員会編 發現 豐田 一個日本移民村的誕生與發展

*廖高仁 悦讀日本官營移民村

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