東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 第一号国営日本人移民村吉野村開村前に発生した七脚川事件 【花蓮縣吉安郷】
現在、台湾の原住民の中で最も人数が多いのが阿美族です。北は花蓮新城から南は屏東恆春一帯に住んでいます。花蓮だけでも約52,000人の阿美族が生活をしています。
阿美族と一言で言っても南勢阿美、秀姑巒阿美、海岸阿美、卑南阿美、恆春阿美と5つの地域に分れており、各々、微妙に文化、風習、習慣が違います。また、部族にはその部族を現す色(シンボルカラー)があるのですが、花蓮は赤、台東は緑とその色も違います。
1901年(明治34年)10月、七脚川社(阿美族の言葉では、Chicasuanといいます)に日本の派出所が出来ました。この派出所が出来た目的は、太魯閣族への防衛のためでした。
日本側は阿美族に対し、隘勇線(原住民との境界線に設けられた防衛線)で働く戦士の募集を行うと共に、物資の輸送、道案内、郵便配達等々も阿美族に対し人員募集を行いました。
太魯閣族に対する阿美族防衛隊として、1907年(明治40年)「維李(北埔)隘勇隊」を、1908年(明治41年)には「巴托蘭隘勇隊」なるものを結成した。その後、各地に隘勇隊が結成され、数多くの阿美族がそこで働いていた。
いつ攻めてくるとも判らない太魯閣族。看守は長期に渡ったのですが、その割に給与は少なく、規律は厳しい仕事。その結果、離職する者や、七脚川社に近い勤務先に転勤させてほしいという阿美族が続出しました。
そこで、1908年(明治41年)7月に大規模な人事異動を行ったのです。しかし、この移動について遠方の海岸方面へ転勤を命じられた七脚川社區の隘勇隊19名が暴動を起こし、巡査1名が重傷を負わせ、山へ逃げるという事件が発生しました。
同年12月14日夜の9時に、支廰長警部の岩村慎吾は部下及び花蓮港支廰職員に召集をかけました。また、花蓮港駐屯守備隊長に応援要請を行い、綿貫歩兵中尉部隊の小隊と共に、七脚川社へと向かいました。七脚川社に到着した一行は、長老達を招集させ、山へ逃げた19名の反抗的な阿美族の身柄確保に向けての対策を練っていました。しかし、その最中、「維李(北埔)隘勇隊」「巴托蘭隘勇隊」からも4名の阿美族が脱走を図り、山へと逃げて行ったのです。
巴托蘭社區では阿美族による駐在所の焼き打ちにという事件が発生、数名の巡査が死傷。さらに、加禮宛派出所を襲撃し、山本増次巡査を殺害したのです。
本部附:警部2名、警部補2名、巡査20名、巡査補5名
兵站部:警部1名、警部補1名、巡査20名、巡査補5名
討伐隊:警部5名、警部補6名、巡査130名、巡査補38名、隘勇隊149名
を結成し、七脚川社區阿美族の討伐を開始しました。
日本側は、阿美族が逃げた山に、電流の通った有刺鉄線を張り巡らせ、彼らを山から一歩も動けない様にしました。兵糧攻めです。一方、山へ逃げ込んだ阿美族達は、太魯閣族からの襲撃、日本側の兵糧攻めと両方からの攻めにあい飢えと恐怖に苦しんでいました。そして、遂に、阿美族は降服。1909年(明治42年)2月18日「維李(北埔)隘勇隊」「巴托蘭隘勇隊」は花蓮港市の花崗山にて解隊式を行い、正式に解隊。同年3月16日午後2時に、森尾茂助と木下新三郎大隊長立会の元、帰順式を行い、さらに、七脚川社區の人達は花蓮各地へと分散さたのです。
この戦いによる死者の数ははっきりとしていない。30数名とも300数名とも言われています。
【参考資料】
*林素珍、林春治、陳耀芳三人等合著 原住民重大歷史事件 七腳川事件
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