東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 日本統治以前に勃発した原住民重大事件2 大港口事件(Cepo'戰役)
【大港口事件(Cepo’戰役)】
花蓮県豐濱郷の小さな部落、大港口村があります。「大港口」とは、阿美族の「Cepo’」(海への出口)が語源になっています。
この事件を受け、清朝は、それまで漢人の入山を禁じていた規則を解禁し、山地開拓を許可、同時に原住民達の漢人化を推し進めようとする「開山撫蕃」を発令しました。そして、台湾の北部、中部、南部を結ぶ道路建設を開始、1874年に、中北路と南路を完成させました。さらに、1875-1876年、彰化県から花蓮県瑞穂までを結ぶ中路を呉光亮指揮のもと完成させ、さらに、水尾から大港口までの道路(現在の瑞港公路)を完成させました。
しかし、これら工事の際、労働力として阿美族の人達が駆り出され、過酷な労働を強いられました。さらに1876年5月、台風が当地を襲い、その復旧作業にまたもや阿美族の人達が駆り出されました。この復旧作業のために、阿美族にとって一年一度の大切な祭事である豊年祭も執り行う事が出来ませんでした。
その結果、戦況は一進一退を続ける事になり、遂に、清朝側は融和政策を打ち出しました。清朝側が打ち出した政策は、下山し、新しい部落を構成、納納社(dafdaf)部落の青年たちに重要な任務を任せ、報酬も支払う事を清兵の呉光亮は約束しました。
12月に入り、阿美族達は寒さと飢えに苦しんでいた阿美族側もこの政策を受け入れる事にしました。
呉光亮は、納納社(dafdaf)部落の西側に、茅葺の家を建て、新たな納納社(dafdaf)部落を作りました。一方、納納社(dafdaf)部落の頭目馬耀珥炳(Mayaw’eping)派の青年165名に、台東県から米や補給物資の運搬を依頼しました。
1878年1月27日、納納社(dafdaf)部落の頭目馬耀珥炳(Mayaw’eping)達は台東での荷物の積み込みを終え、納納社(dafdaf)部落へ戻ろうとしていた時、平埔族の友人から、荷物を降ろしたらすぐにその場を立ち去る様にと忠告を受けましたが、彼らは信じず、台東を出発、午後3時頃に納納社(dafdaf)部落に戻って来ました。
そして、呉光亮が用意した宴会に参加したのです。彼らは宴会で酒を飲み交わし、新たな関係構築を約束、宴は大いに盛り上がりました。
頭目馬耀珥炳(Mayaw’eping)達が十分に酒に酔った時、突然、宴会の会場の四方から一斉に銃弾が撃ち込まれたのです。
165名の青年の内、160名は死亡、5名は怪我負いながらも漆黒の闇の中へと逃げていきました。部落にも火が放たれました。
頭目馬耀珥炳(Mayaw’eping)を始め、部落の幹部たちは全員殺害されましたが、頭目馬耀珥炳(Mayaw’eping)は最後に「太巴堲部落の青年に助けろ求めろ」と言い残しました。
頭目馬耀珥炳(Mayaw’eping)の遺言を知った納納社(dafdaf)部落の人達は太巴堲部落の頭目伊尼赫(Inih)に助けを求め、伊尼赫(Inih)は、彼らをバラバラに山の中へと逃がし、その一方で、清朝側に対し、納納社(dafdaf)部落の清朝への引き渡しを条件に、和議を結び、この事件に終止符が打たれました。
この際、清朝は、太巴堲部落に対し事件を終結させた報奨として、稲作の指導を行いました。これが阿美族達の稲作の始まりと言われており、その後、稲作作りが盛んに行われる様になり、現在に至っています。
この様な悲劇が花蓮で起こっていた事を知る日本人は少ない。
清朝=中国が花蓮の原住民阿美族の人達に行った行為を日本人にも知って頂き、何かを感じて頂ければ幸いです。
2022年8月、花蓮縣豐濱鄉公所の主催で、145周年追悼式が行われ、正式名称を「Cepo’戰役」とすることが決まりました。
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