東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 太魯閣族最大の部落 秀林部落と武士林神社(祠) 【花蓮縣秀林郷】

【秀林部落】

 花蓮県北部に位置する秀林郷。花蓮県最大の面積を誇る秀林郷には、有名な太魯閣(タロコ)渓谷も属します。風光明媚な太魯閣渓谷ですが、202442日の花蓮大地震の際に大きな被害を受け、同年91日現在も復旧工事が進められています。

秀林郷の人口のほとんどが太魯閣族という太魯閣族の故郷ともいえる場所です。

 「太魯閣族は佐久間総督時代に討伐されたのではないか?」という質問をよく受けるのですが、実は、日本が台湾を統治した当初、台湾総督府は山に住む原住民に対し、日本側が土地と建物と教育を用意するので、山から平地に移住するようにと呼びかけました。これに素直に応じて平地に住むようになった太魯閣族と、この呼びかけに最後まで抵抗した太魯閣族がいました。佐久間総督が討伐対象としたのが、後者の太魯閣族です。現在、秀林部落など、花蓮県下に住む太魯閣族は、前者の太魯閣族の末裔となります。

 秀林部落は、日本統治時代は、武士林(ブスーリン)と呼ばれていました。

この「武士林」という地名は、太魯閣語の「Bsuring=祖先の住む場所」という意味があります。日本統治時代に、日本人がこの地に太魯閣族のために部落を作りました。その際、地名を決めるあたり、太魯閣族が名付けたBsuringという地名を漢字に置き換えたのが「武士林」です。

戦後、一時期ここは「士林(スーリン)」と名付けられましたが、台北に同じ名前の地区が出来たため、発音が似ている「秀林(ショーリン)」と改名されました。

 現在の秀林部落は、やや高台に位置するため、場所によっては太平洋が一望できる場所もあります。部落内の家の壁には、昔の太魯閣族の生活を描いたモザイクがあり、また、各家の前では、四季折々、美しい花を見ることもできる。

尚、秀林部落はあくまでも太魯閣族の方々が生活をしている場所ですので、勝手に、人の家の庭に入ったり、物珍しそうに家の中を覗き見たり、無断で写真を撮影するような事は決してしないようにしてください。トラブルの原因となります。

 日本統治時代、武士林部落には、小学校、病院、駐在所が設けられました。太魯閣族と日本人が同じ部落内で生活をしていたのです。もちろん、住む場所は違い、日本人は現在の秀林派出所から南側、丁度、武士林神社参道入り口付近にかたまって住んでいました。当時は日本人の住宅はヒノキ作りの日本家屋でしたが、国民党が台湾に来た際、この日本人家屋は全て取り壊されてしまったそうです。

 秀林部落の最寄駅は新城(太魯閣)駅になりますが、この駅の後方(西側)に、頂上が尖った山があります。新城山(標高1240m)と呼ばれる山ですが、この山は、秀林部落の人達にとっては、守り神と言われています。太魯閣族の人達にはこの山の姿が、羽を休める鷹の様に見えるそうです。

 太魯閣族の間では昔から自然の神を崇拝する「ガヤ」と呼ばれる信仰がありました。

今でも、冠婚葬祭、子供の入学、卒業など、人生の節目節目には、豚を一頭つぶし、そのしっぽと足と耳、そして、煙草、お酒、檳榔(ビンロウ)を持って、家長が新城山にお供えに行くという習慣が残されています。

山は元々、自分達の祖先が住んでいた場所。祖先の霊が今でも山で生き続けていると信じられており、おめでたい出来事があった時には、祖先が嫉妬しないように、悲しい出来事があった時には、祖先に救いを求めたり、亡くなった方の魂が迷うことなく祖先の元へ行けるように、お供えを持って行くそうです。

 

【武士林神社祠)跡】

 さて、日本が台湾を統治した後行った様々な政策の一つに「国民精神総動員」すなわち、皇民化運動というものがありました。皇民化運動とは、台湾に住むもの全員に、日本語教育を受けさせるというのが最も有名ですが、それ以外に、神社を建立し、全員が神社にお参りに行く習慣を植え付けました。特に、原住民が住む部落には各部落に一社、神社を建立し、日本への忠誠心を神々に誓うというものでした。また、第二次世界大戦が始まってからは、毎月8日に、曜日は関係なく、台湾全国の子供達全員(日本人・台湾人・原住民など全員)が、日本の勝利を祈願するために神社にお参りに行きました。

花蓮最大の太魯閣族の部落、秀林部落にも武士林神社(現在は、秀林神社跡と呼ばれています)が建立されました。

 場所は秀林部落の南の外れ、秀林派出所の近くに、秀林第二橋という小さな橋があります。その橋を渡った「民享1号と1号之1」の間の細い道を山の奥へと進んで行きます。500mほど進むと武士林神社跡が見えてきます。現在残されているのは、灯篭の台座部分と階段、本殿の土台のみとなっています。

武士林神社は、1924年(大正13年)1023日に鎮座したと言われており、神宮大麻取代「霊代」の大麻奉斎殿があったと言われています。昭和12年(1937年)1110日にお社の建て替えが行われたと言う記録が残っています。


【秀林部落秘話】

 (1)現在、この秀林村に住む太魯閣族の男子で、最も多い名前が「Buya(ブヤ)」という名前です。(太魯閣族の名前の付け方ですが、まず、自分の名前+父親の名前+名字となります。)

実はこのBuyaと名前は、日本統治時代に秀林駐在所で勤務していた日本人警察官の方のお名前なのです。(武屋さんではないかと推測します)この日本人警察官は、太魯閣族、日本人の分け隔てなく、常に公平な立場で物事を判断され、また、非番の日には太魯閣族、日本人の子供達を集め、勉強を教えたり、一緒に遊んだりと太魯閣族の人達からも大変信頼され、尊敬されていた警察官だったそうです。そこで、太魯閣族の母親たちは、自分の子供にも、この警察官の様に立派な大人になって欲しいと願い、「Buya」と名付けたそうです。

ちなみに、筆者の太魯閣族の友も「Buya」と言い、その従兄弟も「Buya」でした。秀林部落で大声で「Buya!!」と呼ぶと、大勢のBuyaが集まって来ます。

 (2)秀林部落は南北に細長い部落で、部落内には一本の道路が南北に貫いています。その中央辺りに橋があるのですが、昔は、橋の北側が上部落、南側が下部落と呼ばれ、元々は違う場所(山)に住んでいた太魯閣族同士だったため、一昔前までは仲が悪かったそうです。また、部落内への部外者の立ち入りが制限されていた時期もありました。

 (3)以下は、太魯閣族の友人が自分達の部族について語った内容です。

太魯閣族は元々狩猟民族だった。狩に出て、獲物を獲って帰ると、その肉が無くなるまで次の狩に行かないという生活をしていた。そのDNAが残っていたのか、昔は、働きに行っても、給与が出ると、次の日から仕事に行かなくなる。お金が無くなると、また働くという人が多かった。そのため、正社員としてはなかなか雇ってもらえず、日雇い労働者が多かった。また、酒好きが多く、酒が原因の事件、事故も多く、朝から酒を飲んで、カラオケ三昧という人も多かった。さらには、酒が原因の病気も多く、若くして病死する人や麻痺などの後遺症が残る人も多かった。今の若者はそう言った堕落した大人達に嫌気が差し、部落を出ていく者が増えた。悲しい事ではあるが、太魯閣族の将来を考えて場合、その方が良いのかもしれない。

 (4)同じく、太魯閣族の友人の話として、

徴兵で陸軍に配属になると24時間歩き続ける軍事訓練がある。地図だけを渡され、山の中に放置され、そこから数人がグループになってゴールを目指す。食材や金銭は一切持たされない。自分達で現地調達するしかないという過酷な訓練。太魯閣族は同じ太魯閣族同士でグループになるのだが、我々は、普段から山の中を歩くことは慣れており、獲物を狩って食べる事も出来る。だから、食べる事には困らないのだが、台湾人達は慣れていないので、空腹に耐えながらの訓練になる。ちなみに、阿美族は、食べる事が出来る木の実、草花、キノコについては良く知っており、彼らはそれらで乗り越えていた。

 

 【歴史の生き証人】

 この話は、事実かそうでないかは不明とされてきた話ですが、秀林部落に住む太魯閣族の長老の方から名前は絶対に公表しないことを約束した上でお聞かせ頂けた内容です。

 山の原住民であった太魯閣族達を平地で生活をさせるにあたり最も頭を痛めたのは、彼らは頭目の言う事以外は一切聞かないという事でした。原住民の部落には必ず一か所、駐在所が設けられましたが、駐在所所長のいう事もなかなか聞かなかったそうです。そこで、台湾総督府が出した命令は、「日本に妻子がいる、いないに関わらず、所長は自分の管轄する部落の頭目の娘またはそのもっとも近い縁者の娘と結婚する様に」というものでした。

これにより、所長は頭目の縁者となり、部落の人達は所長のいう事を聞く様になったそうです。しかし、終戦後、所長は日本へ引き揚げる事になり、その際に、妻子を日本へ連れ帰ったかどうかの記録は一切残されていません。当時の時代背景から考察すると、原住民の妻子を日本へ連れて帰ることはなかったと考えられます。また、部落の人達も、国民党軍が来た際に、誰が頭目なのか、誰が日本の警察官の元家族だったのか、一切口を割る事がなかったそうです。そのために、この事実は闇から闇へと葬られ、今では、誰も知っている者はいなくなりました。

 実はこの今回お話をお聞かせくださった方の縁者の中に、祖父が別の部落ですが、そこの駐在所所長で、日本人だったそうです。

戦後、日本への送還が決まった際、祖父は家族を一緒に日本へ連れて帰ろうとしたそうですが、日本政府がそれを許さず、涙の別れとなったそうです。

祖父は「いくら戦争に負けたからと言って、また、いくらお国の命令だからと言って、自分の様に家族を引き裂かれた者が大勢いる事、許しがたいことである」と家族全員で自害するつもりだったそうですが、同僚、部下の警察官の人達に止められたそうです。

 太魯閣族の人達の顔を見ていると、大きく2種類に分かれます。南洋諸島の人達の様な顔をした人と、どこか日本人に似ている顔をした人がいます。肌の色も違います。

 

 *武士林神社跡:花蓮縣秀林郷秀林村民享1號と1號之1の間を西に約500m

 *秀林部落:台湾鉄道新城(太魯閣)駅から徒歩約15

 文中内で「部落」と表現しているのは、日本語で言う集落を地元では「部落」と表現されているため、あえて、「部落」と表現させて頂きました。




武士林神社跡

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