東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 太魯閣族最大の部落 秀林部落と武士林神社(祠) 【花蓮縣秀林郷】
【秀林部落】
秀林郷の人口のほとんどが太魯閣族という太魯閣族の故郷ともいえる場所です。
この「武士林」という地名は、太魯閣語の「Bsuring=祖先の住む場所」という意味があります。日本統治時代に、日本人がこの地に太魯閣族のために部落を作りました。その際、地名を決めるあたり、太魯閣族が名付けたBsuringという地名を漢字に置き換えたのが「武士林」です。
戦後、一時期ここは「士林(スーリン)」と名付けられましたが、台北に同じ名前の地区が出来たため、発音が似ている「秀林(ショーリン)」と改名されました。
尚、秀林部落はあくまでも太魯閣族の方々が生活をしている場所ですので、勝手に、人の家の庭に入ったり、物珍しそうに家の中を覗き見たり、無断で写真を撮影するような事は決してしないようにしてください。トラブルの原因となります。
今でも、冠婚葬祭、子供の入学、卒業など、人生の節目節目には、豚を一頭つぶし、そのしっぽと足と耳、そして、煙草、お酒、檳榔(ビンロウ)を持って、家長が新城山にお供えに行くという習慣が残されています。
山は元々、自分達の祖先が住んでいた場所。祖先の霊が今でも山で生き続けていると信じられており、おめでたい出来事があった時には、祖先が嫉妬しないように、悲しい出来事があった時には、祖先に救いを求めたり、亡くなった方の魂が迷うことなく祖先の元へ行けるように、お供えを持って行くそうです。
【武士林神社(祠)跡】
花蓮最大の太魯閣族の部落、秀林部落にも武士林神社(現在は、秀林神社跡と呼ばれています)が建立されました。
武士林神社は、1924年(大正13年)10月23日に鎮座したと言われており、神宮大麻取代「霊代」の大麻奉斎殿があったと言われています。
【秀林部落秘話】
実はこのBuyaと名前は、日本統治時代に秀林駐在所で勤務していた日本人警察官の方のお名前なのです。(武屋さんではないかと推測します)この日本人警察官は、太魯閣族、日本人の分け隔てなく、常に公平な立場で物事を判断され、また、非番の日には太魯閣族、日本人の子供達を集め、勉強を教えたり、一緒に遊んだりと太魯閣族の人達からも大変信頼され、尊敬されていた警察官だったそうです。そこで、太魯閣族の母親たちは、自分の子供にも、この警察官の様に立派な大人になって欲しいと願い、「Buya」と名付けたそうです。
ちなみに、筆者の太魯閣族の友も「Buya」と言い、その従兄弟も「Buya」でした。秀林部落で大声で「Buya!!」と呼ぶと、大勢のBuyaが集まって来ます。
太魯閣族は元々狩猟民族だった。狩に出て、獲物を獲って帰ると、その肉が無くなるまで次の狩に行かないという生活をしていた。そのDNAが残っていたのか、昔は、働きに行っても、給与が出ると、次の日から仕事に行かなくなる。お金が無くなると、また働くという人が多かった。そのため、正社員としてはなかなか雇ってもらえず、日雇い労働者が多かった。また、酒好きが多く、酒が原因の事件、事故も多く、朝から酒を飲んで、カラオケ三昧という人も多かった。さらには、酒が原因の病気も多く、若くして病死する人や麻痺などの後遺症が残る人も多かった。今の若者はそう言った堕落した大人達に嫌気が差し、部落を出ていく者が増えた。悲しい事ではあるが、太魯閣族の将来を考えて場合、その方が良いのかもしれない。
徴兵で陸軍に配属になると24時間歩き続ける軍事訓練がある。地図だけを渡され、山の中に放置され、そこから数人がグループになってゴールを目指す。食材や金銭は一切持たされない。自分達で現地調達するしかないという過酷な訓練。太魯閣族は同じ太魯閣族同士でグループになるのだが、我々は、普段から山の中を歩くことは慣れており、獲物を狩って食べる事も出来る。だから、食べる事には困らないのだが、台湾人達は慣れていないので、空腹に耐えながらの訓練になる。ちなみに、阿美族は、食べる事が出来る木の実、草花、キノコについては良く知っており、彼らはそれらで乗り越えていた。
これにより、所長は頭目の縁者となり、部落の人達は所長のいう事を聞く様になったそうです。しかし、終戦後、所長は日本へ引き揚げる事になり、その際に、妻子を日本へ連れ帰ったかどうかの記録は一切残されていません。当時の時代背景から考察すると、原住民の妻子を日本へ連れて帰ることはなかったと考えられます。また、部落の人達も、国民党軍が来た際に、誰が頭目なのか、誰が日本の警察官の元家族だったのか、一切口を割る事がなかったそうです。そのために、この事実は闇から闇へと葬られ、今では、誰も知っている者はいなくなりました。
戦後、日本への送還が決まった際、祖父は家族を一緒に日本へ連れて帰ろうとしたそうですが、日本政府がそれを許さず、涙の別れとなったそうです。
祖父は「いくら戦争に負けたからと言って、また、いくらお国の命令だからと言って、自分の様に家族を引き裂かれた者が大勢いる事、許しがたいことである」と家族全員で自害するつもりだったそうですが、同僚、部下の警察官の人達に止められたそうです。
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