台湾近代化のポラリス 最終回 後藤新平、賀田金三郎 今生の別れ

 山口県美祢市東厚保の山々を見渡せる場所に森育三の家は建っていた。家の横には小川が流れており、普段は静かな田舎の一軒家であったが、ここ数日は、孫の由紀子が友達と一緒に育三の家を訪れ、夏休みの自由研究の題材として選んだ後藤新平の話を聴いていた。

育三は、12歳で賀田組に入社をし、当時では最年少の従業員だった。商売のイロハはいちから賀田金三郎に教わりながら成長し、育三にとっては社長であり、父親代わりの様な存在が賀田であった。台湾、朝鮮、萩と賀田の行くところを付き人として一緒に動き回り、最後は、東京の賀田の邸宅で住み込みで賀田のお世話をした経歴がある。

「そういえば、賀田社長の寿像建立についてまだ話をしていなかったね。大正9年(1920年)の春頃から、賀田社長の知人、後輩、社長に引き立てられた人、社長の恩恵を受けた人、社長の人物を慕う人、社長の功績を認める人達の間から「賀田翁の寿像を建てよう」という話が持ち上がった。

実はこの話、一番最初に言ったのは後藤閣下だった。後藤閣下が金子圭介氏や原修二郎氏などに『賀田君のこれまでの功績を考えれば、故郷である山口県萩市に、寿像を建てるべきではないか。賀田君は若いころ、萩で家業を潰し、誠に辛い思いをしたが、その後、藤田組、大倉組で大活躍をした。そして、台湾の近代化を実現させるために、損得抜きで大いに貢献してくれ、前人未到と言われた東台湾の開拓まで成し遂げた。故郷の萩に対しても萩製糸工場を作り、故郷の人々の雇用先を設け、萩の産業発展に大きく貢献した。しかし彼は、その様な素晴らしい功績があるにも関わらず、一切、自慢することなく、驕ることなく、未だに、『お役に立つならば』と言って朝鮮で事業を進めている。これほどの人物、故郷に人々の誇りとして称えるべきではないだろうか』とおっしゃったのだよ。

そして、金子圭介氏、原修二郎氏、西村虎太郎氏、波多野岩次郎氏など、総数46名が発起人となり、趣意書を作成し、賛助を求めた。これと同時に、賀田社長に有縁のある者の会を組織した。それは、社長の一族親友及び寿像建設に賛成する者、関係事業に従事する者を会員とし、相互の交情を温め、親睦を深めるというものであった。会の名は、芳誼会と呼ばれた。

 敷地は萩製糸会社の隣地となった。敷地面積は2000坪であった。寿像は当時、大鋳造家と言われた岡崎雪聲氏が作ることになった。岡崎氏にとってはこれが最後の傑作であった。

 大正9年(1920年)81日に起工式を行った。9月に入り、東京の岡崎工場では寿像鋳造が出来上がり、同月10日に社長ご一家及び関係者が内見を行い、18日に萩に向かって発送された。

 寿像の身長は3.6m、台石の高さは5m、基礎石垣の高さは3.6m、左右の階段4.85m、幅1.95m、地上よりの高さ12mで、石材は全て花岡石を用いた。像は左足を少し前に踏み出し、右手にシルクハット、左手に手袋を持ち、フロックコートを着て立っている銅像だった。それはそれは立派な寿像で、威風堂々したところは、正に賀田金三郎社長そのものだったよ。題石に銅板で埋め込まれた撰文は後藤閣下がお書きになった。

 除幕式は大正10年(1921年)1113日、萩上野台において行われた。その頃の萩地方は雨が多く、晴れていても風が強く、寒く感じる事が多かった。前夜まで天候は荒れていたが、当日は朝から快晴で、風一つない、最高の天気であった。賀田社長は病床にあったため、除幕式には参列出来なかったが、ミチ夫人が東京から参列された。私がお伴させて頂いた。参列者は日本のみならず、台湾、朝鮮半島からも参列者がおり、500数名がお祝いに駆け付けた。

式は、松陰神社の高田盛穂社司によって執り行われ、発起人総代として皆川廣量氏(*1)が挨拶を述べ、常任委員の西村虎太郎氏が建設事務の報告を行った。序幕の綱を引いたのは、社長の愛孫、波多野綾子(賀田の娘、キクの実子(長女)、賀田の母きくの実家である波多野家の養女となる)であった。

当日は人出も多く、式場付近には20数軒の露天も出るほどであった。

(寿像は、第二次世界大戦の際に、接取されてしまい、今は、台座が残るだけとなっている。場所は、村田蒲鉾本店の東側の小高い丘の中腹に残されている。)

 

【撰文】

賀田君名金三郎長門萩人豪邁有大志少壯出郷奔走四方臺灣巳屬我版圖挺身卽入島中縦横査勘専念開發利源冒險討幽屢踏危地遂克開拓蕃界産立業後又遊朝鮮鋭意開成多所壽畫是皆照著於人目者矣君巳籍豊而持身儉素然赴郷黨威友之急未曾吝鉅資其任侠勇於義亦有如頃者徳者相謀造壽像以前贈乞余記余曾官於臺灣因叙所知且祝君壽眉萬斯年云

大正十年十月

男爵 後藤新平撰並書

 

朝鮮電気興業再建に奮闘されていた賀田社長だったが、大正10年(1921年)の春頃から健康状態は優れなかった。「風邪でも引いたのだろう」と、負けず嫌いの根性で頑張ってはみても、すぐに何とも言えない疲労感に襲われておられた。

同年325日、さすがの社長も病床に臥せってしまわれた。薬を飲み、少しでも身体の具合が良い時には仕事を見に行き、また、床に臥せるを繰り返されていた。医師やご家族が口をそろえて静養するように言うため、社長は清流の音でも聴きながら、新鮮な空気を吸えば、元気を取り戻すと思い、箱根へ行かれた。

しかし、一向に体調は良くならず、これはいよいよ大病を患っている可能性があると思い、東京へ戻り、同年55日、当時、東京帝国大学医学部附属医院長であった入沢達吉博士の診察を受けられた。社長は咽喉の具合が悪く、時には声がかすれるという症状も出ていた。入沢博士の判断で、今度は、耳鼻咽喉科の岡田博士の診察を受けると「絶対に安静にし、外部との交渉も断ち(面会謝絶)、病を治さなければならない」と診断されたのだよ。

 病気静養の場所としては、別府の別荘、打出の別荘などが環境的にも良いと思われたが、社長は「あまりに遠すぎる。東京と距離があり過ぎる」とこれらを拒否。例え病気のために身体の自由は失われても、麻布の本邸を牙城として、采配を揮りたいという思いがおありになったのだ。そこで、「茅ケ崎の別邸ならば」という社長の意見で同年7月25日、茅ケ崎で静養することになった。

しかし、社長は、二日おきに必ず東京へ出向き、事業の成績を確認、指示を出したり、自分が出なければならないところには顔を出し、訪問者には快く面会されていた。また、台湾や朝鮮半島から来た人に対しては、病を忘れ、長時間の面会をされた。当然、病に障ったこともあった。

 秋深まるころ、空に雁の渡るころ、大演習後の新宿御苑の賜宴に招待され、忠厚心の深い社長はそれを無上の光栄として、病身をおして参列した。社長は人一倍謹厳なる態度で、苦痛を表に出さず、不敬にならぬよう、非礼に当たらぬようにと気を使い、薄暮まで御苑におられた。

しかし、これが病気にはよくなかった。御苑を出て、その夜は麻布の本邸で一泊して、翌日、茅ケ崎に帰ったが、病状は一気に悪化し、二度と東京へ行くことは出来なかった。

 社長は、元々仏教徒であったが、自らの様々な体験を経て、自分なりに仏法の真髄を得ていた。『知らざるの知るは、知るの知るよりも知る者であり、天衣無縫(天人の衣服には縫い目のあとがないこと。転じて、詩や文章などに、技巧のあとが見えず自然であって、しかも完全無欠で美しいこと。また、そのさま。)、期せずしてその様な境地に入る』という考えを金三郎はお持ちだった。だから、例え、「死」という言葉が頭をよぎったとしても、慌てたり、悲しんだりすることは無く、冷静に、死を受け止めておられた様だ。

死を恐れない、しかし、死を欲しない。自身、まだまだ先であろうと思うっていた死が、突然目の前に現れた今、社長はこれに対して用意しなければならないと考えた。

 「自分がもし死ぬようなことがあっても、賀田組を亡ぼすことは出来ない。子供や孫たちも永遠に幸せであって欲しいから」という事で、近親者、知人を集め、賀田組を株式会社組織として手続された。

 大正11年(1922年)になっても、社長の病状は良くならなかった。

2月、3月と衰弱も激しくなってきた。もうこれ以上、茅ケ崎での療養は無理だと判断、328日、東京に戻り、そのまま、聖路加病院へ入院となった。

 茅ケ崎に居た頃から医師からは面会謝絶といわれていた。病院でも同じであった。しかし、訪問者の名前を病床に知らせる事だけは命じていた。すると、台湾や朝鮮半島など、遠隔地からお見舞いに来てくれた人がいれば、『お医者様の言うことはよくわかっている。皆の心配してくれる気持ちも理解している。しかし、折角、遠いところからこうして親切に見舞いに来てくださった方を、顔も見せずに帰すと言うのは、この賀田金三郎には死んでも出来ない。少しでもいいからここへお通ししてくれるように』とおっしゃって、面会されていた。しかし、いざ面会するとついつい話が長くなり、看護の人達が閉口することもしばしばだった。私も気が気ではなかった。

 賀田社長の病名は咽頭結核であった。当時は、結核は不治の病と言われていた。故に、医師は元より、付き添いの人達も皆、回復の見込みはないと覚悟していた。当然、社長もお覚悟はされていたようだが、自分の病気が不治の病であるとか、もうすぐ自分の生命が終わりを迎えるとは思ってもおらず、『案外、完治するかもしれない』『万が一回復した時には」などとも考えておられた。

ある日の夜だった。夜中に往来する車の音を聞くと『この夜更けに、あのように車を走らせるという事は、明日を待たれぬ事業場の用事があるのだろう。俺も早くこの身体を元に戻し、あの様に走り回りたい。一体、いつになったらそれが出来るのだろうか。そういうことを考えていると、心ばかりが焦って仕方ない』と漏らされたことを今でもよく覚えている。

 大正11年(1922年)513日、社長は退院して麻布富士見町の本邸に戻られた。その頃は非常に体の具合も良くなっていた。ご本人も『これはだんだん回復に向かっている』と思われたが、日にちが経つにつれてその予想とは反対に、病状は一気に進んで行った。この時点で社長は、ご自分の死期が近いことを悟られた。

そして、朝鮮半島より豊田正平氏を、萩より藤井源次郎氏を直ぐに呼び寄せて欲しいと言われ、私がお二人に、電報を送った。そして、二人がお越しになると社長は、『自分が死ぬのは、6月中旬か、下旬頃になるだろうと。どちらにしてももう長くはない。』と言い、葬儀の事、その際の家族の心得などをお伝えになった。

その内容は、『萩にいる長男の以武やその他の者、朝鮮半島に居る直治やその他の者は、天候不順の中、女子供を連れてわざわざ臨終に立ち会うようなことは不要。告別式は東京で行い、本葬は萩で行うのだから、萩に居るものは動かず、朝鮮半島に居るものは、萩へ帰って来ればよい。また、東京の告別式は、友人知人で作っている六原会に一切を頼めばよい。冠婚葬祭には必ず携はることになっているから。この人達の手で行ってもらいたい。そうして、遺骨を萩に持ち帰り、本葬は親戚友人によって執り行う様に。

さらに、いよいよ臨終という時が来たならば、延命処置はしないように。定まった命数を無理に引き留めてる人間の未練さが、大きな大地の目に見られるようで醜くもあり、浅ましいようにも思うので、延命処置は断る』と何度も、何度も繰り返し、周りの人達も伝えておられた。

 6月中旬を過ぎて病状はさらに悪化。遂には、口から食事を取ることも出来なくなり、衰弱は甚だしく、痛みもかなりあったと思われるが、社長は、茅ケ崎に居る時も、病院に居る時も、『痛い』『苦しい』『切ない』『耐えられない』という言葉をご家族、知人のみならず、看護師、医師にさえも一言も言わず、じっと目を閉じ、額に汗をにじませ、口を閉じておられた。付添人から何を聞かれても返事がない場合は、その痛みは相当なものだったと思われる。

 630日の朝、医師はご家族に対して、社長が危篤な状態にある事を告げ、『いつ、容態が急変するかわかりません。もしも遠方からご家族がお越しになるのであれば、注射をしなければなりません。医者の責任としては、一日でも長く患者の命を持続させることですが、先日のご遺言の際に、注射はしないといわれました。この点について、再度、ご協議ください』と伝えた。

ご家族はご友人にも相談をされた。確かに社長は、ご自分の臨終の際に、子供達を遠方から呼び返す必要はないとおっしゃったが、親子一世の別れ、人生の一大事に当たって、親友としてそれを側で傍観することは出来ないという事で、社長には相談せず、以武さんと直治さんに電報を送った。

萩の以武さんは72日の正午に、朝鮮半島の直治さんは73日の正午に東京に到着することになった。二人の帰京日が決まった以上、何としてでもそれまでは生き延びておいて欲しいと誰もが願った。そこで、代表して私が社長に対し、社長の命に背き、萩と朝鮮半島に連絡を入れ、現在、上京の途中に居る事を正直に告げ、どうか、注射をすることを承諾して欲しいと伝えた。それをお聞きになった社長はしばらく沈黙した後、『あれほど言ったのに、それを守らなかったのは好意からだ。悪くは思わない。すでに、出発したとあらば、止めることの出来まい。来てから残念がるのも気の毒だ。注射をしてもらおう』と快く注射を受けた。

 周りからの熱い思いに応えるために注射を受けたのは、629日であった。

その日の夜、看護師が『後藤さんがお出になりました』と伝えに来た。社長の心は風前の灯火であったろうそくの火がパッと明るくなったかのように動揺を感じた。「後藤さん」と言えば、言わずと知れた、あの後藤新平閣下に相違ないとお感じなったからだ。

社長はミチ夫人に命じ『あの紋の有る羽織を』とおっしゃった。夫人は後藤閣下と社長のご関係をよく理解されていたので、社長が羽織をと言った意味も十分にご理解されておられた。当然、社長の病状を考えると、決して良いことではないという事は夫人が一番よくご理解されていた。しかし、お相手が外ならぬ後藤閣下となれば、話は別であるという社長のお気持ちもご理解されていた。

夫人は看護師に対し、『ちょっと起こしてください』と願い出たが、看護師は『いかなる理由があっても、起こすことは出来ません』と言ったが、夫人は、簡単に社長と後藤閣下との関係を看護師に伝え、社長が強く望んでいることを訴えた。

看護師は万が一、社長の意に反したことをして、怒らせるようなことがあっては余計に体には悪いと判断し、病床に起こし、背中に折りたたんだ枕を入れ、自らも社長を支える様にした。紋付羽織をかけた社長は『お通しするように』と命じられた。

 迎えへ出た夫人に導かれて入ってきたのは、後藤閣下ではなく、閣下の弟君である後藤彦七様であった。彦七氏が来たのは、やはり、後藤閣下の命を受けて、社長の病状を見に来たものだった。社長は彦七氏に対しても、後藤閣下に対する態度とは変わらぬ態度で対応された。彦七氏は、少しだけ社長と話をして、早々に帰っていった。

 71日の午後、後藤閣下から電話が入った。後藤閣下はまず、社長の容態を尋ねて、そして、『今夜6時頃に訪問して、ちょっと顔だけでも見たい。但し、一昨日、弟が伺った時に、わざわざ羽織を着て、床の上へ起きられたと聞きました。重態の病人がその様なことをしてはいけない。今夜、私が訪ねた際に、病人がその様なことをされては、病気を悪くしに伺うようなものだから、その場合は、残念ながら伺うことは出来ない。そうでないのであれば、参上する。その旨を、差支えなければ、ご本人に確認をしてもらいたい』とおっしゃった。

私はすぐにその旨を社長に伝えると、社長の顔はみるみる喜びに満ち溢れた顔になり『では、誠に失礼ではございますが、寝たままでお待ち申し上げます』とおっしゃり、『今生の思い出に、どうしても一度お会いしたい』旨も伝えた。後藤閣下にもその気持ちは伝わり、『ではお伺いする』と言って電話は切れた。

 夕刻となり、社長は、またもや『あの紋のある羽織を』と言い出された。さすがに今度は、看護師も夫人も『それはだめです』と言ったが、社長は熱心にそれを望んだ。夫人はもしかすると社長には何か考えがあるのではないかと察し、病床の近くまで紋付羽織を持ってきた。すると社長は、その紋付羽織を布団の上に広げて置くように指示された。

 後藤閣下は医師のご出身である。社長の病状については十分にご理解されている。と同時に、社長の性格もご理解されている。いきなり自分が見舞いに行った場合、社長は無理をしてでも病床に起き上がり、自分を迎えるだろう。それは絶対にさせてはいけない。故に、まずは弟を見舞いに行かせ様子を伺った。案の定、社長は紋付羽織を着て、起き上がってそれを出迎えた。だから、その報告を聞いた後藤閣下は、先の様な約束を社長と交わされたのだよ。

 夕方6時過ぎ、一台の車が病院の門前に停まった。降りてきたのは後藤閣下であった。閣下は、車から降りると目の前の病院をじっと見つめた。その目は物悲しい眼をしていた。

病室に現れた後藤閣下。社長と目と目が合い、互いに、その目をじっと見ながら、手と手とは握られた。しばしお互いに言葉は無く、無言の雄弁は、病室の空気を領した。

きっと社長と後藤閣下の脳裏には、それまでのお二人の間の様々な出来事が、走馬灯のごとく巡っていたはずだ。土匪との交渉時のこと、台湾日日新報設立時のこと、台湾銀行設立時のこと、驛傳社設立時のこと、東台湾開拓時のこと等々、数え上げたらキリがないほどの多くの思い出が頭を巡っていたに違いない。

後藤閣下が苦境に立たされた時、常に、そばには賀田金三郎社長がいた。共に、台湾発展のため、日本国発展のために、命をすり減らして頑張った台湾時代。

官と民という立場の違いはあったが、心は戦友そのものであった。

 しばらくして、後藤閣下から『賀田君、お身体の具合は如何かね。賀田君のことだから、病魔と真正面から向き合い、戦いを挑んでいるのだろうね。賀田君と出会えたことは私の人生において非常に大きな意味があった。台湾統治政策、台湾の近代化、東台湾の開拓を成し得たのは、賀田君のおかげであり、あなたが居なければ私の計画の多くは頓挫していただろう。』との見舞いと感謝の言葉を述べられた。これに対し社長は、かすれたる声で、切れぎれながら、比較的明瞭なる挨拶をされた。

『長州の一平民が、どういうご縁がありましたのか、閣下の知遇を辱し、今日までお世話になりました。いよいよお別れだと信じます。

平生色々とご教示を下されました為、幸に大きな過も無く、家を守っていくことが出来たのでございます。誠に感謝に堪えません。

私は今、こうして天下の大家博士といわれる先生方に診て頂いて、充分の治療を受けております。それで命のございませんのは、天命とでもいうものでございましょうから、少しも遺憾とは思いません。親切な諸友人の世話になり、有難いことだと思います。家の事も方法を立て、後事は確実な者に託しておきましたから、安心をして永眠を致します。

ただ、閣下の御母堂様に今一度お目にかかりたかったのでございますが、それが出来なかった事だけが残念でございます。よろしくお伝えを願います。後に残りますのは、いずれも若いものでございますから、よろしくお願いいたします。』とおっしゃった。

 その言葉には、綾もなく、花もなく、話の内容も後先になることがあったが、社長の後藤閣下に対する感謝の心は十分に伝わった。正に、賀田金三郎翁、最後の雄弁であったと言えよう。

 病室を出た後藤閣下は、控室に立ち寄られた。直ぐに帰るのかと思いきや、私やそこに詰めていた者と談話を始めた。

『賀田君は偉い男とだと思っていたが、最期にあれほどの覚悟があろうとは思ってもいなかった。これまで僕は随分有名な人物の最期に立ち会ったが、賀田君の様な人は少ない。実に大悟徹底の最期と言えよう』とおっしゃり、一時間近くお話をされた。

その目は、懐かしい昔を思い出すような、また、大切な人の旅立ちを前にして悲しみに暮れる様な目をされていた。

 時計を見た後藤閣下は、『二人が会うとついつい過去の事などを思い出し、感傷的になり、賀田君を変に興奮させてしまったのではないだろうか。病気に障ってはいなかい心配なので、少し様子を見てきて欲しい』と言われ、私が、社長の様子を見に行き、そして、『余程安心されたと見えて、ぐっすりとお休みでございました』とお伝えすると、『それで安心した。では、お大事に』と言い残して、後藤閣下はおかえりになった。

 病院の前で車に乗り込む前に、後藤閣下はもう一度病院の方を振り返られた。その眼からは、涙がこぼれ落ちていた。後藤閣下は気づかれぬようにその涙をぬぐい、病院に向かって軽く会釈をして、車に乗り込なれた。これが、賀田金三郎翁と後藤新平閣下との今生の別れとなった。

 大正11年(1922年)74日、早朝、牛乳一合を看護師の手から接取し、8時半頃に池田博士が来診に来た。社長は、既に、時が来たのを予知していたらしく、何も言わなかったが、しばらくして夫人に向かい『せっかく、先生が見えたのだから、診察をして頂こう』と言いながら、わずかに身を起そうとした。池田博士はすぐに社長のそばまで来て、看護師に命じて、社長の身を起させた。社長は手を博士に出し、心持ち目を大きく開き、病床を囲って座っている、ミチ夫人、妹の常子様、以武様、直治様を始め、その肉親、知人の人々をじっと見廻した。私と目が合った時、社長が薄っすらと笑みを浮かべられた様に感じた。見廻し終わると、静かに目を閉じ、首をうなだれた。社長の手を握っていた池田博士は、荘重の態度で、一同の方へ黙礼をした。

ここに、賀田金三郎翁、65年の人生に幕が下ろされたのだ。

 社長が亡くなった後の、大正11年(1922年)722日、賀田家招待会の席上、来賓を代表して後藤閣下が以下の様な挨拶をされた。(原文のまま明記)

 『賀田君と私は、台湾領有の当時、かの地官遊の際に相識つて以来、交情厚きを加へ来つたのであります。多数同郷人もありし中に、来往親善を見たのは、因縁浅からぬものと申しませうか。臨終前病床を訪ひし時、賀田君は襟を正し、褥中(じゅくちゅう)(ふとんの中。また、床に就いていること。病中。)瑞座して「自分は萩に生まれながら、長州の先輩よりも多く閣下の垂教を辱ふし、一生の修養と幸福を得ました。今、永訣にあたって、この大なる賜りものを感謝す」と述べられた。

その言辞(ことば。ことばづかい。)の痛切なる、惻々(そくそく)(悲しみいたむさま。)として人を動かすものがあって、夫人及び其側に並み居るものをして感涙せしめたのであります。

台湾に於ける賀田君の事業の功績を挙げて見れば、未開不便の地に率先して諸種の事業を興し、台政の施設を幇助(ほうじょ)するに力を致せれ、中にも、驛傳社を設けられたことは、最も著しきものの一つであります。其組織並びに其実行上に致されたる絶倫なる精力は、特得の天才にして、尋常実業家中稀に見るところであります。殊に台東蕃界の開拓に一身を委ねられたるは、尋常人の到底為し能はざる所のもので、其膽力勇気は、台湾当時の事情を知るものの等しく驚嘆するところであります。

何しろ世人は噂を聞いてさへ、恐ろしき感を為す蕃界に入るに、其夫人を同伴せられた一事に見るも、其人物の凡ならざるを窺(うかが)ふことが出来ると思ひます。

賀田夫人が内助の秀逸なるものありて能く困苦を共にし、遂に成業を遂げしめしは、其賢貞の素質の然らしむる所でもありませうが、夫人をして鬼の棲むとも思はれし蕃界に於いて、事業を共にせしむるまで大勇猛心を起さしめたるものは、賀田君の偉大なる感化力の然らしむるところであります。

賀田君の功績として挙ぐべきものは多々ありますが、其多くは顯(あらわ)はれていなひのであります。是は披露宣伝の足らなかった為と思ひますが、併し其披露の足らぬ所に、妙味があると存じます。

賀田君は真の実業家で、企業に無限の興味を有し、功績と名誉とを他人に譲り、自ら社長とか重役とかの名利に貧らず、只実際避くべからざる場合に、之が職に就くこととしていたことは、事実の証明するところであります。

私は病の革まると聞き、七月一日の夜に病床を訪ふて、親しく永訣の辞を聴きましたが、其大膽にして而も用意の周到なるは、一生を通じて一貫していましたのみならず、臨終に際して立派なる大悟を持たらせたには、平生、賀田君を識ること深しと自信している私ながら感嘆禁じ能はざるものがありまして、私は曾て知ることの未だ足らなかったことを愧()づるしだいであります。

事前に於いて家産を整理し、後事を託し、臨終に際して大安心の実相を現はし佛果をえるといふことは、賀田君の如何なる人物であるかを語るべき事実の雄弁であります。

賀田君の後継者は、能く個人の遺訓を守って違わざるやうに努められ度い。此の事は賀田君に代わって一言致します。

尚、賀田君の言動には、世に伝ふべきものが多いのでありますから、小伝でも作られたが宜しからうと思ひます。これは一には子孫の為に伝へ、又一には知己朋友の為にも、故人の徳を偲ぶに最も適当の事柄と存じますから、序ながら申し添へて置く次第であります』と述べられた。」

(この後藤新平の言葉を受けて、大正11年(1922年)911日に生前、金三郎を中心に作られた芳誼会の幹部が集まり「賀田金三郎翁小傳」が作られることになった。翌年6月に完成し、関係者に配布された)

 話し終わると育三は涙を拭い、そして、由紀子やその友人たちの眼を一人一人見ながら「後藤新平閣下は生物学の原則に従い、あらゆる難事業を成功へと導かれた。賀田金三郎翁は、『お役に立つ事業』を信念に、あらゆる事業を展開されてきた。お二人とも、時に、その手法は、世間から揶揄され、厳しい言葉を向けられることもあったが、決して、ご自身の信念を曲げることなく、突き進まれた。

賀田翁は65年、後藤閣下は72年の人生を歩まれたわけだが、お二人の共通点は『慈悲のお心』だと私は思っている。人の苦しみ、悲しみ、痛みを自分の事と考え、見返りを求めず、慈悲のお心を与えられる。その慈悲のお心を利用するという不届き者が居たとしても、決して相手を責めることはされず、例え騙されようとも、痛い目に遭われようとも、それでも慈悲のお心を持ち続けられたお二人。

私も80歳を過ぎ、もうすぐお二人の元へ旅立つことになるだろうが、私の人生で、このお二人に出会えたことは何ものにも代えがたい、大切な宝だ。

賀田翁にとって、後藤閣下は正に、人生という永く、険しい旅路で、道に迷うことが無いようにするための大切な目印、ポラリス(北極星)の様な存在だった。

由紀子ちゃん達も、これからに人生、色々な事があるだろうが、迷った時は自分にとってのポラリスを探すことだよ。そうすれば、必ず原点に戻れるし、道に迷う事もなくなる。」と言った。

 森育三にとっての偉大なるポラリス、後藤新平と賀田金三郎。二人がいたからこそ、今の友好的な日台関係の礎が築かれたのだろう。

 台湾近代化のポラリス 賀田金三郎が語る後藤新平をお読みくださり、ありがとうございました。今回を持ちまして完結となります。

皆さんにも人生のポラリスが存在するかと思います。どうか、道に迷った時は、悩まず、苦しまず、焦らず、悲しまず、静かに目を閉じ、ポラリスの輝きが語り掛ける言葉を心で聴きとってください。そうすれば、必ず、進むべき道が見えてきます。

 

 





萩に建てられた賀田金三郎寿像

(賀田金三郎研究所所蔵)

 

(*1) 皆川廣量

中外石油アスファルト取締役、東京建物取締役、南洋拓殖工業社長

 

【参考文献】

播磨憲治 知って欲しい 台湾を近代化に導いた人物 賀田金三郎

コメント

このブログの人気の投稿

東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 布拉旦部落・三桟神社 【花蓮縣秀林郷】

台湾近代化のポラリス 新渡戸稲造2 台湾行きを決意

台湾近代化のポラリス 潮汕鉄道3 重要な独占権獲得