台湾近代化のポラリス 盟友と呼べる賀田金三郎と後藤新平

 時は昭和55年(1980年)の夏。山口県美祢市東厚保にある森育三の家には、育三の孫で、高校2年生になる由紀子やその友達数名が集まっていた。

彼女達は夏休みの自由研究として、「明治、大正期の知られざる日本の歴史」という課題に向き合っていた。彼女達が研究対象に選んだのが後藤新平であった。特に、台湾総督府民政長官時代の後藤について由紀子が興味を持っていた。色々と調べていくうちに、後藤新平と賀田金三郎との関係を知り、それならば、元賀田組の従業員だった育三が詳しいのではないかと言う事で、大阪から友達を引き連れて育三の家に泊りがけで来ていた。

この森育三こそ、賀田金三郎の話が聴きたくて、仕事終わりに賀田組若手従業員達が集まっていた中で、当時、最年少だった、あの森であった。

森は80歳になっていたが、当時の事は鮮明に覚えていた。

賀田金三郎が賀田村を開き、その後4年半で、賀田村が閉村となり、賀田は、「台湾での使命は一段落ついた」として、次の目的地である朝鮮に渡ったが、その際に、賀田の付き人、今で言う、秘書として森も一緒に朝鮮に渡った。賀田が亡くなった後は、賀田が故郷である萩に設立した萩製糸工場に移り、戦後までそこで働き、戦後は、美祢に土地を買って、農業を営んでいた。

「世間では、賀田社長が賀田村を閉村したのは、資金不足が原因だなどと言っているが、とんでもない誤解だ。資金不足だったら、その後の朝鮮半島でのご活躍はなかったし、当時は、台湾銀行の監査役で株主でもあったので、それだけでも十分な資金はおありになった。本当の理由は、原住民の襲撃、マラリアの大流行で村人が居なくなった。それが一番の原因だ。当然、賀田社長は賀田村閉村の際に、事前に後藤閣下に相談をされている。後藤閣下も、現状をよくご理解され、社長のご判断を支持された。社長は、賀田村で得た様々な情報を台湾総督府にその都度、ご報告されており、その情報を基に、明治43年(1910年)に国営の吉野村が出来た。」と森が言うと、「賀田社長と後藤さんって本当に強い絆で結ばれていたのね」と由紀子が言った。

森は話を続けた。「賀田社長にとって44歳から45歳(明治35年(1902年)から36年(1903年))は人生の中で最悪の2年間であった。

その理由は、社長が最も信頼していた弟の富次郎さんが明治35322日に亡くなったのである。享年32歳という若さであった。(戒名:顯徳院泰雲全雄居士)

社長にとっては片腕をもぎ取られた様な感じであった。富次郎さんを失った金三郎は誰の目にもわかるほど憔悴しきっていた。

岡田治衛武氏(*1)は、『賀田兄弟は本当にバランスの取れた素晴らしい兄弟だった。兄の金三郎氏は前進あるのみというタイプ。それに対し、弟の富次郎は常に手綱を締めて進む慎重派。故に、銀行との折衝の際には、兄の金三郎氏よりも弟の富次郎氏が前に出た方が上手くいっていた。しかし、富次郎氏は常に金三郎を尊敬し、立てていた。正に、夫婦の様な関係だった。故に、富次郎氏が亡くなった時の金三郎氏の落胆ぶりは見ていて気の毒なほどであった。』と語った。

社長は、富次郎さんの死後、岡田氏を訪ね『賀田組の今日があるのは、半分が私、半分が弟の活躍によってある。私が常に心置きなく働けたのも、ひとえに、弟がいたからです。しかし、その頼みの弟は死んでしまい、いなくなった。だからと言って、今更、引退するという訳にもいかない。一体、私はどうすればよいのだろうか。』と岡田氏に尋ねている。

岡田氏はこれに対し、『やれ、やれ、大いにやれ。一人になったからと、落胆することはない。一人で二人分やってのけろ。』と叱咤激励された。

この時、社長の元に真っ先に連絡を入れられたのが後藤閣下だった。富次郎さんの訃報を聞き、社長に連絡を入れられ『直ぐにでも駆け付けたいが、6月からの欧米視察の準備でどうしても今、台湾へ戻ることが出来ない。しかし、総督府には連絡を入れておいたので、何か手伝えることがあれば、遠慮なく申し出てくれ』という内容だった。社長は後藤閣下のお気遣いにとても感謝されていた。

また、社長にとって弟の富次郎さんの死と同じぐらいにショックが大きかったのは、これから述べる「威里事件(維利事件、威利事件とも記すが、ここでは、威里事件に統一させて頂きます)」であった。

明治39年(1906年)、花蓮威里社区内(今の花蓮縣秀林郷佳林部落)の山中で悲劇が起こった。

当時、賀田組は、威里社区内に樟脳を作る製脳事務所を設けていた。この付近一帯で樟脳の原料となるクスノキの伐採を行っていた。威里社区一帯には、太魯閣(タロコ)族が住んでいた。(現在もこの集落のほとんどが太魯閣族である)

彼らには、首狩りの習慣があったため、賀田組は東台湾開発を始めた当初からこの太魯閣族からの襲撃に備え、明治36年(1903年)社長は、台湾総督府より、銃3,000丁、弾薬30万発、大砲4門を購入し、各地で警備にあたっていた。と、言うのも、当時、東台湾では警察官が不足しており、自分達で警備するしか方法がなかった。この賀田組の警備を担当していたのが、山から平地に住むようにという日本側からの要請に応じて平地に移り住んだ太魯閣族だった。

一方で、日本側の要請には応じず、最後まで日本側に抵抗した太魯閣族が山で生活をしていた。賀田組はこの太魯閣族達との間で、威里社区をはじめ7つの社区(集落)と土地の賃貸借契約を締結していた。契約内容によると、賃料は、毎年年末に、200円を支払うというものになっていたのですが、当時の原住民には契約観念というものがなく、賀田組に対し、太魯閣族を代表して、威里社区の長老より夏の時点で、賃料を支払ってほしいと訴えてきた。賀田組は熟慮したうえで、とりあえず半分の100円を、威里社区の長老に支払い、皆に分配するように依頼したのだが、この長老は、自分達の親族だけでその100円を分け、他の者への分配をしなかったため、これに腹を立てた他の太魯閣族が、長老の親族に対して発砲し、負傷させるという事件が発生した。

 明治39年(1906年)7月30日、賀田組脳丁(木こり)2名が西丘社(現在の實仔眼社)で首を切られて殺害されるという事件が発生。

この事件のきっかけは、シラガン社区(地区の名前)の太魯閣族が威里社区の耕作地を荒し、その解決を図るために頭目同士が話し合いを行ったが決着しなかった。この様な場合、当時の太魯閣族の習慣では、無関係の第三者の首を狩るというものがあり、その犠牲に遭ったのだ。

 この情報が、同日午後12時に花蓮港支廰長であった大山十郎の元に入電、大山支廰長は、実態調査と遺体回収に現地へ向かった。

賀田組威里事務所では、女性と子供をまずは避難させ、その後、残り全員の避難を検討していた。避難するか否か、激しい議論が続く中、太魯閣族長老が、「今、引き上げると、他の太魯閣族達を逆に刺激してしまう可能性が高いため危険である」と異論を唱えた。賀田組威里事務所の喜多川貞二郎主任はこの忠告に従う事にした。

一方、大山支廰長は阿部巡査、小川巡査、賀田組職員の山田海三さんを従え、牛車6台を用意して現地入りした。そして、切迫した情勢を見て、「従業員全員を避難させるべきである」と判断し、喜多川主任に引き揚げを指示した。当初は、「長老の言うことが正しい。今は静観すべきである」と主張していた喜多川主任であったが、最終的には引き揚げを了承した。

 太魯閣族達は、日本人全員が引き揚げるのであれば残りのお金は貰えなくなるのではないかと心配しながら、彼らの動静を見ていた。しかし、ここでまた、不幸な事が起こった。

偶然、威里社区の太魯閣族3人がシャポタワ地区で日本人5人を殺害し、首を5つ持ち帰ったのであった。そして、雄たけびを上げながら、その首を突き上げ、集落の人間に見せびらかし、自分達を誇示したのであった。これを見た他の若い太魯閣族達は突然興奮し始め、銃を手に取り、100円を着服した長老に対し「貴様は我らのお金を着服した盗人なり」と長老の銃を向け、騒乱状態になった。

その場から命からがら逃げてきた長老は喜多川主任に対し、「我らは彼らと戦う。日本人の皆さんは今すぐここから逃げろ」と告げた。

喜多川主任は事務所に居た従業員に対し「危険だ。すぐに逃げろ」と叫んだ。大山支廰長は山上にいる脳丁達全員を収容していた。その時であった。山田海三さんが事務所から出てきたのを目撃した太魯閣族達は一斉射撃を開始した。

大山支廰長、喜多川主任、山田職員、阿部巡査を含む27名の職員が午前11時頃、太魯閣族の集団による銃弾の前に倒れ、彼らは、全員の首を狩って殺害したのである。さらに、事務所付近に居た5名の脳丁(木こり)も同様の手口で殺害。

事務所にあったヒノキや樟脳、武器、弾薬を略奪した後、小川巡査をはじめ、16名の賀田組事務員が拉致し、事務所の中の金目の物すべてを略奪、山へと逃げていったのだ。

拉致された16名の内、2名のみが逃亡に成功し生還したが、後の14名に関してはその後も発見することは出来なかった。

事件の一報が、台北賀田組本社にいた社長に届くや、社長はすぐに花蓮へと向かった。当時は、道路も鉄道もないため、船で夜を徹して花蓮へと向かい、81日、社長は自分の大切な従業員が惨殺された現場に到着した。

彼が眼にしたのは、血の海となった事務所と敷地であった。私や同行したものや、現場検証に来ていた警察官でさえ嘔吐する様な凄惨な現場。そこに仁王立ちし、握った拳を震わせ、怒りと悲しみで社長は大粒の涙を流された。あのお姿は今はでも目に焼き付いている。

 社長は、賀田組花蓮事務所に戻ると直ぐに善後策打ち立て、実行へと移した。

この事件で命を落とした事務員以下脳丁、大工、左官、雑役に至るまで、すべての遺族に対し、一時金を支払い、さらに、810日には、五代目台湾総督の佐久間左馬太総督に対し、請願書を提出。そこには、今回の事件の経緯から始まり、それまでも多くの被害者を出していた太魯閣族による首狩りに対し、何も講じなかった台湾総督府に対し、「東台湾の開拓は、日本国においても重要な政策なるが、これを成し得るためには、原住民の討伐無くしては成し得ない」との趣旨を訴えたのであった。

また、威里事件発生後も太魯閣族の襲撃は収まらず、819日には、威里事件の現場からさらに南、現在の光復郷の山中で、賀田組の脳丁12名が襲撃に遭い、内2名が幸いにも難を逃れ、馬太鞍派出所に急報、警察官が直ちに、阿美族に応援を要請し、300名余りの阿美族と共に、さらに、花蓮港支廳からも隊員が応援に駆け付けたが、現場はあたり一面血の海で、その中に、首のない十名の遺体が転がっているという悲惨な現場であった。

 大正5年(1916年)11月、金三郎は石工・井上十造に「賀田組拓殖部の墓」を作らせ、呉全城賀田村の金三郎邸の近くに建立した。

 実はこの請願書を佐久間総督に社長が提出されたのは後藤閣下の助言があったと言われている。その年の10月に台湾を去ることが決まっていた後藤閣下ではあるが、佐久間総督の東台湾開拓に関する熱量と児玉総督の熱量には温度差を感じておられた。それまでも何度か、社長から東台湾開拓に関して、原住民の襲撃を問題として訴えておられたが、佐久間総督は一向に動こうとされなかった。後藤閣下は、ご自身の後任である祝次期民政長官に対し、『今回の事件に対し、賀田君から請願書が届くはずだ。その際には、今までとは違い、速やかに行動に移すように。』と申し伝えされた。

 請願書を受け取った佐久間左馬太台湾総督は、ことの重要性を認識し、明治39年(1906年)101日、陸軍花蓮港駐屯大隊基地を設置し、兵士を常駐させることにした。さらに、自らも東台湾を視察した。視察の際には、呉全城賀田村の賀田邸にも立ち寄っている。佐久間総督の視察の後、祝民生長官も視察を行った。

これにより、それまでは世間の注目を引くことも薄かった東台湾の地に殖産興業の気分が盛り上がり、諸般産業も発展していった。また交通網の改善も行われた。もちろん、東台湾拓殖の中心は賀田組で、製糖業、製脳業も拡大、軍隊の駐屯に併せて、台東鉄道の計画も立案された。

明治41年(1908年)頃には、花蓮の商業はますます繁栄し、それまでは、官用以外では旅行者などは見かけなかった花蓮の地に、女性でも一人で安心して旅行を楽しめるまでになっていた。」と育三はしみじみと語った。

森育三にとって賀田金三郎は人生の師であり、父親代わりでもあった。その賀田が崇拝していた後藤新平は、育三にとっては神の様な存在だった。

「私は賀田社長と後藤閣下は盟友と呼ぶにふさわしい関係だったと思っている。確かに片や、子爵であり、大臣であったお方。社長は、民間企業家。だから盟友などと表現するときっと社長のことだから『恐れ多い』とおっしゃるだろうが、後藤閣下の台湾近代化の構想が実現できたのは、賀田社長の陰ながらのお働きがあったからこそだと。互いを尊敬し合うお心があったからこそ、台湾近代化は成功したと私は関考えている。だから、これぞ真の盟友ではないか。」と言い、今は亡き、二人を思い出しながら、東厚保の山並みを眺める森育三であった。


賀田組拓殖部の墓

花蓮縣壽豐郷呉全公墓内 筆者撮影


*1 岡田 治衛武(おかだ じえむ) 岡田治右衛門の長男として、長門国美祢郡伊佐村(現美祢市)に1860年1月2日生まれる。漢学を学ぶ。村会議員、同議長、山口県会議員、共栄汽船社長、大日本製薬()専務取締役、総武鉄道()顧問、真宗信徒生命保険会社社長、徴兵保険、武蔵電気鉄道各()社長となる。1902年の第7回衆議院議員総選挙において山口県郡部から立憲政友会公認で立候補したが落選。1903年の第8回衆議院議員総選挙において無所属で立候補して初当選する。1904年の第9回衆議院議員総選挙ではトップで再選。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙では大同倶楽部公認で立候補したが落選した。

【参考文献】

播磨憲治 知って欲しい 台湾を近代化に導いた人物 賀田金三郎

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