台湾近代化のポラリス 東台湾開拓と台湾初の日本人移民村開村
「困った。誠に困った。」と台湾総督府民生局長執務室のソファーに座り、眉間にシワを寄せながら腕組みをし、口をへの字にしてボヤいている後藤新平。
その前には、賀田金三郎が座っていた。賀田は「閣下、どうされましたか?」と尋ねると後藤は「明治23年(1890年)以降、日本の人口は急増している。世界主要国家の中で、人口密度はオランダに続いて高く、農民の平均耕作地は極めて狭く、生活が困窮している。そこで、日本政府は海外への移民が問題解決に繋がると考えている。日本政府は国主導型で、アメリカ、ハワイ、ブラジルへの移民政策を既に行ったが、相手国との事前の約束事が履行されず、全てが失敗に終わった。そこで、次の移民先として台湾が候補に挙がったのだが、この移民事業を民間に委ねよというのが日本政府からのお達しなのだよ。
これらの条件で、台湾総督府は積極的に内地人からの投資開発を募ったのだ。投資人は、総督府へ申請さえ行えば、すぐに開発を始められるようにした。但し、条件があって、規定の期間内に開発を終える事と土地の所有権譲渡は認めないというものだ。
予約売渡許可地での土地開発期限内は使用税に関しては免税とする優遇処置も取っていた。当初の土地開発期限は、5町歩以下は4年以内、20町歩以下は6年以内、50町歩以下は8年以内、100町歩以下は10年以内となっていた。
流石に後藤もこの賀田の即答には驚きを隠せず、「賀田君、君はいつもそうやって即答するが、この件は今までの台湾日日新報や土匪問題等々とは違って、正に、命がけの仕事になる。金も莫大な投資が必要になる。下手をすると会社を窮地に追い込むことにもなりかねない。少しは考える時間が必要なのではないか。」と言うと、「閣下、私は常々、従業員達にも申して居る事がございます。それは、『人は生まれて来たからには、死ぬまでお国のために働く義務がある。』そして、『台湾で得た利益は台湾に還元する』でございます。この教えは、私の師でもある大倉喜八郎氏から学んだことでございます。東台湾開拓、どうかお任せください。」と賀田は後藤に向かって深々と頭を下げた。後藤は慌てて「賀田君、頭を上げてくれ。頭を下げるのは私の方だ。どうかよろしくお願いする。」と言って賀田の手を握り、固い握手を交わした。
賀田は、「台湾糖業奨勵規則」の規定に従い、「馬黎馬憩原野」の開墾を3年で成功させなければならなかった。
賀田組として立案した開墾計画は以下のようなものであった。
開墾に際し、人員不足を補うため、アメリカ製の新型農具を購入し効率をアップさせる。7頭曳、3頭曳の新型農具に加え、14頭の牛と33人の労働者を投入し、3年で開墾を完成させる。
当該開墾地域は雨が少なく、サトウキビの成長期である4月から9月は水が必要となる。そのために、灌漑用水の整備が必要である。木瓜渓(木瓜川)から用水路を引き込むと同時に、井戸も掘削する。そのために必要な人員は48名。
初年度(明治35年)2,184,000株
第二年(明治36年)5,241,600株
第三年(明治37年)3,572,400株
の計画で栽培を行うものとする。
総予算277,307円(現在の価値に換算すると約6億円)
120名の原住民を雇用し、初年度は、100町歩(約99ha)、翌年は500町歩(約496ha)を開墾した。開墾した土地に、さとうきび300町歩(約298ha)、たばこ20町歩(約20ha)、じゃがいも280町歩(約278ha)の栽培を始めたのである。
これは、事前に賀田が新渡戸稲造に相談に行き、花蓮の土地に最も適したサトウキビを選択してもらい、その結果、紅蔗となった。
また、牛を使った旧式の圧搾作業の効率をアップさせるために、オハヨー式圧搾機を台湾総督府より借り入れた。
当時のサトウキビ畑の面積は73甲(約71ha)、毎年の収穫量は約180萬斤(約1,080 t)、約354,000斤(約212
t)の分蜜糖を製造していた。
例えば、賀田組の主要農場の一つ、呉全城農場では、明治37年(1904年)の段階で、農場を6区画に分け1区画ごとに、主任助手1名、日本人農夫5名、日本人女性3名、台湾人農夫5名、原住民60名を配置していたが、人手はまったく足りない状況であった。
賀田組にとっては、製糖、製脳の安定供給、開墾のスピードアップ等々、東台湾地区での事業を軌道に乗せるには、どうしても人手が必要であった。
そこで、明治39年(1906年)、日本からの移民を募集したのである。これが、賀田村の開村で、台湾での日本人移民の歴史の幕開けとなる。
(1)日本から台湾までの交通費(船賃)は賀田組が全額負担するものとする。
(2)三人家族に対し6坪の家屋を提供、さらに、30円(現在の貨幣価値に換算すると約7万円弱)を貸し与えるものとする。また、家族が1人増えるごとに、家屋は1坪増し、貸金は5円(現在の貨幣価値に換算するとで約1万円)増しとする。尚、貸金に対する返済は、最初の収穫があった後、5年以内の返済とする。
(3)最初に作付けするための種、苗は無償にて提供。農具・牛も貸し与えるものとする。
(4)最初の収穫が得られるまでの生活費1日9銭、食糧として白米一日1.26升を賀田組より支給するものとする。
(5)医療費は無料とし、死亡時には見舞金として最高50円(現在の貨幣価値に換算するとで約10万円)を支給するものとする。
(6)各戸に1反の農地を与えるものとする。このうちに関しては、5年間、収穫物の50%を納めた者に対しては10分の1の権利を与え、地主権を得られるのもとする。また、土地賃料として、毎年5石の米を納めるものとする。
(7)主要な灌漑用水路の工事、補修は賀田組が行う。各農地への引き込み用水路は、各人で行うものとする。
この募集の結果、明治39年(1906年)5月、愛媛県農民50戸、福島県30戸、広島・福山11戸、合計91戸、483人が移民してきた。移民達は、呉全城53戸、164名、鯉魚尾276人、加禮宛43人と分けられた。
この様にして、台湾初の日本人移民村である賀田村がここに誕生した。
この賀田村誕生を誰よりも喜び、そして、賀田に心から感謝したのは、他でもない、後藤新平であった。後藤は、賀田村誕生を見届けて、同年10月3日に台湾を去り、東京へ戻り(9日到着)、11月13日に、南満州鉄道株式会社総裁を命ぜられる。この日勲一等旭日大綬章を賜った。同日、台湾総督府民政長官を免ぜられ、改めて台湾総督府顧問・関東都督府顧問を仰せ付けられたのであった。
賀田農場
芳誼会編 賀田金三郎翁小傳より引用
賀田製糖所
賀田金三郎研究所所蔵
【参考文献】
播磨憲治 知って欲しい 台湾を近代化に導いた人物 賀田金三郎
鹿子木小五郎 台東廰館内視察復命書
荒武達朗 内地農民と台湾東部移民村:『台湾総督府文書』の分析を中心
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