台湾近代化のポラリス 後藤新平と鈴木商店
「君たちもよく知っている様に、台湾の製糖業界、製脳(樟脳)業界で、鈴木商店の存在は非常に大きいものがある。鈴木商店の番頭である金子直吉氏のずば抜けた商才により、鈴木商店の台湾での地位は確固たるものになった。
この金子直吉氏にとっても、後藤新平民政長官との出会いが台湾での飛躍につながったと言えるだろう。」と賀田金三郎は賀田組若手従業員達の前で今日も、台湾統治初期時代の話を始めた。若手従業員の中で最年少の森は「鈴木商店って、賀田組にとっては競争相手ですよね。」と言うと賀田は「一見、その様に見られるが、実は決して競争相手ではなく、逆に、台湾近代化のためには鈴木商店の協力が必要だったと言えるだろう。
これに対し、金子直吉氏は、同業者に過当競争の非理を説いて回り、業者の立場から樟脳専売制の必要性を訴え続けた。金子氏は後藤回漕店・後藤勝造の引き合わせによって、台湾に赴任したばかりの後藤長官に面会し、「製脳事業直営は結構です。わしは長官の意見に賛成です」と明言し、その後、専売当局の祝辰巳局長と協力して反対陣営の切り崩しを図った。そして明治32年(1899年)6月、「台湾樟脳及び樟脳油専売規則」の発令に至ったのだよ。
そこで、金子氏は、競争相手が多い樟脳よりも、樟脳油の一手販売権を握ったほうが得策と考え、専売制施行後には、樟脳油を重要産物化した功績が評価され、鈴木商店が樟脳油の65%の販売権を獲得した。」と言うと森は「社長はどうして製脳油の販売権を得よとされなかったのですか」と素朴な疑問を投げかけた。
すると賀田は「後藤長官から樟脳専売制実現のために金子氏が動かれているとのお話があった。その際、後藤長官から『この制度が実現した暁には、どうか、金子氏と上手く付き合って欲しい。決して、商売敵同士にはならず、協力関係を築いて欲しい』と言われた。私はそのお言葉を聞いた時に、そうすることが台湾近代化への近道であると思い、後藤長官のお話に従うと決めた。森君、我々は商売人だ。商売人である以上、金を儲ける必要がある。しかし、私は、商売人としてどれほどお国のお役に立てる仕事が出来るかに重きを置いている。私にとっては、そちらの方が金儲けよりも大切なのだよ。」と笑いながら話した。
また、鈴木商店は、明治43年(1910年)に、嘉義庁の北港と月眉に同社にとっては最初の製糖会社である北港製糖を設立させた。実は、その前の年に、大日本製糖と政治家との贈収賄事件(日糖事件)が起こり、日糖に与えられた製糖区域に空白が生じ、これを埋めるべく、台湾総督府が鈴木商店に対して製糖工場設立の許可を与えたのだよ。
鈴木商店はこの北港製糖を中心に、内地資本による東洋製糖(明治40年(1907年)設立)、内地島内合同資本による斗六製糖(明治43年(1910年)設立)の株式を買収して3社を合併、新たに資本金1000万円、南靖、烏樹林、北港、斗六、烏日、月眉の6工場を擁する新式製糖会社東洋製糖を誕生させたのだが、この際も、満鉄総裁に任を終えられ、既に日本にお帰りになり、逓信大臣兼鉄道院総裁となられていた後藤長官、いや、後藤閣下より、私に『合併に協力してやってくれ』とお言葉があった。新式製糖会社東洋製糖の社長には、台湾銀行副頭だった下坂藤太郎氏が就任することとなり、私は監査役に就任した。」と賀田が答えると、森が「東洋製糖は、台湾、明治、大日本、塩水港とならんで台湾5大製糖と称せられる大製糖会社ですよね。でも、元を辿れば、社長が花蓮港廰賀田村(今の花蓮縣壽豐郷)に設立した賀田製糖所が全ての始まりですよね。流石、社長だ!」と言うと、仲間達から拍手が起こった。賀田は照れくさそうな笑顔を浮かべながら「まあ、私が賀田村を作り、製糖工場を作ったのも、全ては後藤長官との出会いがきっかけだったからね。」と言い、その当時の事を思い出していたのである。
【参考文献】
鈴木商店記念館 鈴木商店の歴史
播磨憲治 知って欲しい 台湾を近代化に導いた人物 賀田金三郎
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