東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 花蓮港小学校、花蓮女学校(歴史の生き証人)【花蓮縣花蓮市】

 歴史の生き証人  日本統治時代の花蓮で生まれ育った方々の証言

 【戦争に振り回された私の経歴 ~村山八重子さん~(20195月インタビュー)】

 昭和6年台湾東部の花蓮港(現在の花蓮)で生まれました。父(国田正二)の仕事がコーヒー栽培(住田珈琲農園)であったために、小学校入学までは今の舞鶴台地(瑞穂郷)で過ごしていました。

従業員と10名ほどの日本人の中で唯一の子供は私だけだったので、普段の遊び相手は、父の馬3頭、ワナに掛かって右手を失ったサル、どこから来たかはわからないが白い犬、そして、父が愛玩用に飼っていたアフリカマイマイでした。当時は無口で人見知りをする暗い子でした。環境がそうさせたのだと思います。

 昭和12年、山から下りて瑞穂小学校に入学、翌年13年には、花蓮港市(今の花蓮市)の花蓮港小学校に転校しました。その頃の街の様子はと言えば、支那事変が勃発、その後、連戦連勝が続き、旗行列、提灯行列が続いていました。

昭和16年、大東亜戦争が始まった年、小学校の校名が朝日国民学校に変わりました。

昭和18年、私が小学校6年生の時に、シンガポールで敗戦した連合軍の捕虜が、日本陸軍花蓮分屯大隊基地内の捕虜収容所に収監されることになりました。花蓮港に到着した捕虜のキング、パーシベル、ウェンライトの3名の将校達の隊列を日の丸の小旗を振りながら迎えました。3人の将校達の体格の良さ、立派な軍服姿に圧倒されました。この時、白人を初めて見ました。

昭和193月、花蓮港市立朝日国民学校を卒業。

同年4月、花蓮港市立高等女学校入学。この時の入試試験はわら半紙1枚に6課目が出題されていました。高等女学校1年の1学期は、親の着物をほどき、自分用のモンペ、作業衣、救急袋を作り、教練では、なぎなた、手旗、モールス信号を学びました。

1年の2学期になると校舎は兵隊さんの宿舎となりました。私達は、2時間毎に、寺やキャバレーを移動して勉強しました。キャバレーに行ったときは、ついつい珍しく探検などをして、先生に見つかって叱られました。この頃、沖縄戦に備えて、特攻機の飛行場が北埔と南飛行場の2か所になりました。

 昭和1910月中旬になると、突然の艦載機の波状攻撃が始まり、三日三晩の空襲で、夜中に線路を歩いて初音(今の吉安郷干城付近)へと避難しました。途中振り返り、燃える街を見たときは本当に悲しかったです。1週間後花蓮港の街に戻ると、町の半分は消失していました。校庭には、食糧増産のために芋が植えられていました。郊外の農場へ行ったときは、まずは、自分用のタコツボを掘ります。空襲の合間を見て農作業を行うのですが、B29が来るたびにタコツボに逃げ込み、ハラハラしながら空襲が終わるのを待ちました。

 動員の日は、飛行場の穴埋めです。作業は、擬装網葉をつけたものを被りながらの作業でしたが、その仕事も、日中はだんだんと危険になってきたため、日が暮れてからの作業になりました。また、時には、飛行場で飛行機を見送ることもありました。兵隊さんが飛行機に搭乗する前に、上官からお酒を注いでもらい、飲まれていました。その後、飛行機に乗り込み、出撃されるのですが、涙を流しながら見送っている上官や仲間の方がおられました。そう、特攻機の出撃だったのです。当時は何も知らされていなかった私たちは、それが特攻隊であるとは知りませんでした。

 昭和20年、学校は休校となり、私達も疎開することになりました。私の先輩がその時のことを次のように詠いました。「空襲に 命守れと朝礼に 疎開告げし 涙の校長先生」

 私の疎開先は花蓮港市の郊外で一軒家でした。母が日本人であることを知った学徒出陣の東京帝大の高久少尉、軍医の京城帝大医学部の広田中尉(韓国の方)が出入りするようになりました。私がマラリアを発病した時も、特効薬のキニーネを飲ませてくださり、全治しました。お二人は良く難しい話をされ、時にはドイツ語の歌リンテバウを歌ったりして故郷を懐かしんでおられました。

 昭和20815日、日本は敗戦。台湾人は戦勝国民になりました。

私の記憶では、何よりも黒い幕を外し、明るい電球を灯すことが出来たことが本当に嬉しかったです。明るくなった黒鉄通り(現在の中山路)は人であふれていました。

昭和2010月頃、戦勝国の蒋介石国民党が進駐。しかし、その国民党の兵隊のあまりにもみじめな恰好に驚きました。半ズボンに左右別々の靴。中にはゾウリ履きの者もいました。背中には鍋釜をぶら下げ、リュックには雨傘を刺し、列もバラバラで、本当にだらしない姿でした。祖国の兵を喜んで出迎えに行ったと友達でしたが、気の毒で、彼女の顔を見ることも出来ませんでした。

昭和21年、中華民国35110日、学校に全員が集合。最初で最後の記念写真を撮影、女学校二年修了の証書をもらって別れました。学校は日本人排除。校名も、台湾省立花蓮港女子中学となりました。

順次日本人の引き揚げ(強制送還)が始まり、3月末にはほとんどが終了しました。

しかし、私は、親の留用(台湾政府からの要請で、技術指導等々のために、台湾に留まるように命じられた日本人がいました)のために帰国出来なかった女学生のために、日本の大学を卒業した台湾人の方が元家政女学校だった成功中学への入学を薦めてくださいました。日本人は8名(内、沖縄出身者4名)でした。授業は中国語で、朝礼では青天白日旗を揚げ、三民主義を唱え歌いました。当然、中国語などわからない私達にとっては、授業の内容など全くわかりませんでした。当時は、国語の教師は中国人で、他の教科は、日本の学校を卒業した若い台湾人の先生でした。

昭和21129日、いよいよ私達の引き揚げが始まりました。同日に花蓮港を出港、基隆に集合させられました。基隆到着後、10日間ほどは倉庫に閉じ込められました。コンクリートの上にムシロを敷いただけの、広さは3帖ほどの場所でした。その後、船に乗り込み佐世保へと向かいました。佐世保入港後、まず最初にDDTを散布されその後上陸、さらに10日間ほど収容されました。

昭和221月、私は倉吉高等女学校3年に転入しました。当時は引揚者は学力が低く、1年落とされて転入させられたのですが、私の場合は、成功中学校の生成績証明がよく、さらに、ようかんを持参したおかげで、1年落とされずに転入できました。

昭和233月に倉吉高等女学校を卒業し、同年4月に新制倉吉西高校2年に編入、翌年3月に卒業しました。

戦争に翻弄され、大好きだった花蓮港女学校を途中で終えるしかなったことを本当に残念に思います。昨日まで日本語で勉強していたのに、いきなり、授業のすべてが中国語に変わる。昨日まで同じ日本人として友達だった台湾人の子との関係も、私が敗戦国民、相手が戦勝国民に変わった。戦争により全てが一瞬にして変わってしまった。

でも、たった一つ変わらないものは、台湾花蓮が私の故郷であるということ、私の母校は花蓮港女学校であるということです。

 

【津止玲子さんのお話し(1934年花蓮港市で生まれる)(20175月インタビュー)】

 花蓮への空襲が激しくなってきた頃の話。「只今避難命令が発令されました。山へ向かって避難を開始してください」と隣組の組長がメガホンで叫んでいました。私はその時、「ラジオから流れる大本営発表では日本の戦果は上がる一方なのに、何故、避難が必要なのか」と思いました。その時我が家では、母と姉と私だけが家にいたものですから、裏庭の防空壕に入っていました。母が「こんな真昼間に外に出るのは危険だからここに残りましょう」と言い、私達は壕に留まりました。この防空壕も直撃を受ければ終わりというお粗末なものでした。母の中には「どうせ死ぬのなら三人固まって」という気持ちがあったのでしょう。

私達家族の名前を呼ぶ声がしましたが、その声も次第に遠ざかっていった時の事でした。私達の防空壕に中学生だった兄が突然降りてきました。そして「お母さん!やっぱりここでしたか。皆避難しています。花蓮港沖に敵艦が並んでいるようです。いつ艦砲射撃が始まるかわかりません。今すぐここを出発します」と、それは、今までに見た事もない兄の真剣な顔でした。兄の迫力に押された母は家に入り何やら持ち出し、私達は防空頭巾を肩にかけて表に出ました。黒金通り(今の中山路)に出ると、大勢の人が山の方向へ向かって移動していました。通りには様々な人が居ました。老人、幼い子等々。特に、今でも忘れられない光景が、老人におぶられ、ぐったりした20歳ぐらいの娘さんの透き通る様な白い顔です。背負っている人、背負われている人、私はどちらの人も気の毒でショックでした。

山に向かった私たち三兄弟。兄を先頭に姉と私が長い一本の棒につかまり、母はそのスシロを真っ赤な顔をし、むせながら必死についてきました。やがて街はずれになり、一本道の両側はサトウキビ畑と田んぼのようでした。いずれも人が隠れるような繫みはなく、敵機が襲来すれば機銃掃射でイチコロなのは、火を見るより明らかでした。

そこへ飛行機の爆音がしたのです。誰かが「敵機だ」と叫び「畑へとびこめ」と言った。みんな次々に飛び込み始めた。中には両手で両目両耳を抑え、「伏せ」の姿勢を取っている人もいた。その時兄は「あれは友軍機だ。このまま進もう」と言った。兄は今で言う「飛行機オタク」で飛行機の種類を瞬時に見分けることが出来た。

 ともあれ、爆撃も受けず何とか山麓に近づいた時に、隣組の方たちに追いついて互いに喜び合った。山麓では浅い穴を見つけ、大人達が竹や木を伐り、屋根をかけ、皆が持ち寄った食料を出し合った。心が一つになった時の仲間は強い力を発揮する。避難の夜は、花蓮港市の右の方が漆黒の闇の中で紅々と燃えているのを眺めた。大人が「専売局がやられたな」と言っていた。

避難から三日目だったが、父がたくさんの食料を抱えて、私達の避難場所を探し当てて現れた時は、この上ない幸福感でいっぱいだった。私は今も、私の方に両手をかけた父の「破顔一笑」をくっきりと思い出します。


【国立花蓮女子高級中学校開校90周年記念式典に参列された竹内アヤさんの証言 2017年5月インタビュー】

私は昭和5年に花蓮港小学校に入学しました。当時の校舎は木造の平屋でした。 花蓮港小学校は一学年三クラスで、 男子組と女子組、 それと早生まれの組があり、男女一緒でした。 5年生からは進学の関係で、 男女は別の組になりました。私は早生まれの組でしたが、 クラスに一人、台湾人の女の子がいました。 男子組にも一人、台湾人の男の子がおりました。 内地人の学校である小学校に来る台湾人は、 お金持ちの成績優秀な子供たちでしたので、 誰も苛めたりせずに仲良く遊んでおりました。(当時、台湾人は公学校に通っていました)

小学校卒業後、花蓮港女学校に入学しました。当時の校舎は、煉瓦造りの平屋でした。 花蓮港高女は、 私が入学した時は一学年一クラスで、 一クラス 50人でしたが、 二、 三年後には二クラスになっておりました。 一クラスに 56人の台湾人の同級生がいましたが、 先住民のアミ族の人はいませんでした。 後になって、三年後輩に一人、アミ族の人が入っていたということを聞きました。

当時は、 まだ戦争の影響がなく、 英語も四年までありました。 裁縫や料理の時間もあり、 また作法の授業は大変厳しかったことが思い出されます。 私の組の担任は、 奈良女高師を優等で卒業した若い先生でした。 内地の出身でしたが、 外地に出てみたいということで、 台湾の高等女学校に赴任したのだそうです。 先生は、 後に台北の一高女に転任しています。

花蓮港高女の服装は、 セーラー服にスカートで、 夏服と冬服がありました。 また、帽子も夏帽と冬帽がありました。 靴は革靴でしたが、 カバンは肩に掛けるタイプでした。 ただ、 登校時と下校時とでは、 左右の肩に掛け替えて通学していました。 小学校の頃は、 高女生の姿に憧れたものでした。

台湾人の同級生は少数でしたが、 学校内では分け隔てなく仲良く過ごしておりました。 台湾人の同級生の家に遊びに行ったことがありますが、 大変立派な家でした。 その級友のお父さんは内地に留学したことのある人で、 開明的な人のように見えました。その友人は、 卒業後東京のドレスメーカーに進学しましたが、 帰ってくるたびに、 必ずお土産を持って来てくれました。 台湾に戻ってからは、 台北の富豪に嫁いだそうですが、 佳人薄命で若くして亡くなったそうです。

当時は、 男女交際が厳しく禁じられていて、 中学生は花蓮港高女の前を通ることは出来ず、 わざわざ遠回りをして通っておりました。 運動会や学芸会でも、 たとえ実の兄妹であっても来場は禁じられていました。


【情報】

花蓮港小学校は後に朝日国民小学校と名称を変え、戦後は、花蓮県立花崗国民中学となり現在に至る。

花蓮港女学校は戦後、花蓮女子学校⇒台湾省立花蓮女子中学⇒国立花蓮女子高級中学校となり現在に至る。尚、学校前には、当時の校長官舎が修復保存されています。


花蓮港小學校 毛利之俊撮影 國家文化記憶庫

花蓮港小学校と少年義勇兵 國家文化記憶庫 葉柏強先生所蔵



花蓮港女学校 國家文化記憶庫


 旧花蓮港小学校(現、花蓮県立花崗国民中学):花蓮市公園路 40

旧花蓮港女学校(現、国立花蓮女子高級中学校):花蓮市菁華街11

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