東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 花蓮港神社跡(忠烈祠)、台北刑務所花蓮港支所跡(自由広場)
【花蓮港神社跡(忠烈祠)】
1915年(大正4年)8月19日、花蓮港庁花蓮港市(現在の花蓮県花蓮市)に花蓮港庁の中心的神社として花蓮港神社が建立されました。
米崙川(現在の美崙川)を渡ってすぐの米崙山(現在の美崙山)の中腹に堂々と建っていた花蓮港神社には、北白川能久親王と開拓三神(大国魂命・大己貴命・少彦名命)が祀られていました。1921年(大正10年)3月2日には、県社に列格されました。
当時は、市内から吊り橋を渡って神社の山門まで行った。入口には軍人さんが警備に立っていたそうだ。当初、吊り橋は軍人のみが通行する事が出来たそうで、一般の参拝者は裏口から入るようになっていましが、後に、一般参拝者もこの吊り橋を利用する事が出来たそうです。
戦争中は、毎月8日に、近くの国民小学校、公学校、高等中学校の生徒達は必勝祈願のため学校から校長先生と共に参拝していました。
終戦後、鄭成功・劉永福・邱逢甲ら台湾の英雄を祀る祠となり、1981年に元の社殿は取り壊され、中国北方宮殿様式の美崙山忠烈祠が建設されてしまいました。
この門をくぐったら、少し左側へ移動すると、忠烈祠の立派な階段の横に、古びたコンクリートの塀とその上にコンクリート製の支柱の基礎の様な物が残されている。これが今も残されている日本時代の花蓮港神社の面影なのです。
さらに先に進むと、また立派な山門の様な建物がある。日本時代は、拝殿となっており、一般の人達はここから本殿に向って参拝をする様になっていました。
次の階段を上ると、今の忠烈祠。昔の神社の本殿があった場所となります。
忠烈祠に向って右側に、テニスコートがありますが、そのコートの前に、馬の銅像が残されています。これは、日本時代に建てられたもので、当時は、馬の鞍の部分に、金色の菊のご紋章(天皇家のご紋章)が付いていました。しかし、戦後は国民党の紋章に換えられてしまいました。
日本時代の面影はほとんど残していない忠烈祠。社殿を取り壊わさず、せめて別の場所へ移築するなりして残しておいて欲しかった。残念で仕方ありません。
今は建物だけは立派ですが、参拝する人もほとんどいない。台北の様に衛兵の交代式もありません。
【台北刑務所花蓮港支所跡(自由広場)】
花蓮港神社跡の前の道(林森路)をまっすぐに進みます。橋を渡り、さらに直進。左手には花蓮市役所があります。当時は、この市役所の対面に、天理教の布教所がありました。市役所を通り過ぎ、さらに進みますと、中山路へと出ます。
ここは、1937年(昭和12年)に出来た「台北刑務所花蓮港支所」の跡。
1935年(昭和10年)に創建され、工事は第三期工事まで予定されていたが、第二期工事が終了した段階で、物資不足となり、第三期の工事は行われないまま終戦を迎えました。
当時、セメントは非常に値段が高騰しており、刑務所の塀も、石を多用し、セメントの量を減らしたそうだ。その痕跡は切断された塀を見て頂ければわかります。
刑務所の面積は9,885㎡(約2,995坪)と広く、市内にこれ程まだの広大な土地を文化資産として残すことを決めた花蓮県政府と花蓮市政府に感謝するばかりです。日本ならば、市内にこれほどまでの広大な土地があったならば、間違いなくビルが建つでしょう。
その後、空き地として放置されていましたが、その歴史的価値を保存すべきであるという動きから、2014年に「自由広場」として公園整備された。刑務所の跡地が自由広場とは何とも皮肉な名前である。
公園には自由を表現した作品が展示されていますが、芸術的センスのない筆者には今一つ良くわかりません。最初は、工事現場の測量をやっているのかと勘違いしたほどだ。また、花蓮に住む原住民6部族の柄をデザインした建物もあります。
*花蓮忠烈祠(元花蓮港神社跡):花蓮市林森路・尚志路交差点
*自由広場(元台北刑務所花蓮港支所):花蓮市中山路408號之1
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