東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編 水道局、元日本陸軍花蓮分屯大隊基地、将軍府 【花蓮縣花蓮市】
【水道局(台灣自來水公司第九區管理處)】
松園別館を背にして歩き出すとすぐに、「台湾自來水公司」が左手にあります。ここは日本統治時代に出来た水道局。
敷地内の松の木は、日本時代の物で、樹齢100年以上の立派な松の木もあります。門を入ると正面に立派な松の木がある。これも日本時代に植樹されたもの。全て日本時代からの生き証人達。開拓当初の日本人の苦労、活気にあふれていた花蓮港の街(当時、花蓮は花蓮港と呼ばれていた)、この前を颯爽と歩く将校さん達の姿、アメリカ軍からの爆撃を受ける花蓮港の街、お国のために、自らの命を捧げる特攻隊員達の姿、そしてあの日、将校さん達の背を最後に見送ったのもこの松の木達だった。
敷地内へは自由に入れるが、長居していると注意されることもあるので、写真撮影を終えたらさっさと次の目的地に出発しましょう。
旧日本軍は第二次世界大戦中、台湾に15カ所の捕虜収容所を設け、捕虜の数は4350人にのぼり、特に花蓮港分屯大隊基地には、米、英、オランダなど連合軍の階級の高い軍人が収容されており、収容所に収監されていた捕虜の待遇はよかったそうです。庭で自由に絵をかいたり、花壇をつくったりしていたとの記録が残されています。
また、同じく花蓮県の玉里鎮と秀林郷でも収容所跡が見つかっています。
実はこの場所は、日本統治時代に花蓮港分屯大隊基地所属の将校さん達の官舎だった場所。戦後、地元の人々のご尽力により、当時の姿をそのまま残していました。
以前から将軍府の保存、維持については議論が交わされていました、遂に大改装が決定したのですが、まさかと言うか、やっぱりと言うか。もう少し、歴史的建造物の存在意義というものを重視して欲しかったというのが、筆者の正直な気持ちです。
将軍府内には、当時の防空壕が残されています。
中央の通りを挟んで左側が上級将校達の官舎。右側が一般将校達の官舎となっていました。建物の外壁に2本の長方形の筒があります。これは、左側が風呂、右側がキッチンの煙突でした。また、建物の基礎にも注目してください。かなり基礎が高くなっています。これは湿気を防ぐための工夫で、湿気対策はこれ以外にも、天井部分にも風窓が作られていました。
細い道を突き当りまで行くと、美崙川が流れている。左手の山の上には松園別館が見える。この美崙川、満ち潮になると、海の魚も入ってくるそうで、淡水魚、海水魚の両方が釣れます。
この将軍府の敷地内に入った瞬間、彼らの顔は父親の顔、夫の顔に戻っていたに違いない。嬉しそうに父親を出迎える子供達。そして、今日も無事だったことを心から喜ぶ妻。ここに日本人達が生きていたのです。生活をしていたのです。
そして迎えた終戦の日。将校達はどの様な思い出基地へと向かったのか。そしてそれを見送る妻子の気持ち。
そんなことを少しでも感じてもらえれば嬉しいです。
当時、壽国民小学校(今の壽豐郷)に通っていた伊是名秀良さんの証言によると、朝、学校に行くと先生から「今日は今から、花蓮港(花蓮市)に行きます。」と言われ、日章旗の小旗を全校生徒に配られ、訳の分からないまま花蓮港へと向かいました。昼過ぎに到着すると全員が一列に道路際に整列させられました。
しばらくすると、軍用車の車列がやってきました。先生の掛け声と共に、全員で日章旗の小旗を振りながら「万歳」と。すると一台のジープに乗った外国人が沿道の人々に手を振りながら通っていき、基地の中へと入っていきました。私はその時、生まれて初めて外国人を見ました。
後で知ったのですが、その外国人はイギリスの将校で花蓮の捕虜収容所に収監された第一号の捕虜、リチャード少佐だったそうです。
学校に戻ると先生から「祝捕虜収監」と書かれたゴム製のボールをもらいました。
今になって考えると、捕虜として囚われたにもかかわらず、リチャードさんは笑顔で沿道の人々に手を振っていたとは、実に奇妙な光景だったのだと思います。
(故国田宏氏提供)
花蓮港分屯大隊炊事場
(故国田宏氏提供)
改装前の将軍府
*将軍府:花蓮市中正路622巷6號
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